第24話 竜人公爵
かつて王国北部の山岳地帯に一匹の竜がいた。
この竜は縄張りに足を踏み入れた旅人を端から食らい、哀れな村人たちに生贄や黄金を要求する邪悪な存在であった。当時の王や諸侯らはこれを討つために軍隊を差し向けたが、竜はそれをことごとく返り討ちにして焼き払い、巣穴に積み上げた金塊の山の上でスヤスヤと寝息を立てるありさまだった。
これを目の当たりにした民は人食い竜そのものよりも、むしろ竜退治に手をこまねている王家に落胆し、怒りを積み上げていった。権力への信頼は日毎に目減りしていき、反乱が相次いだのである。
こうして追い込まれた王家はとんでもない奇策に打って出た。
この悪竜に公爵の位を与え、その棲家である山岳地帯を丸ごと領地として与えたのである。
公爵といえば王に次ぐ高位である。それだけ高い身分を与えてしまえば、今後、この竜がいくら暴れたとしても、それは自分の領地で多少傍若無人に振舞っただけのことで、わざわざ軍隊を派遣して討伐する必要はない。王家は民からも諸侯からも責められる理由がなくなるというわけだ。実に大それた頓智というか、詭弁であった。
悪竜のほうも形式としては王家に下った形になるものの、金塊をたらふく手に入れることで公爵位を授かることを受け入れた。
以来三百有余年、北部山岳地帯は竜が統べる土地となり、力をいや増した悪竜は人に化けて竜人公爵と呼ばれるようになった。
その竜人公爵が、猛々しい伝説そのものが、迷宮街はカーネリアン邸の客間のひとりがけの椅子に座っているというのは、クリフにはにわかには信じ難いことだった。しかしラトはそれが当然とばかりに振舞っている。
「もはや貴方の仮面は無意味なものです。改めて、なんとお呼びしましょうか、依頼人。竜血の君、それとも王国貴族のように土地の名を取ってスファレス卿とでもお呼びしましょうか。人間の名前もあったはずです。たしか、デモナスタナッド・スファレライト……」
ふん、と仮面の依頼人は明らかに気分を害した様子で鼻を鳴らした。
「醜い音の連なりだ。やめたまえ、私の名前は正しくはこう呼ぶのだ!」
仮面の下から耳をつんざく竜の咆哮が放たれた。
体のどこから出ているのかわからないが、あまりの大音響にクリフは思わず後退した。ラトも強張った表情で椅子の背もたれに押し付けられている。かわいそうなモーリスは、高級な硝子製品を割ってしまった。
その音声はとても人間の出せるそれではない。
それまで伝説を目にしていることをどこか疑ってかかっていたクリフでさえ、ラトの言葉を信じざるを得なかった。
「遠慮するでないぞ人間ども、竜血の君と呼ぶがいい! それか閣下と呼んで頭を垂れるのだな!」
依頼人は仮面を脱ぎ捨てた。
黄金色の髪の毛がこぼれ出た。続いて端正な男性の顔立ちが現れる。
まっすぐな鼻梁を中心に、柳のような眉や切れ長の瞳が恐ろしいまでに左右対称に配置されている。しかもその輪郭には歪みやたるみが一切ない。ラトの話を聞いた直後だと、非の打ち所のなさがまさに人間離れしたもののように、極めて狂暴で恐ろしいもののように思えてくる。
爛々と光る金色の瞳がラトとクリフを交互に見据え、ラトを真正面に捉えたままで止まった。
「どうやらパパ卿が君を推薦したのは間違いではなかったようだ。彼は君のことをこう呼んでいたよ。《私たちの最高傑作》だと。今世紀最高の探偵になれる素質をもつとね」
「当然のことです。では、僕を信頼して依頼について話をしてくださるのですね」
ラトは先ほどの咆哮がまだ耳のなかで反響しているらしく、迷惑そうな素振りだったが、竜にも公爵の称号にも気圧されている様子はない。逆に恐ろしいまでの平常通りだった。
クリフはというと、部屋に置いてきぼりにした剣の存在が恋しくてたまらなかった。何しろ、この大陸で最も凶悪かつ強靭な魔物の一体が目の前にいるのだ。剣や鎧やレガリアもなしだなんて正気の沙汰とは思えない。
「もちろんだとも。だがくれぐれも忘れないでくれたまえ、これはまだ内密の話で、いくらか繊細に取り扱う必要があると思ったからこそ、パパ卿だけに打ち明けようとしたのだ」
「もちろん心得ております。ここにいるクリフくんも口の軽い人物ではありません」
