第37話 愛の試練・下
ラトは小屋の周りで見聞きしたことをレガリアの力で再現してみせた。
狩猟小屋の裏口の周辺が大きく映し出される。
イライジャたちの証言通り、窓が割られていた。
そこはちょうどキルフェが寝起きしていた部屋の窓にあたる。彼女はほかの患者たちと自分の生活空間を分けていた。小屋の裏口には、患者の汚れた衣服などを焼くことができる小さな焼却炉だけしかなく、森の入口側からは完全な死角だ。
彼女が侵入してきた暴漢に抵抗して刺されたのだろうことは、どうやら間違いなさそうだ。
窓の下には男の靴の足跡があり、森の奥に逃げ去ったが足跡は途中でかき消えて最後までは追えなかったようだ。
まさしく忽然と消え去ったのだ。
「森の中でひとつ気になることがあった」
レガリアが緑色の植物の群生を映し出す。葉は濃い緑だが、つるはリム病患者の肌のように不気味な紫色をしている。
「ムラサキツルイモという蔓性植物だ。極めて強い毒性がある。だが、この地方で自然に生えるものではない」
「それは祖父が植えたものだ」
クリフは吐き捨てるように言った。
奸計や裏切りだけでなく、毒の扱いはハゲワシのイエルクの得意とするところだった。森の周辺には、これ以外にも強い毒を持つ植物がいくつか植えられている。
イエルクは生前、戦という暴力だけでなく毒の恐ろしさを隠し持つことで砦の支配者として振舞っていた。その恐怖は敵だけでなく息子オスヴィンまでもを押しつぶしてしまったほどだ。
「注意したほうがいい。蔓の一部が鋭利な刃物で切り取られていた……」
ラトが画像を拡大する。
たしかに、つるの一部が切り取られて滑らかな断面を晒しているのが見てとれる。その表面から染み出している汁は一滴で意識を失い、呼吸困難に陥るほどの毒性を有していた。
「もしかすると竜人公爵に手紙を送られたことと、キルフェが刺されたことは何か関係しているんじゃないか?」
クリフが訊ねると、ラトは深く思索の海に沈んでいるようで目を閉じたまま何も答えなかった。
*
キルフェは傷が原因の高熱を発したが、翌日には下がった。
それが幸いだったかどうかはわからない。なんと、彼女は怪我をした体を引きずるようにして狩猟小屋に戻っていってしまったのだ。当然、周囲の者はみんな止めたが、彼女が行かなければ病人の世話をする者がいなくなると言い張って聞かない。あまりにも意志がかたく、止めようがなかったのだ。
ラトとクリフ、そして三人の老人と、みずから志願したエセルバードが交代で小屋の周囲を見張ることになった。
その間にペリドット家からの返信が砦に届けられた。
ペリドット家の家長ジェイネルの名で届けられた手紙は二通あり、一通はオスヴィンに向けたもの。ラトとキルフェの突然の婚約を戸惑いを持って受け入れ、しかし喜ばしく思う、というあたりさわりのない内容であった。
「パパ卿が直接、支度金を持ってきてくれるようだよ。もうこちらに向かっていて、予定通りなら明後日あたり、一番近くの町に到着するだろう」
ラトとクリフは森の中に陣取り、キルフェのいる小屋を見守っている。
キルフェはまだ塞がっていない傷を抱えながらも懸命に働いている。クリフにはそれがもどかしくて仕方がなかった。彼女が井戸から水を組み上げ、額に脂汗を浮かべながら運んでいるとき、そばに行って荷物を肩代わりすることもできないのだ。
何度目をこすっても、今のクリフのそばにいるのは、優しく献身的なキルフェではなく、無邪気で何を考えているのかわからないラト・クリスタルなのである。
「ラト、頼むから、フリだって言ってくれ。今まで何か考えがあるんだって黙って見ていたが、これはひど過ぎる。キルフェと結婚する予定なんてないんだろ?」
「どうしてそう思うんだい?」
「俺たちは竜人公爵の使いでここに来ただけだ。暗号文の意味を解くのがお前の名探偵としての仕事だ。ペリドット家の嫡男の芝居をして、キルフェと結婚しようとするなんてわけがわからない」
