第32話 ハゲワシの家紋
翼を広げては天を統べ、けたたましい咆哮を上げて大地を蹂躙する竜という生き物であっても、敵がいる。それが生物である以上、その生存を賭けて立ちはだかる宿敵というものが必ず存在するのだ。
そして数々の勇士を屠ってきた竜人公爵であっても、その顔に泥を塗りつけた人物がいないわけではなかった。文字通りの意味で。
その名を《ハゲワシのイエルク》あるいは《ディルタイの悪鬼イエルク》という。
竜人公爵はかつて王家に請われて戦争に参加したことがあった。
大して昔の話ではない。数十年前の話だ。
その頃、王国は南方の領地を争っていた。しかし戦いには突破口がなく、戦火が際限なく広まって泥沼と化しそうな気配があった。
王国は竜人公爵に応援を要請した。
膠着した戦線に高名な竜人公爵が加われば、さしもの相手の戦意もくじかれるだろうとの読みだった。
その読みは結果として正しかった。
兵士たちがどれだけ立派な隊列を組み、勇気をもって戦場に繰りだそうとも、竜の吐く高熱の吐息の前にはひとたまりもない。
だがハゲワシのイエルクだけはちがった。
悪名高きイエルクは人の身でありながら竜をみじんも恐れなかった。
この人物は選び抜かれた精鋭の兵士だけを連れ、大胆にも数万の王国軍の陣営に忍び込んだ。鎧もろくに着ず、野良着であった。そして意表を突いて誇り高き白銀竜に糞を塗りたくった。
けっして比喩ではない。
文字通りの意味だ。
彼らは飼い葉桶いっぱいに貯められた人糞を、公爵の頭上から雨のように降らせたのだ。
あまりの屈辱に竜人公爵は怒り狂った。
イエルクたちは応戦せずに、その場ですぐに散開した。そして王国軍の陣営の中をけたたましい笑い声を上げながら三々五々、走り抜けた。
どうなったか――それは栄光ある王国史の裏側で密やかに語られる悲劇をもたらした。
怒り狂った竜はイエルクたちを踏みつぶし、燃やそうとして暴れ回った。知ってのとおり竜人公爵は人間の違いなどわからない。
敵味方の区別もつかないし、そもそもあの巨体である。それが味方の陣地で理性を失い、暴れ回れば、どうなるか。
結局のところ逃げまわるごく少数のイエルクたちよりも、陣地に集まっていた王国兵のほうが被害は甚大であった。イエルクは大混乱の軍勢の中をまんまと逃げ去り、名実ともに伝説となった。
ラトは竜人公爵の、あまり大っぴら語られない逸話のひとつを諳んじてみせた。
大っぴらに語られないのはもちろん、みんな竜人公爵が怖いからだ。
「覚えているぞ、あの屈辱! 忘れはしない! 我が足下で、我が領民たちが息絶えたのだ!」
竜人公爵は当時の怒りを思い出し、全身を震わせる。
応接間のソファからは灰色の煙が立った。竜の息吹を発する体内の器官が、憎悪のあまり高熱を発しているのだ。
竜人公爵は当然、復讐を誓った。以前よりも熱心に戦に関わり、敵国の兵を焼き、大地を雑草も生えぬ更地に変えた。
本気を出した竜の前ではさしものイエルクたちも後退するしかなく、いったんは追い詰められたかに見えた。
しかし結局、復讐の誓いは果たされることはなかった。
なんと――その戦いの終わりごろ、もう後がないと見るや否や、イエルクは王国に寝返って王家に臣下の誓いを立てたのだ。
王国風の家名をもらい、爵位を受け、国境地帯の小さな砦を預かったハゲワシに、一応、王国のしもべである公爵はもはや牙を立てることは叶わなくなった。
もともと奸計と裏切りには定評がある人物であった。
必要とあらば誰にでも立てつき、上官を殺し主人を殺して地位を築いた人物だ。王国に寝返るのも初めてというわけではない。
ちなみに、竜人公爵に働いた無礼は彼が生前に打ち立てた数々の伝説のなかのひとつでしかない。
その最大のものは、戦地に慰問に出かけ、運悪く捕虜となった聖女ヘレイナを殺害したことだろう。ヘレイナは三度の奇跡を起こしたことで聖女に選ばれたことで有名だが、四度目はなかった。
イエルクはみずからの家紋として菫を啄むハゲワシの図柄を定めた。
一輪の菫が聖女の象徴であることを考えれば、彼の行いが倨傲の極みであり、王家への態度がどれだけ不遜だったかがわかるというものだ。
「その家紋が封蝋に使われているとなると……この手紙は暗号というより、閣下への挑戦状といった意味合いが強いでしょう」
