第26話 殺されかけるクリフ
クリフは久しぶりの自由を謳歌していた。
劇を観ようが、楽団の演奏を聞こうが、嫌味を言ったり、頓珍漢なことを言い出す迷惑極まりないお荷物はもうどこにもいないのだ。
それに加えて、凍死の危険さえなければ、クライオフェンはなかなか風光明媚な村であった。
北部山岳地帯など雪と氷ばかりに覆われて退屈で貧しく、つまらない土地だろうと思っていたが、その予測はみごとに打ち砕かれた。
もちろん、空の旅の途中、眼下に目にした近隣の村は、予想通り教会ですら粗末な丸太小屋であった。しかしクライオフェンは石組の立派な家が立ち並び、宿屋や酒場もある。通りを少しそぞろ歩くだけで村の豊かさは疑いようもなかった。
聞くところによるとこの村には独自の醸造所があり、酒造りが盛んで、特産品であるリンゴの売買などと合わせて村の経済を支えているようだ。
そうかと思って酒場を覗くと、市場の華やかさとは対照的に、昼間から貧しい身なりの男たちが飲んだくれている姿があった。
店主が言うには、彼らは隣のスフェン村の住人であるという話だった。
スフェン村は竜人公爵とは関係のない、スフェン男爵という貴族が治める隣の領地になる。
独自の産業を営んでいるクライオフェンとは違い、スフェン村の農民は痩せた土地と貧相な作物に噛りついて暮らしている昔ながらの村落のようだ。旧来の領主に支配されたほかの農村の例にもれず、税もすこぶる重たく、働いても働いても暮らしは豊かにならない。
気を紛らわせるには酒でも飲むしかないので、彼らはこっそりとクライオフェンの酒場まで足を延ばして来る。クライオフェンでは竜人公爵が酒税をとらないので、地元で飲むよりずっと安いのだ。
聞けば聞くほど、貧農の哀れさに拍車がかかるような話だった。
クリフも故郷では生活の足しにするため畑を耕していたから、その苦労はよく分かる。だからと言って何ができるわけでもないのだが……。
竜人公爵の放任主義は、クライオフェンに限っていえば良い方向に向いているようだ。村人たちが年に一度の祭日をもうけ、竜の棲む城に贈り物を届けに行くという気持ちもわからなくもない。
クリフは一通り散策を楽しみ、ラトに言いつけられた用事を忠実に果たし、夕方には宿に戻った。
宿の主人は夕食の世話をしてくれており、ラトがまだ戻って来ていないと告げた。これはもちろん、またとない吉報であった。ラトというはた迷惑な存在はおらず、宿で飲み食いした代金も何もかもが竜人公爵の支払いなので気にしなくてよい。
まさに天国だ。
気がかりなのはラトが手掛けている事件のことだけだった。
去り際にラトがクリフへと頼んだ用事とは、村中の人間に「スファレス城で見つかった死体に心当たりはないか」と聞き込みをして回ることだった。聞き込みの結果はあまり芳しくなく、遺体の話をクリフが口に出すと、それまで饒舌だった誰もが「知らない」と言ったきり固く口を閉ざしてしまった。
夕食を摂るクリフのテーブルに見覚えのある娘が食後のお茶を注ぎにやってきたので、クリフは声をかけた。
「やあ、アイビス。少しいいかな、昼間の話なんだが……」
アイビスというのが彼女の名前だ。今年二十五歳になるが、父親の仕事を助けるために結婚もしないでいると村の噂で耳にした。
今は竜人公爵が城に戻っていることだし、昼間とは別の答えが聞けるかと思ったのだが、彼女は相変わらずだった。
そばかす顔をあらぬ方向に向けてクリフの問いを拒んだ。
「お話しできることは何もありません」
声つきだけでなく、表情ですら頑なだ。
「うーん。今日は村中の人々からそう言われたよ」
「狭い村の中のことですから……。誰だって問題を起こしたくないのは一緒でしょう」
「竜人公爵が恐ろしくはないのか? 一応はここの領主なんだろう」
「この世で恐ろしいものは竜だけではないわ」
「たしかにそうだが、死体のことを放置しておけば、祭り目当てに来る客までいなくなるかもしれないぞ」
「あれは元々竜人公爵の怒りを鎮めるために身を捧げた聖女様の魂をお慰めするためのお祭りなのです。それがいつからか観光客目当てに騒がしくなっただけよ」
そう言い切られてしまうと、クリフも二の句が継げない。