「わけがわからなくなんてない。これが最善の道だ」
「いいや、わけがわからない。何度も言うようだが、どうしてそれが竜人公爵の暗号に繋がるんだ」
「じゃあ告白するけれど、彼女との婚約は竜人公爵の依頼とは関係ない。だが、他ならない僕自身の意志でキルフェ嬢との結婚を望んでいるのは確かだ」
ラトはすんなりと認め、頷いた。
「まさか、お前もキルフェを本気で愛しているなんて言い出すんじゃないだろうな」
「愛は――とくに男女の愛情というものは、僕には理解できない。たとえば、僕はパパ卿のことを親しく感じているし、パパ卿も僕のことを愛していると思う。だけどそれは愛そのものではない。僕に見えるのはこの世界に存在している物理現象だけだ。木々がそよいでいるのを見て風を感じ、光の暖かさを感じて太陽のことを思う、ただそれだけのことなんだ。パパ卿が僕のことを優しく見つめるまなざし、声のトーン、触れる力の強さから、愛情らしきものを読み取っているだけ。愛情そのものを見たことはないし触れたことさえない。そんなもの、理解しようがない」
あの日、とラトは言った。
「キルフェ嬢が刺された日、僕はオスヴィンを部屋から引き出すためにちょっとした入れ知恵をしたんだ。キルフェ嬢との婚約をお決めになるのは家長の貴方です。ですが、エセルバードはそれでは納得しないでしょう…………ってね」
子爵はキルフェのことを愛していると言った。愛ほど難解で理解不能な概念はない。それは人を理不尽な行動に駆り立て、合理性を失わせる。エセルバードは、たとえオスヴィンが正式な婚約者をラトだと決めたからといって諦めることはない。
より良い条件を求めるオスヴィンはその対応に頭を悩ませているはずだった。
「だったら、キルフェ嬢本人に決めさせればいいと言ってやったんだよ。僕か、エセルバードかをね。エセルバードが真実の意味でキルフェを愛しているんだとしたら、彼はキルフェ嬢の意見を尊重するはずだ」
その後の展開は父親の性格というものをいやというほど熟知しているクリフにも想像がついた。
エセルバードは本当にキルフェのことを愛しているかもしれないが、オスヴィンは単なる利己心のかたまりだ。キルフェのことを金の卵を産むガチョウだとしか思っていない彼は、彼女の意志を尊重するなんてしない。
オスヴィンがひそかに小屋に行ったのは、キルフェに、婚約者としてラトを選ぶよう迫るためだ。
キルフェが自ら選んだのだと言えばエセルバードは引き下がる。オスヴィンも家長としての面目が立つ。キャストライト子爵家との関係は悪くなるだろうが、自分の手で無理やり婚約破棄させるよりもマシだ。
しかしオスヴィンのたくらみが成功するよりもはやく、誰か知らない第三者がキルフェを刺し殺そうとした。
「父親を利用した僕が言うべきじゃないかもしれない。だが言うよ。クリフ君、ほかならない君のために言うんだ。彼女はここにいてはいけない。僕は愛情がわからない奴だけど、彼女を必ず幸せにすると誓うよ」
「決めるのはキルフェ自身だ」
そう答えると、何故かラトは傷ついたような顔をした。
クリフの言葉がナイフになって、今まさにラトを切り裂いたのだと言わんばかりの顔つきだ。
満点の解答ではないと自分でもわかっている。
それでもクリフは何と言えばいいのかわからなかった。
エセルバードも、ラトも方向性は違うもののキルフェの身を案じていることには変わりない。しかしクリフだけが態度を決めかねている。
まるで十四歳のあのときのままだ。どうか無事でいて、というその声だけを胸に道端に放り出された子供のままだった。
*
証拠もなく、ラトの観察眼をもってしてもキルフェを襲った者の犯人はわからないままだった。
そしてエセルバードとラトの仲は決定的なまでに険悪になった。
おそらく、あの夜オスヴィンがなぜ狩猟小屋に行ったのか、彼にもおおよその見当がついているのではないかと思われた。