「イエルクめ、今度こそ引導を渡してやる!」
「閣下。それでは思うつぼです。まさしく過去の二の舞となるでしょう。相手は王家に下り、形ばかりであろうとその身体や財産は陛下のものとなったのです。それを理由もなく害すれば、王国の敵となるのは竜人公爵、貴方です」
「ではどうすればいいというのだ!」
「まずは戦いから随分と時が経って、こうして手紙を送り付けてきた相手の真意というものを探ってみるのがよろしかろうと思います。どうでしょう、閣下。この一件を僕にまかせてみてはくれませんか」
ラトはあくまでも冷静な態度である。
「僕がこの知性でもって、手紙の送り主を探り出し、その意味を明らかにします。悪いようにはしませんとも。ねえ、クリフくん」
「ああ、そうだな」
「またまた、クリフくんったら。そんなに冒険者仕事が大事かい? これは王国の歴史に残る偉大な…………待ってくれ。いま、君、なんて答えた? ああ? ああ、そうだなって答えたのかい?」
ラト・クリスタルはティーカップをサイドテーブルに置くと、ソファから身を乗り出し、不審そうにクリフの顔を覗きこんだ。
「俺もお前の仕事に協力する。謎の解明とやらに」
ラトは黙りこんだ。
黙り込んだだけではない。
口の閉め方を忘れてあんぐりと開け放ったままだ。
後ろに控えていたモーリスですら、クリフの態度の変わりぐあいに驚きを隠せないでいた。
これまで、クリフが積極的にラトのやることに関わろうとすることはなかった。いつもラトが無理やりクリフを巻き込み、嫌々ながらも協力させられていたのが実情だ。それが、態度をまるで正反対に変えたのだ。
しかしながら竜人公爵にとってはクリフの心変わりなど取るに足らないものだった。
彼はラト・クリスタルが暗号文の謎を解明するという望み通りの返事をしたのを良いことに、いくらか軽い足取りで迷宮街の高級宿へと戻って行った。
クリフもそれと同時に退席し、後には戸惑うラト・クリスタルと半分焼けて炭化したソファだけが残された。
*
いかにハゲワシといえど寄る年波には勝てなかったのだろうか。
王国に下ってから、晩年のイエルクはそれまでのように派手に悪名を響かせることはなかった。田舎の砦に引っ込んでからの消息はあまり知られることなく、八十歳の誕生日にその生涯を終えている。
その土地の名はアロン領グーテンガルト。
先の大戦で割譲され、王国領となった土地だ。現在は王国風にディスシーンと呼ばれ、戦に功績のあった諸侯らが治める土地である。
ハゲワシが晩年の大半を過ごした砦は、王国に下った後に名乗った姓を取ってアンダリュサイト砦と呼ばれている。
イエルクの没後も、砦はその血筋の者によって守られているはずだった。
竜人公爵に差し出された手紙に差出人の名前はなく、ハゲワシの家紋で封じられていたというだけのことではあるが、それでもラトはまずこの砦に向かうと決めた。
「こんな手紙を竜人公爵に送りつけてどうなるかは火を見るより明らかだ。怒り狂った竜人公爵が砦に襲来し、砦は瓦礫の山となり、土地ごと猛火で焼かれて生きとし生けるすべての生命が死に絶える。つまり手紙の主は竜人公爵を呼び寄せて砦を徹底的なまでに破壊したいんだ。手紙の主が何者でどこにいるかは不明だが、砦にはそうまでして破壊し尽くしたい何かしらの理由がある」
前回とは反対に南の国境の端までの移動になるが、竜人公爵の翼を用いれば造作もない旅である。
しかし彼が昔の因縁を思い出して魔物の本能に火がつき、歯止めがきかなくなることを考慮に入れると、空の移動はマルタという町までが限界だった。
そこからは馬車を雇っても半日かかる。
がたつく馬車に乗り込んで目的地が近くなるにつれ、クリフは寡黙になっていった。
「ハゲワシのイエルクの狡猾さ、悪辣さは、僕もおば様から伝え聞いているところだよ。おば様いわく、イエルクは人間が実行可能な殺戮の限界点を突破した革命家であり、ありとあらゆる戦争犯罪の裏側にその影ありと言われた犯罪者だそうだ」
延々と続くラトの講釈にクリフは黙りこくっている。
いつまで経っても返事がないので、ラトはクリフの声真似をしはじめた。
