第23話 仮面の客
一通の手紙に招かれて、嵐のようなノックとともに客人はやってきた。
その客が普通ではないということは、ラトのように鋭い観察眼を持たないクリフにもわかった。それは誰の目にも一目瞭然であった。
客人は深藍に金の刺繍が施された上着をまとっていた。胸のあたりにいくつもの勲章が並べられた軍服だ。
だったら軍人なのかというと、どうもそういうふうでもない。彼の首に巻かれた白いレースの襞襟は何重にも過剰なまでに重ねられ、ふてぶてしい貴族か、それとも鳩かという勢いで膨らんでおり、質素さや謙虚さからはかけ離れている。最も異様なのは、黄金色の仮面をつけている点だ。顔全体を覆う巨大なもので、デザインは南方の少数民族を思わせる。
この大仰な仮面のせいで視界はかなり悪いようで、玄関から客間までの短い距離も執事に手を引かれながらでなければ歩けないほどだった。
ラトはというといつも通り尊大な態度をくずさず、ソファに座ったまま、客人が客間に到達するのを待ち構えていた。
まあこの場合、礼法というものをまるで無視しているのはお互い様だ。
どうみても怪しい客を家に入れる決断を下したカーネリアン夫人の英断をこそ寛容と呼ぶべきなのだろう。
異様な風体の人物がソファに座ろうとしてまごついているのを眺めながら、クリフはラトに耳打ちした。
「なあ、ラト。あの客人が何者であれ言っておきたいんだが――」
すると、客人は耳ざとくそれを聞きつけ、クリフに杖を突きつけて遮ってきた。
「そこの君。君はパパ卿が推薦するところの優秀な探偵なのかね? そうでないなら黙っていたまえ。推察するに、君は探偵ではない。少なくとも優秀ではあるまい。優秀な探偵ならば、私が必要に駆られてこういった格好をしていることに気がつかないはずがないからだ」
それは仮面の中で反響し、ひどくくぐもった声に聞こえた。
ずいぶん横柄な物言いであるが、パパ卿という呼び名が意外と流通しているという奇妙な事実に気を取られ、クリフは態度を決めかねた。少なくともこの奇妙な風体の人物が手紙に書かれていた依頼人だというのは間違いないらしい。
「失礼しました、依頼人。こちらはクリフくん。僕の相棒で、探偵は僕です」
「君は彼より賢明であると信じたいものだ。しかし期待はしているよ。なにしろ君は赤毛ではない。赤毛というのは生来、頭の働きがのろまなものだからな」
そう言って依頼人はようやく探り当てた椅子にふんぞりかえった。
クリフはラトの言葉を否定するついでに、向かい合って並んでいる二人の頭を金づちを持って順番に殴っていきたい気持ちに駆られたが、カーネリアン夫人に受けた恩を数えることで必死に堪えた。
「ふむ……」
ラトはソファのひじ掛けに両肘を置き、重ね合わせた両手の向こうに依頼人を見据えながら、微笑む。
「クリフくん。君はおそらく、親切にも依頼人が身につけている勲章や徽章の並びがてんでデタラメだということを指摘してくれようとしたのだと思う」
クリフは憂鬱そうな表情で頷いた。
世間で軍人だの兵隊だのと呼ばれている人物は、すべてをルール通りに行いたがる。軍隊では集団行動が基礎となるため、就寝時間や起床時間、食事の時間や歯みがきをするタイミングといった毎日のスケジュールだけに留まらず、身に着けるものすべて、時計や肌着の種類にいたるまで、生活の細部が厳密な規則で決められているのだ。
もちろん胸のまわりにゴテゴテとぶら下げられた飾りだってその例外ではない。
どんな種類のものをどんなふうに並べるかは事細かに決まっているし、同じ軍に所属する者ならば、それを見ただけで目の前の人物がどれくらい偉いのかわかるようになっているのだ。
しかし客人の上着に飾られているものは、てんでデタラメだった。
彼の勲章の意味をひとつずつ読み解いていくと、この人物はいくつもの大規模な戦争で表彰されているはずなのに、身分は下士官であることになってしまう。
「ああ、さっきまではそのつもりだった。でも今は暴力と闘争について考えてる」
「考えるだけに留めておいて正解だ。あの服装は見てのとおり、めちゃくちゃけどね。でも彼自身が言ったとおり、あれはわざとそうしているんだよ。つまりこの人なりの変装なんだ。勲章で身分を、あの大きな仮面で顔を、そして襞襟で首元を隠そうとしている。そうやって自分の正体を隠しているつもりなんだよ」
「自分の正体を隠すだって? 何故そんなことを……」
「もちろん僕を試そうとしての行動だろうね」
ラトはクリフに手紙を渡した。
クリフはその内容を改めた。流麗な筆致で、該当する部分には『客人はさる高貴な御方だとだけ伝えておこう。名前も、身分も教えられない。客人がそう望まれたのだ。つまり、依頼の前にちょっとした試験をするつもりでおられる。丁重にもてなし、失礼のないように』とだけ書かれていた。
これでクリフにもようやく、この横柄でおかしな格好の客の意図が理解できた。
依頼人とやらはラトの観察眼を試している。
ラトに自分の正体を見抜ける力があるかどうかを探っているのだ。
だから名乗りもず、顔もいっさいみせず、挨拶すらしなかった。――いや、まあ、挨拶がないのは単に性格が悪いだけかもしれないが。