先ほどの咆哮で腰が抜けたままになっているモーリスを下がらせ、部屋にはクリフとラト、そして竜血の君の三者だけになった。ラトの観察眼を信頼してか、いくらか軽くなった竜血の君の口からは、探偵が聞くに相応しい不可解な話が語られた。
「実は今、我が居城に人間の死体があるのだ。パパ卿にはそのことについて相談に乗ってもらっていたのだが、どうやらいま彼は王国の命運を揺るがすような大事な事件の解決に奔走しているようでね。ふん、要するに我が城で起きていることは王国の命運以下ということになる。探偵どもの最高傑作たる君にとっては少々物足りない事件かもしれないな」
たっぷりと皮肉をまぶした竜人公爵の台詞にも、ラトはそつなく答えてみせた。
「僭越ながら閣下、権力と謎の奥深さは必ずしも比例しないものと存じます。たとえば宮廷にはびこっている謎の大半は男女の正しくない関係性、つまり不倫によって引き起こされるものとして説明できます。それに比べれば、大衆劇場の隅に転がっている空き瓶のほうが思いがけない複雑なドラマを含んでいるもので、僕はどちらかといえばそちらのほうが好みです。つまり、王国の命運などよりも、閣下の偉大なる黄金城に転がったひとつの遺体のほうがね」
「ふん、そういうものかね」
相変わらず竜人公爵は不愉快そうで、苛々した様子を隠そうともしない。しかし正体は竜だと思えばこのふてぶてしさも納得だ。
どれだけ態度がでかくても、そのへんてこな服の下には鋼の翼が隠れている。街ごと破壊されたくなければ黙っているしかない。
「そういうものなのです。さて、遺体は、閣下への恐れを知らない挑戦者のものですか? 竜を倒して名を成そうとは、今時めずらしい蛮勇の持ち主ですね」
「いいや、我が城に来たときにはすでに死んでいた。死体の状態で運ばれたのだ。それにやつの死体は黄金像に入っていた」
「黄金像? 閣下のコレクションのひとつでしょうか」
「ほんものの黄金ではない。木をくりぬいて色付けしたハリボテだ。年に一度の祭日に領民たちが寄越してくるのだ」
竜人公爵は爵位と領地を得たときに、いくつかの村をも手に入れた。
竜の存在は村民たちを怯えさせたものの、彼らに思いがけない恩恵を与えもした。竜の公爵はほかの貴族たちのように土地とそこに住む民を統治することがなかったのだ。
竜人公爵が好むのはもちろん黄金である。が、耕せる土地さえ限られている寒村では、どこをひっくり返してもなけなしの銅銭くらいしか出てこない。竜人公爵は何せ竜であるので、小麦などの農作物にも用はない。
そこで、ろくな税も取らずに領民たちを自由にさせていたところ、いつの間にか村は栄えだした。
領主が農民に課す重税さえ無ければ、彼らは働いた分をそのまま懐に入れることができるのだから、当然だ。不毛の地であることは変わらないものの、生活はずっとましになった。
このことに感謝した村人たちは年に一度の祭日を設け、竜血の君を讃えた。
金貨はないが、そのかわりに村一番の美女が竜人公爵に捧げられたのだ。
その方法というのが一風変わっている。
村人たちはハリボテの黄金像をつくり、その中に着飾った美女を隠して連れてくるのだという。
「私も初めのころは、まあ、折角だからと思って食ってみたりしたんだが、美女というのはあまり美味いものではない。添えられた山羊や果実の肉のほうがよほどいい。何度目かで、迷惑だからそういうのはもうやめろと言いに行ったのだ」
しかしその申し出を竜人公爵の寛大さと解釈した村人たちは、この人ならざる公爵に心から感謝してしまい、祭はより一層派手になり、毎年たくさんの供物といっしょに空の黄金像が城まで届けられるようになった。その祭は現在まで欠かさず行われている。
「それからというもの面倒だから放置していたのだが、今回、久々に中身入りの黄金像が届けられたというわけだ」
「久しぶりというと?」
「二百年くらいかな」
クリフは絶句する。二百年が久しぶりというのなら、それはまさに人間の常識をはるかに超えた時間の感覚だった。
竜に王家が敗北し、苦しい頓智で面目を保とうとしたのも無理はない。
「これは純粋な興味からの発言ですが、閣下。死体のひとつやふたつ、閣下の吐息ひとつで問題は解決するのではありませんか?」
ラトは妙な半笑いで言った。とてもそうは思ってなさそうな顔つきであった。
