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第36話 愛の試練・上


 ラト・ペリドットはたちまちオスヴィンと意気投合した。

 あたりまえだ。ラトに本気でキルフェと婚約するつもりなんかない。あくまでも偽の求婚者なのだ。キャストライト子爵とちがい、何の責任も持たないラトは花嫁の父親が提示するありとあらゆる条件に、ハイハイと適当にうなずいていればいいのだ。

 ラトが騙そうとしていることになど思いも至らぬらしいオスヴィンは、すっかり気を良くしている。ささやかながら夕食には肉が出て、ワインも振る舞われた。

 調子に乗ったオスヴィンのことを良く思わないのはキャストライト子爵である。オスヴィンは明らかに子爵こそが正式な婚約者であることを忘れかけていた。それどころかラトとキルフェの婚約の邪魔者だとさえ考えていたことだろう。

 しかしそのおかげでラトはまるで砦の主になったかのように振舞うことができた。

 どこに行って何をしていてもお構いなしである。普通なら、砦の内部をどこの馬の骨とも知れない奴に歩かせるのは問題だが、誰もその危険性に気がついていなかった。

 そしてオスヴィンたちが完全に油断している間に、ラトは目的を達成しようとしていた。すなわち、筆跡の採取の件である。

 ラトはラメル婦人やイライジャやエメリーを順番に誘って、クロスワードパズルに興じた。パズルはラトの手製であり、解答欄に記入する文字列は暗号文に記載された文字と同じものが必要なだけ採用されている。やや難関かと思われたエセルバードも「こんなものも解けないのか」と言うと呆気なく文字を書いて寄越したので、文盲の使用人を候補から外すとしても、あとはオスヴィンとキルフェの筆跡を手に入れるだけだった。

 キルフェは相変わらず小屋で病人たちの世話をしている。

 オスヴィンはというと日中のほとんどを仕事部屋に籠って出てこなかった。出てくれば、エセルバードがやってきて激しく文句を言うからだ。叱責がいやになったのか、やがて食事の席にすらめったに姿を見せなくなり筆跡の入手は意外に難航したのである。  

 そこでラトが一計を案ずることとなった。

 もちろん、砦に火を放つのはクリフが拒否した。

 よってラトにできたのは、昼間うちに城主の部屋を訪ねて行くことだけである。

 彼はしばらく話し込んだあと何でもないような顔をして、滞在中の部屋として割り当てられた客室に帰って来た。


「どうだった?」

「今夜、オスヴィンは部屋を空けると思う。そのまえに、僕はキルフェ嬢とお話しして来ようと思うよ」

「なぜだ?」


 クリフの言う何故だ、という言葉は、あれほどエセルバードを警戒していたオスヴィンが部屋を空けるということと、ラトが直接キルフェ嬢と話すと言い出したことの両方についてだった。

 ラトはじっとクリフを見つめた。ただ見つめただけではない。

 お互いの瞳を覗き込み真正面から見据えたのだ。ものの一秒でクリフは不快になり顔を歪めた。


「殴るぞ」

「殴られたとしても、僕は彼女と話さなくちゃいけない。いちおうは求婚者なのだからね」

 

 キルフェの小屋へと向かう途中、ラトは今夜、オスヴィンを部屋から誘い出す仕掛けについて話した。ラトはオスヴィンの部屋にいって、もしも婚約が成立したら、莫大な額の支度金と債権の買い取り、そしてゆくゆくはキルフェに領地の一部を譲渡することを約束したと話した。

 もちろんあくまでも口約束である。契約書にサインをするのはキャストライト子爵がキルフェのことを諦め、婚約を破棄してからだと念を押してある。

 そのかわりに大きな緑玉がはまった金の指輪をオスヴィンに贈ると、父親は気を良くして細かいことを忘れてしまったらしい。


「どうしてオスヴィンが部屋を留守にするんだ?」

「それは開けてのお楽しみのびっくり箱さ。それよりも気がついているかい? 僕らのうしろにいる気配。あれは、かわいい森のおともだちかな」

「キャストライト子爵だろう」


 尾行はあまり上手くないようだが、彼は森の入口で立ち止まったまま、その奥には入らなかった。彼も病が怖いのかもしれない。

 小屋の形が見えてきたところでラトはクリフに合図して言った。


「君もここらへんにしておいたほうがいい。僕は直接行って声をかけてくるけれど」

「病気が怖くないのか?」

「僕にはうつらない」


 ラトは前髪や服装を正しながら、自信ありげに言った。


「リム病にかかったことがあるのか?」


 リム病は恐ろしい流行病だが、一度かかった者は二度とかからないと言われている。


「まあ、そんなようなものだね」


 ラトはそう言って、小屋に歩いていく。

 ラトはキルフェを小屋の外に誘いだした。

 風向きからして、会話は聞こえてこない。

 ラトなんか、三秒とたたずに女性を怒らせる天才だと思っていたが、案外うまくやっているらしい。クリフは数年ぶりにキルフェの笑顔をみることができた。


 遠くからではあるが――それは懐かしい微笑みだった。


 クリフは無意識に髪飾りに目をやった。

 何の変哲もない、植物の汁で黄色く染めた端切れだ。それを結んでくれたのがキルフェだった。砦を出る前の日のことだ。

 何故連れて行かなかったのだとエセルバードは問いかけたが、じつはクリフは砦を出ると決意したときキルフェを誘ったのだ。

 この砦を抜け出して共に来てほしいと。

 けれど、キルフェは首を縦に振ってはくれなかった。彼女は昔から頭がよく、クリフと共に行けば自分自身が足枷になると承知していた。エセルバードとオスヴィンが血眼になって自分を探すだろうと。