「おば様ってのも名探偵だとか言わないよな?」と自分自身でつまらなさそうに言い、その声に「もちろんだとも。ちょっと変わった推理術の持ち主でね。それは彼女自身の深い見識に基ずくもので、ほかの誰にも真似はできないんだ」と答えた。
いつもなら、呆れたようなクリフの返事があったことだろう。
名探偵ってのは何人もいるのか、とか、そんな話は聞いたこともない、とか、わめいたかもしれない。でもそれもない。
「どうしたんだいクリフくん。この間から君らしくないじゃないか。もしかしてお腹が痛いとか? それとも熱が出てる? それはたいへんだ。頭が痛い? めまいはするの? ちょっと聞かせてみたまえ。知ってのとおり、僕は医学にも造詣が深いのだよ」
「いいや」
「そうかそうか。君にとってこのあたりは懐かしい土地だろうからね。砦には来たことがあるのかい?」
「さあな」
「仕方がない。君がそう頑なな態度を取るならね、僕は君の生まれ故郷がどこにあるのか、その正確なところを当ててみせるよ」
ラトはクリフの目の前にステッキを掲げてみせた。
「僕は占い師ではないから、人の気持ちはわからない。だけど、いくら心のうちに秘密を隠そうとしても肉体と精神が繋がっているかぎり、そのふたつは無関係ではいられない。君が隠そうと頑なになればなるほど体に反応が現れてくるよ。さあ、クリフ・アキシナイト。杖の先を見て。そして頭の中に地図を描いて、君が幼少期を過ごした思い出の土地のことを考えてごらん」
「やめるんだ、ラト」
「ようやく二語文を喋った! 赤ちゃんの発達と同じだね。これは偉大な前進だよ。君はいま、ハイハイで再生の道を歩んでいるのさ。さあ、次は三語文に挑戦してみようじゃないか」
クリフが面倒くさそうにラトのステッキを振り払ったとき、馬車が急に止まった。
しばらくして御者が荷台の戸を叩く。
「申し訳ありませんがね、旦那方……あっしはここまでということで……」
脱いだ帽子を胸に抱えて、ごにょごにょと口ごもる。
しかし、砦はまだまだ先だ。
「どういうことだい? 君には十分な報酬を先払いで支払っているはずだけど?」
しかし御者は言うことに一切耳を貸さず、二人の荷物を地面に放り捨ててさっさと来た道を引き返していった。
「なんだい、あの態度! これだから田舎は嫌だ。こんなことなら竜人公爵を連れてくるんだったよ!」
「だったら自分の荷物は自分で持ってくれ」
クリフはうんざりした調子で言った。
調査に使うとか使わないとかで、ラトはやたら荷物が多く、クリフが半分肩代わりしているのである。
「ずいぶん進化したじゃないかクリフぼうや。そうだ。もしかして、このへんの人たちは未だにハゲワシの伝説を恐れているのかな。それとも、死んだというのはイエルクの策略で実はまだ生きているとか?」
「……」
「駄目だ、発達段階がまた元に戻ってしまったようだね」
やがて砦らしきものが見えて来た。
石組みの城壁こそ立派だが、森の中に佇む黄色くくすんだセピア色のそれは、人に言われなければ悪鬼の棲家とは終ぞ誰にもわかるまい。
跳ね上げ式の砦の門扉はだらしなく開け放たれ、堀は埋め立てられて畑になっており、三人の農夫が野良仕事に勤しんでいる姿が見えた。
「0歳児に退化してしまった君に通じるかはわからないが、何が待ち構えているかわからないイエルクの砦に乗り込むに当たって、入念で緻密な作戦が必要だ。僕はこれからラト・ペリドットを名乗ることとする。ペリドットはパパ卿の姓で、僕はペリドット侯爵家の嫡男という身分だ。君は僕の忠実なる従者で、迷宮街で落ちぶれていたところを諸国漫遊の旅をしていた僕に拾われたという設定でいこう」
「その設定は必要ない」
クリフはそう言って、歩く速度を速めた。
畑に近づくと、三人の農夫が腰を上げ、それぞれ頭にかぶっていた襤褸きれを取り、目を丸くした。
三者三様に深い皺を刻んだ表情が、驚きにわなないている。
「ぼっちゃん!」
「こりゃ、なんてこった。ぼっちゃんのお帰りだ!」
彼らははっきりとクリフを見て、叫んだ。
後から追いついたラトは渋い顔つきをしている。
「…………ぼっちゃん? きみが?」
「俺の故郷がアロン領グーテンガルトだってところまでは見抜けたのに、これは見抜けなかったらしいな」
はじめてラトを出し抜けたというのに、クリフは極めて浮かない、憂鬱そうな声つきであった。