「君たちは私のことをおとぎ話の存在だと勘違いしているようだな。確かに三百年前はそれで全ての物事が解決しただろう。燃やして灰に変えてしまえばそれでよかった。人々は恐れ、竜の偉大さにひれ伏したことだろう。しかし今回私がパパ卿に意見を求めたのは、これが私だけの問題ではないと思ったからこそだ。今、まさに偉大なる竜がお前に語りかけているのは、むしろ人間側の問題なのだ」
「というと?」
竜人は邪悪なしたり顔で言った。
「復讐だ。人間はかならず復讐するということなのだ。公爵の地位を与えられたからといって、王家が心の底から屈服したなどと、この私は思わない。人間の言葉と腹のうちはいつだってねじれている。すなわち、王家は竜に公爵の位を与えたとは思っていない。竜に奪われたものだと思っているはずだ。そうであれば何百年後でも力をつけた後に奪い返そうとするのが人の道理だろう。いかがかな、探偵殿」
「じつに賢明でいらっしゃいます」
「その遺体が城にあることで、こちらの立場が危うくならないとも限らないのだ」
「なるほど、遺体を差し向けたのは閣下をおとしめたい政敵のしわざではないかと仰りたいのですね」
「そこのところを含めて、あらゆる可能性を検討してほしいのだ」
竜人公爵は重々しく頷いた。
「では遺体について詳しく話してくださいませんか? 男か女かとか……どんな風体だったか、思いつくかぎりです」
それまで多弁家のラトに負けず劣らず饒舌だった竜人公爵は、いきなり寡黙になった。
「男……男だろうな」
「太っていましたか? それとも痩せ型ですか?」
「ううむ。私に人のことがわかるはずないだろう。太っていようがいまいが、竜の目には同じに見える!」
悲しいかな、それが竜と人との圧倒的な差だった。
クリフは吟遊詩人の語りでしか知らないが、竜というのは長命になればなるほど大きく、見上げるほどの巨体に成長するという。
それほど大きな生物にとって、人間の大小は誤差にしかならないのだろう。
竜人公爵の変装が奇天烈だったのも、しみじみと納得がいく。
「そうですか。これは提案なのですが、閣下。僕を閣下の居城に招待してくれませんか?」
ラトの提案に面食らったのは、竜人公爵ではない。
もちろんクリフのほうだ。
「おいおい、聞き間違いじゃないだろうな、ラト。俺にはまたお前さんが、何かとんでもなく厄介なことを言い出したような気がするぞ」
「僕は慎重に言葉を選ぶので、言い間違いはめったにしないよ、クリフくん。閣下は竜で、人間である僕らとは違う視点で物事を見ておられる。おそらくその遺体とやらの詳細をこれ以上聞いたって詳細な情報は得られない。直接行って見てみたほうが手っ取り早いだろうと思うんだ」
「竜の棲む城にか?」
「ほかのどこに行くの? 構いませんよね、閣下」
「もとよりそのつもりであった」
竜人公爵は頷いた。
「ありがとうございます。そうと決まれば、君も準備したまえ、クリフくん」
「俺が? 何故?」
「探偵の相棒ってものはね、どこに行くにもついて来て何くれとなく探偵の手助けをしてくれるものなんだよ」
「なんでだ!? 俺はお前の相棒じゃないぞ!」
「じゃあ助手」
「言い方の問題じゃない!」
ラトが迷宮街を去り、危険極まりない竜の巣のど真ん中に飛び込むというのは、クリフにとっても歓迎すべきことだ。
これでカーネリアン邸の人々は安らかに眠れることだろう。
しかし、クリフまで道連れにされる道理はない。
ラトは溜息を吐いた。
「じゃあ言わせてもらうけどね、クリフくん。君は最近、カーネリアン夫人の好意に甘えすぎではないのかな?」
ラトはさも「言ってやった!」みたいな顔つきだ。
「…………はあ?」
「ここ何日かの君といったら、胸に手を当てて考えてごらんよ。くだらない冒険者仕事さえしないで、演奏会だの、賭け事だの、演劇だの。遊興に耽るなとは言わないが遊びすぎだ。ここらで心を入れ替えて、世の中のためになる仕事に手をつけたらどうなんだい?」
ラトはラトであった。
クリフはちょっと考えてから、平手でラトの頬を打った。
ラトはほんの少しのあいだ放心し、その後に「痛い! パパ卿にもぶたれたことないのに!」と叫んだ。クリフはまだ見ぬパパ卿に思いを馳せた。どうやったら、暴力を用いずにラトを育てられるのだろう? その教育法を知りたいものである。