オスヴィンは、ラトとラメル婦人がキルフェの看病をしたことを理由に食事や生活の場をしばらく分けることにしたが、それでも廊下ですれ違ったときなど今にも刺し殺さんばかりの異様な目つきでラトを睨んだ。
けれどもこの対立は思いがけない形で終止符が打たれることとなった。
夕食時に、キルフェが館に現れたのである。
彼女は白金の髪を右肩に流し、ゆるく三つ編みにして、編み目に白い菫を飾っていた。
銀色の刺繍が施された白い昔風のドレスをまとい、手には純銀製の杯を手にしていた。おしろいを施した肌は輝かんばかりで、水色の瞳は清らかな湖のように光を放っている。どんな逆境でも、病人たちを見捨てなかった強い意志の光だ。
「ラト様。お兄様。どうか一緒にいらしてください」
彼女はそう言ってラトとクリフ、そしてラメル婦人を呼び出し、食堂にいたオスヴィンやエセルバードたちの元に連れて行った。
室内に入ってきたキルフェの姿をみて、オスヴィンやエセルバードは席を立った。
もちろんオスヴィンは病への恐怖から、エセルバードは紳士の礼節としてだろう。
クリフは妹が何をしようとしているのか、固唾を飲んで見守ることしかできなかった。そこにいるのは、か細く未来を何一つ自分の手で選ぶことのできない十三歳の少女ではなかった。美しく、そして強く成長したひとりの女性だ。
「お父様、お兄様方、キャストライト子爵様。こうしてお目見えするのは久しぶりでございます。砦に大切なお客様がいらしているというのに、ご挨拶もできず、不躾なまねをしましたこと、どうかお許しくださいませ」
キルフェはそう言ってラトに謎めく眼差しを送った。こんなにも強い光をはなっているのに、だれにも本心を決してのぞかせない瞳だった。
「いまさらこうして小屋から出て参りましたのは、実はラト様が私との結婚を望んでいると聞いたからです。申し出をうれしく思います」
ラトはひとりの紳士として、彼女の眼差しを受け止める。
「ご存知の通り、わたしは既にキャストライト子爵エセルバード様という許嫁がいる身です。いかに侯爵家の方のお申し出とはいえ、イエルクおじい様がお決めになった婚約を簡単に反故にすることはできないでしょう」
エセルバードが緊張のあまり、つばを飲み込むのが遠くからでも見てとれた。
この場にいるだれもが、神秘的な美しさを放つキルフェの一挙手一投足に見入っている。まるで女神の託宣を待つかのごとくだった。
「しかし――イエルクおじい様は戦の天才ではありましたが、預言者ではありませんでした。今このとき、わたしが何をしているかまでは見通せなかったのですから。みなさま方、わたしは困難を乗り越えました。小屋に侵入した何者かに刺されたとき、死を覚悟し、そして強く思ったのです。この逆境は女神が与えた試練だと。女神はお試しになっておられる。キルフェ・アンダリュサイトがこれを乗り越えて、なおも苦しむ人々のために奉仕することができるかどうか……。ご存知のとおり、わたしは試練を乗り越えました。この先も、命が絶えるまで人々のために働く覚悟です。暴漢の刃ですら、この歩みを止めることはできません」
清らかに澄んだ声が、高らかに宣言する。
「ですから、わたしの夫となる方は、女神がくだされた運命に共に挑み、乗り越えてくださる方でなければなりません。病魔への恐れにともに立ち向かい、克服し、貧しさを分かちあい、それでもわたしを愛してくださる殿方でなければならないのです」
彼女は食事のテーブルに手を伸ばし、飲みさしのワインのびんから手にした器に中身を注いだ。
「お集りの方々、どうかご照覧あれ! キルフェ・アンダリュサイトの夫は、このワインを共に飲みほしてくださる方です。病人の汗を拭き、糞便を捨て、腐り落ちた皮膚がこびりついた包帯や衣服を焼き捨ててここにきた、煤塗れのこの手から杯を受け取り、飲み干した殿方だけが、わたしと共に人生を歩むでしょう!」
あまりのことに誰もが圧倒されていた。イエルクの血は、血の繋がりを飛び越えて彼女に注がれたのだとしか思えなかった。