今日一日、あれこれと村人たちの話を聞いてまわったおかげで、クリフは村人たちと竜人公爵の間には深くて大きな溝があることを薄々理解しつつあった。
クライオフェン村で年に一度開かれる祭のことは、これまで竜人公爵の口から語られた概要でしか知らなかった。
竜人公爵は祭のことを竜を崇めるためのものと解釈していたし、確かに表向きはそういう趣旨のものだ。しかし村人たちの側には今でも竜に命を捧げた女性たちへの敬愛があり、竜を崇めるというのはあくまでも建前のようなところがあるのだ。
もちろん数々の恩恵を受けている公爵を前に表立ってそんなことは言えるはずがない。なので、人々はかがり火を焚いて黄金像を捧げながら、ひそかに教会に集まって女性たちへの祈りを捧げているのだ。
黄金像は生贄の娘を運ぶための手段だったというが、案外、竜の寝首を掻くために、意外なところへ隠れていたのではないかという気もする。
人外の者への信奉と拒否感。
複雑な感情が渦巻いているこの小さな村で、その中心にある黄金像から死体が転がり出したというのは何かしら象徴的な出来事のような気がする。
公爵は遺体は政敵が差し向けたものかもしれないと言っていたが、敵がいるのだとしたら、それは思わぬ足元にいるのかもしれなかった。
結局大した収穫もなく、クリフは用意された客室に戻った。
扉を開けると、茶色い油紙を細く切ったものが足元に落ちた。
クリフはそれを拾い上げて、剣やら鎧やらといった冒険者らしい装備を部屋の隅に脱いでまとめた。
部屋はもともと公爵のために用意されたものらしく、寝室が二つに居間もある大きな部屋だった。もちろん、ラトの姿はない。
まだ夜が更けかけた頃あいではあるが、クリフは早々とベッドに横たわった。
肌寒いので、無作法は承知の上で外套を着たまま寝具にくるまった。
エストレイの外套は薄手で柔らかく、それでいて寒気を通さないので有難い。
そうして寝台にひとりで横たわっていると、妙に感覚が冴えて、窓枠を揺らす冷たい雪混じりの風が神経を逆撫でる。
人は凍えると感傷的になる。こういう夜は遠く過ぎ去った日々のことがとりわけ身近に、そして懐かしく感じられるものだ。
クリフは南のほうの出身だが、日々の生活はここと同じで易しくはなかった。
きょうだいで助け合い、藁のベッドに身を寄せ合って眠っていた。
今では遠く離れてしまい、ただ自分が感じている寂しさや震えを感じていなければいいと願うばかりだ。
しかし瞼を閉じると、その瞬間に大きな矛盾が押し寄せてくる。
きょうだいのことを心配しているなんていうのは、とんでもないウソだった。
心の底からその無事を願っているのは……。
願っているのは、ただひとりのことだけだ。
――――あの女のことだ。
彼女と自分さえ無事なら、ほかの家族なんてどうだって構わない。犬の餌になっていたとしても、何ら良心は痛まないだろう。
クリフは眠りに落ちることはなかった。彼は無防備を装いながらも呼吸を整え、寝具の下でナイフの柄を握り締めながら室内の物音に気を配っていた。
昔、幼いクリフに「この世の誰も信じるな」と言ったのは、クリフの祖父である。
彼は「一度、家から出たならば自分以外の誰も信じてはならぬ」と言い、それでいて「家に帰って来てほっと一息吐いた瞬間が一番危ない、母の腹の中からこの世に生まれ出でた後は、誰も信じてはならぬ」と重ねて言った。
何においても疑い深い祖父の言葉を信じたわけではないが、今夜ばかりは彼の言い分が正しいようだった。
残念ながら、この部屋には侵入者がいる。
気がついたのは部屋に戻った直後のことだ。
クリフが夕飯を終えて部屋に戻ったとき、足下に油紙がはらりと落ちた。
あれはクリフがあらかじめ扉に挟んでおいたものだ。ただしそれは二重の罠の片方でしかなく、念のためノブに結びつけていた髪の毛のほうは床に落ちたままになっていた。
罠に引っ掛かったことにも気がつかずに、侵入者は隣室から現れて微かに床板を軋ませながら近づいてくる。
そしてクリフが眠っていることを確認するために覆いかぶさってきた。
その瞬間、クリフは起き上がって毛布の下からナイフの刃を突き立てた。
刃は侵入者の胸に刺さったはずだが、肉を切り裂いた手ごたえがない。