 だからキルフェはクリフにささやかな贈り物をして「どうか無事でいて」と願いをかけた。

 あのときは見捨てて行くしかできなかった。でも、今ならどうだろうか。

 キルフェの姿を見ると、いまだにそんな未練がましい気持ちが湧いて出た。

 ラトは彼女にクロスワードパズルを渡すと、坂道を戻ってきて過去の後悔にとらわれているクリフにとんでもないことを口にしてみせた。


「クリフ君、僕は彼女に求婚したよ」

「……なんだって?」

「返事はまだだが、これは本当に、本物の求婚だ。クリフ君、僕は彼女と結婚する。ペリドット家に使いを出して三日もすれば、パパ卿が支度金を用意してくれるだろう。君は何も心配することはない」

「冗談……だよな……?」


 以前にもラトは冗談で「クリフ君の妹と結婚する」などと(うそぶ)いたことがあったが、これはまさしくあのときの悪夢の完全なる再来であった。





 その夜、ラトが言ったことは真実になった。結婚のことではない。

 オスヴィンが深夜になって外出したのである。窓からこそこそと息子二人を引き連れて小屋の方角へと歩いて行くのが見えた。

 あまりにも遅い時間だ。

 それを待ち構えていたラトとクリフは仕事部屋へともぐりこんだ。

 オスヴィンのその部屋はイエルクが使っていた部屋でもあり、砦の他の場所よりも往時の面影を残している。

 部屋にはイエルクと、その奥方と思しき人物の肖像画が掲げられていた。

 赤毛の貴婦人が正面を向き、イエルクは鋭い眼差しを真横に向けている。

 その厳しい視線は妻を通り過ぎてハゲワシの家紋が描かれたタペストリーに向かっていた。客間に飾られていたタペストリーと同じものだ。

 ラトは部屋をくまなく歩き回り、小窓の前に立ち止まり、その表面のざらつきを指で撫でとる。


「調べるなら早くしろ。オスヴィンはあれで案外、神経質な性格なんだ。何か盗んだり、物の配置が変わっていたりすればすぐに気がつかれてしまう」


 書簡をまとめて入れた引き出しを調べながらクリフが言う。


「臆病で繊細。厄介な性格だね」

「小賢しい変態と同じくらいな」

「それって誰のこと?」


 封の開けられた手紙や書類の束から、ラトは書き損じた便箋(びんせん)を抜き出した。便箋を裏返すと、ざらりとした不快な感触がある。


「この便箋、裏に糊がついている。すっかり乾いているけれど、これは糊だと思う」

「それがどうかしたか?」

「窓にも糊がついていた。この屋敷の掃除はいつ誰がしているの?」

「キルフェがしなけりゃ、誰もしないだろう。オスヴィンはノッポたちを嫌ってる」

「筆跡の持ち主が誰かがわかった。オスヴィンだ」


 ラトはクリフにオスヴィンが書いた手紙と竜人公爵に送られた暗号文を並べてみせた。

 確かに二つの手紙の字は似ている。

 しかし、似すぎている。


「なんだって親父が、こんな手紙を竜人公爵に……。とうとう気でも狂ったのか」

「いいや……。君のお父上は確かに精神錯乱の兆候を見せているけれど、これは別人の手によるものだ。見てごらん。二つの便箋には同程度の黄変がみられる」

「黄変?」

「紙の繊維が日光を浴びたせいで化学変化を起こし、黄色から褐色に変化する現象、つまり日焼けだ。僕が考えるに、この暗号文はこんなふうに書かれたんじゃないかな」


 ラトは便箋を手に先程の丸小窓へと近づいた。糊のついた書き損じを窓に貼り付け、そして暗号文をその上に重ねる。

 これが真昼であったなら、強い光が紙を透かしてみせたはずだ。

 二枚の紙を重ねたままランプの光にかざすと、その字がぴったりと一致する。


「筆跡から特定されるのを恐れた誰かが部屋に忍びこみ、字を書き写したのか!」

「そう。しかも字を写し取るには、真昼の陽光が必要だ……。そうなると、手紙はこの館にいる誰かが書いた可能性が高い」


 守りの薄いとはいえ、小さな砦にしのびこみ、誰にも見つからずに書き損じた便箋の文字をうつしとって出ていく……。そのようなことを完遂させるためには、砦の事情に精通していなければならない。便箋を元にもどしたのは神経質なオスヴィンに侵入を悟られぬようにするためだろう。城主の気質をよく知っていることからも無関係な人物の犯行は考えにくい。