彼女は杯から一口、ワインを飲むと、その器を差し出した。
まずはエセルバードへ。
エセルバードはためらうことなく一歩進み出て――――。しかし、二歩目を踏み出すことはなかった。
瞳がどうしようもない戸惑いに揺れているのがわかる。その目には美しく着飾ったキルフェが見えている。だが、見えているものはそれきりではない。彼の目には、はっきりとキャストライト子爵家の未来がうつっていた。
彼は目の前の女性を確かに愛しているが、しかしそれ以外にも引き受けねばならない責務があるのだ。
キルフェは彼の惑いを責めなかった。ただ微笑み、すべてを受け入れた。
そして、ラトのほうを振り向いた。
振り向いた先に既にラトの手が待ち構えていた。
ラトの手のひらが器ごとキルフェの手のひらを包みこむ。
「レディ・キルフェ。貴方の未来と過去、運命のすべてを受け入れます。僕が恐れるのは悪によって真実が隠蔽されること、そして世の中の尊い光が絶えてしまうことだけです。すなわち、あなたのような奉仕の心――そしてあなたの兄君が持つような類まれな誠実さが損なわれ、失われることだけ。名探偵はそれを防ぐためにこの世に存在するのです。どうか、僕と結婚してください」
ラトは何のためらいもなく器を受け取る。
残りのワインを飲み干そうとしたその瞬間、キルフェの体が揺らいだ。
咄嗟にラトは器から手を離して、か細い体を抱きしめた。
キルフェは苦しげに体を二つ折りにし、唇から血の混じった泡を吐いた。
その体は彼女の意志から離れて激しく痙攣する。
「ムラサキツルイモの毒だ!」
ラトが叫んだ。
クリフもはっと我にかえる。
「誰か、ほかにワインを飲んでないか!?」
オスヴィンやイライジャが青ざめた顔で首を横に振る。
いつ仕込まれたのかわからないが、貧乏な砦では、そうそう新品のワインが空くことはない。毒を注ぎ入れるのは実に簡単だ。
「誰も食卓に近づくんじゃないぞ! 何に毒が仕込まれてるかわからない!」
「クリフくん――。おそらく、器だ」
銀色の杯の、キルフェの唇が触れたあたりが黒ずんでいる。
誰かが、杯に毒を塗ったのだ。これは、オスヴィンたちのテーブルで使われている杯と全く同じ形のものだ。しかし食卓にある杯は変色していない。
「いったい、誰が?」
「君か、エセルバード!? 彼女が自分との婚約を破棄すると思って刺し殺そうとし、失敗したから毒を仕込んだのか!?」
キルフェの介抱をしながら、ラトが突然、大声で怒鳴った。エセルバードは戸惑い、うろたえ、慌てふためいた。
「わっ、私じゃない……! ちがうんだ、信じてくれ!」
キルフェがいっそう苦しんだ。
「クリフくん水だ。いますぐ毒を吐かせなけりゃならない。水を用意してくれ!」
「ぼっちゃん、これをお使いなせえ、いましがた井戸から汲んできたばかりですじゃ!」
三人の老人のひとり、チビが木桶を手にやってきた。
老兵の姿を視界に入れれば、いやでも思い出してしまう。
イエルクは戦の際、毒を使うことを厭わなかった。敵を倒すためなら、たくさんの犠牲が出るとわかっていて村の井戸に毒を注いだ。
イエルクは残酷で、その残酷さが息子オスヴィンの心を歪んだものにした。
クリフにもその血が流れている。竜人公爵にいたぶられている仲間を見殺しにしようとした血だ。砦に背を向け、別の姓を名乗ったとしても、その冷酷な歴史、悪鬼の血からは逃れられない。その流れ着く先にキルフェがいて、血の繋がらない彼女をも飲み込もうとしている。
クリフは木桶の中に手を差し入れ、水をすくい、口元に運んだ。
キルフェ・アンダリュサイトの夫は、
――――このワインを共に飲みほしてくださる方です。
冷たい井戸水が喉の奥を流れ落ちて行くそのとき、毅然としてそう言い放つ彼女の声が記憶の中からよみがえり、はっきりと聞こえてきた。
どうか無事でいて。
どうか、ここからふたり、遠く離れたとしても無事で……。
別れた時、クリフも同じことを願った。
その願いはいまも変わらない。