ナイフは侵入者が着こんだマントを切り裂き、そのすぐ下で止まっている。急所狙いが仇になった。思ったよりもしっかりした防具を着けているのだ。
侵入者は隠密行動に失敗したことを悟ると、その瞬間に身を翻し窓を割って階下に飛び降りた。
ここからだと三階の高さだが、階下のバルコニーの屋根を足場にして速やかに逃げていく。
引き際の鮮やかさといい、あらかじめ逃走経路を確保していたことといい、少なくともずぶの素人が気の迷いで強盗を企てたわけではないと判断するには十分すぎる材料だ。
「嫌な予感がするな……」
むこうは間違いなくプロだ。おそらく事件にまつわる何者かだろう。
しかしラトと違ってクリフには謎の真相とやらにはみじんも興味がない。
このまま寝台に戻って寝ていたとしても、あいつは二度と戻って来やしないんじゃないだろうか、という悪魔の囁き声がしたが、誘惑を何とかねじ伏せてブーツを履き、窓から隣の納屋の屋根へと飛び移った。
苦労して裏路地に降りると、背後でかすかに足音が鳴った。
月影に照らされて人影が表通りへと抜けるのが見える。
あまり気乗りはしないが、クリフは影を追いかけて表通りに出た。
市場の方角へと逃げていく侵入者の背中があった。
ここにはアレキサンドーラのように街灯なんて気がきいたものは存在しない。後ろ姿を見失ったら、それで最後だ。もちろん、犯人を見失うというのはどちらかといえば朗報だ。適当に追いかけて、今度こそ見失ったふりをして帰ればいいのだから。
そういうわけでやる気もなく、謎の侵入者の背中をしばらく追いかけたところでクリフの足は止まった。
それは自発的なものではなかった。
民家の影から現れた人物が、クリフの背後に立っていた。
それと同時に、追っていたはずの人物の姿が目の前からかき消える。
「――――!?」
無防備なクリフの首筋に細い皮紐のようなものが絡みついて、声と呼吸を奪った。
逃れようと暴れたクリフの手が侵入者が着こんでいるマントの端を掴む。
先ほどナイフで切り裂いたところが大きく破けて、革鎧を身に着けた上半身と、腰のベルトに下げられた冒険者証、そしてコバルトブルーに輝く小ぶりなレガリアの輝きを露にした。どうやら、先ほど追いかけさせられたのはレガリアの効果によって生み出された幻だったようだ。
もちろん今さら理解しても状況が変わるわけではない。
クリフは咄嗟の判断で首を締め上げてくるその手首を掴み、襲撃者の体ごと石壁に叩きつけた。ほんの少し、呼吸を奪おうとする力が緩んだ。もう一度、攻撃をしかけようとしたクリフの手に鋭い痛みが走る。
手のひらから血の雫がこぼれ落ちた。
ごく小さな傷ではあったが、受けた瞬間にひどく指先が痺れるのがわかった。
痺れは瞬く間に体中に広がって抵抗する力を奪う。毒だ。
クリフは意志に反して脱力し、地面に倒れ伏した。
その体の上に侵入者が馬乗りになり、改めて武器を抜く。
闇夜に白銀の刃がきらめくのをクリフはぼんやり見上げていた。
体の痺れがひどく、指一本動かせない。
動かせるのは視線だけだ。
肩越しに視線をさ迷わせると、三つ編みの先に結ばれた幸運の印が目に入った。
これが世に言う走馬灯だろうか。ずっと記憶の底に封じ込めていたのに、クリフの赤錆色をした髪を滑らかな白い指で編んで、黄色い飾り紐を結びつけている彼女の姿をありありと思いだした。耳元で「どうか無事でいて」と囁いた声までもが蘇ってくる。
記憶は時間が経つほどに褪せるというが、静かな夜に思い出すそれは妙に生々しい。
どうか無事でいて。
ほんのささやかな、たったひと言だけの願いが、危ないところを繰り返し支えてきたのだと思う。
今もそうだ。
揉み合う二人の気がつかないところで幸運はもたらされた。
クリフが着ていた外套の、刺繍を施された腰帯が音も立てずに切れて落ちる。
袋状に縫われていた内側から、隠されていたレガリアが零れ出た。それは一瞬、青く強く輝き、石畳の上に落ちて砕けてしまう。
しかし、その瞬間、クリフの全身をあますところなく覆っていた痺れはきれいに消え去った。
クリフはナイフを振り下ろす手首を受け止め、振り払い、獲物をしとめたとばかり思っている侵入者のにやけた顔面に渾身の頭突きをお見舞いしたのだった。