「ラト、もったいぶらずに教えてくれよ」

「何をだい?」

「いつもの具合なら、そろそろこの暗号文の意味がわかったとか言い出す頃合いだ」

「暗号文の意味? ――残念ながら、それは僕にもわからないよ」


 そう答えたラトの目は窓の外に動く人影を見つけた。

 それは慌てふためきながら使用人小屋から松明を持ち出てきたノッポたちだった。

 ただならない雰囲気を感じ取り、クリフとラトは急いで館の外に出る。


「ぼっちゃん! キルフェお嬢様が倒れた!」


 ノッポが叫んだ瞬間、クリフは駆けだした。

 森には館の住人が勢ぞろいしており、狩猟小屋に続く小道の途中に立ち尽くしている。彼らの視線の先には、倒れ伏したキルフェ嬢の姿があった。

 焚火のそばに倒れたキルフェ嬢の腹部は真っ赤に染まっていた。


「僕が行く。心配ない、僕には医学の知識がある」


 ラトは小屋への道を駆け降りていく。

 そのあとから、チビとノッポが担架を手にしてついて行った。ラトは汚れた白衣を脱がして傷の具合を確かめ、叫んだ。


「深く刺されている。処置するから清潔な部屋と水を用意してくれ!」

「わ、私の館に病のもとを入れるつもりか!?」


 震え声を発したオスヴィンに掴みかかったのはクリフではなかった。クリフだったら、殴っていただろう。エセルバードは真剣な声音で、噛んで含めるように告げた。


「彼女を一刻もはやく館に連れていかねばなりません。わかっていただけますね、オスヴィン殿」


 もしも断ったなら、ただではおかない。竜人公爵を待つでもなく、ただちにこの砦を更地にしてやるという文言が一つ一つのアクセントに含まれていた。

 しかし愛を確かめるには事態は急を要していた。

 オスヴィンはようやく使用人小屋を使ってもよいと許可を出し、ラトはキルフェを運びこんで一晩中出てこなかった。そばにはラメル婦人も付き添った。混乱の最中、看護婦の経験があると申し出てくれたのだ。

 他の者たちは食堂に集まり、まんじりともせずに過ごした。オスヴィンの狼狽ぶりは集まった面々の中でも取り分け深い。


「お前のせいだぞ、クリフ。お前があのような者を連れてきたから、こんなことになったのだ」


 オスヴィンはそう言ってクリフを責める。

 オスヴィンはキルフェを失うことを恐れている。だが、それは義理の父親としての愛ゆえではない。キルフェがいなくなればエセルバードはもちろん、ペリドット家との婚約話も解消されてしまう。そうなれば砦の暮らしは立ち行かないからだ。

 悲しいまでの小心であった。

 夜が明けてラトが戻ってきた頃あいには、段々と小屋で何が起きたのかが明らかになってきた。深夜、オスヴィンとイライジャ、そしてエメリーは小屋に向かった。

 夜の森の中をこわごわ歩いて行くと、イライジャが見知らぬ黒いマントの人影を進行方向に見かけた。

 三人がこっそりと後をつけていくと、人影は小屋の裏手へと回り、ふいに姿が見えなくなった。その後、窓が割られる音が響いたという。

 遠くからキルフェに呼び掛けると、小屋の戸口に真っ青な顔をした彼女が現れた。

 そのときすでにキルフェは腹部を刺されており、彼女は助けを求めるように小屋の前に這って来て、焚火のそばに倒れたのだった。


「キルフェ嬢の容態は今のところ安定しています。彼女は下腹部を刺されていましたが、奇跡的に刃は重要な臓器を避けていました。傷口は消毒して縫い綴じてあります。細菌の感染が無ければ助かるでしょう」


 ラトはまるで一流の医者のように振舞った。その報告を聞き、全員がほっと胸をなでおろす。


「はじめてお前と一緒にいてよかったと思ったよ。死体専門じゃなかったんだな」

「死体も生者も傷の()い方は同じだよ。それよりも安心するのはまだ早いと言わざるを得ないね。クリフくん、彼女を刺した何ものかが砦をうろついているのは間違いないことだ。誰か、マントの男とやらが逃げ去るところを見ましたか?」


 ラトの問いにイライジャとエメリーが気まずそうに顔を見合わせる。

 彼らはキルフェが血を流した衝撃で、だれもまわりをよく見ていなかったのだ。

 それはオスヴィンも同じことで、しかし息子たちと違って臆病者であると思われるのが嫌で、そのことを告白する勇気もないのだった。

 ラトは一睡もしない体で狩猟小屋に取って返し、昨夜何が起きたのかを自分の足と目で調べて回るしかなかった。

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