「隠しているつもり、とはなんだね。いったいどういう意味なんだね。では君はすでに、私が何者かわかっているとでも言いたげではないか?」
客人はラトの態度に明らかに気分を害したようだった。
「ええ。本当のことを言うと、あなたがカーネリアン邸の扉をくぐった瞬間から、この部屋に至るまでの間に、正体はすっかりわかってしまいました」
ラトは何でもないことのように言った。
「そのことについて話してもいいのですが、ただ、あなたのプライドを傷つけないかどうかが心配です」
客人とクリフはそれぞれ違った反応をした。
客人は不愉快そうな溜息を吐き、クリフはたじろいだ。
「ラト、お前さんには、あれだけ滑稽な格好をしている客が誰だかわかるっていうのか」
「もちろんだとも。あの変装は、彼の正体をまるで隠せていない。それどころか、変装そのものが彼の正体を導く重大なヒントになっているんだ」
「俺にはさっぱりわけがわからない。いったいどういうことなんだ? 仮面やあの奇天烈な衣装がどうしたらヒントになるっていうんだ」
「彼は変装によって主に上半身を隠そうとしているね。顔や、上半身をね。それは依頼人の《頭髪や目の色こそが個人を識別する重要な箇所だ》という思い込みからの行動だ。でもそれは根本的な部分が間違っている。その人物の正体というのは、もっと思いがけない別のところに表れる。だからこそ人の真実の姿を知りたいなら別のところを見なくてはいけない。たとえば……」
ラトは依頼人の足元を掌で指し示す。
「――――足?」
「そうだ。人間を腰のあたりで二つに分けると、上半身よりも下半身のほうがより多くのことを語ってくれるんだよ」
ラトの自信が確かなものだということがわかると、客人は尊大な態度を崩さずに、紳士的な物言いで推理をうながした。あくまでもどちらが上の立場にあるのかを示したいようだったが、ラトの前では全くの逆効果であることに気がついていないのだった。
「いいだろう、話したまえ。本当に私が何者なのかわかっているというのならな。無礼を許そう」
「では、ずばり言わせてもらいます。あなたは人間ではありません」
あまりにも素っ頓狂な物言いに、クリフはたまらず声を上げた。
「はあ? 何を言ってるんだ、ラト。新手の侮辱か?」
「僕は事実を述べただけだよ、クリフくん。こちらの依頼人は人間ではない。もちろん、そう考えるに足る材料がある。二つもね。まず一つ目は、彼が到着したとき、馬車の音がしなかったという事実だ」
「馬車の音……?」
クリフは帰宅したときのことを思い返してみた。
たしかにクリフたちが雇った馬車が去った後、べつの馬車がカーネリアン邸の車止めに到着したような気配はしなかった。
それどころか、この客人が来訪したときはほとんど無音に近かった。
「そうだとしたら、彼が徒歩で移動したと考えるのが普通だろう」
「依頼人がはいているズボンを見たまえ。知ってのとおり、今夜は雨が降っていたんだよ。もしも依頼人が宿屋街のいちばんいい宿に部屋を取り、そして徒歩で移動したのだとしたら、どんな経路を通ってカーネリアン邸に来たにしろ彼のズボンに泥はねがひとつもないというのは変な話だ。それに彼はひとりじゃ歩けない」
「だとしたら、大きな傘をさして慎重に歩いてきたんだ。仮面は家の前でかぶった。どうだ、これで筋は通るだろう」
むきになったクリフの言い分をラトは半笑いで聞いていた。
いかにもくだらないと言いたげだった。
「では靴の裏をみせて頂けますか、依頼人。どれだけ慎重に傘をさして歩いたとしても雨の降る中で移動すれば、靴の裏に泥がつくものですからね」
依頼人は黙りこんだまま、ブーツの底をしっかり床につけたまま動かない。
ラトはうしろを振り返り、控えていた執事に訊ねた。
「モーリス、少しだけ君の意見が聞きたい。玄関マットや廊下は依頼人の足跡で汚れているかな?」
「いいえ。お客様の靴底は大変清潔でいらっしゃいました」
ラトは勝ち誇った顔だ。
「だが、それだけで人間ではないというのは……あまりにも飛躍しすぎではないか?」
クリフが苦し紛れにそう言うと、ラトはスモーキーグリーンの瞳を真ん丸に見開いた。
「わかっているじゃないか、クリフくん。もしかして、僕と行動を共にすることによって君にも観察眼というものが身に着いたのかもね」
「俺が馬鹿げたことを言っているとわかっていて、嫌味なやつだな」
「ちがうよ。まさに君の言う通りなんだ飛躍だよ、クリフくん。こちらの依頼人は、まさしく飛躍したんだ。空を飛んでこの屋敷を訪れ、玄関の前で人間の姿に変身したんだよ。だから靴の裏に泥がついていないし、服が雨に濡れてもいないんだ」
ラトの推理は、ますますクリフを混乱させた。
「夢物語じゃないんだぞ。そんな馬鹿な話があるもんか」
「そんなに僕の話が疑わしいなら、僕たちが先に乗ってきた辻馬車を呼び戻し、御者の男に小金を渡して、帰り道にすれ違った別の馬車がなかったかどうか聞けばいい。金の無駄だと思うけれど。でもそれは依頼人に訊ねればいいことだ。――あなたは人間ではありません。そうでしょう、公爵閣下」
仮面の依頼人は、くぐもった声で訊ねた。
「――――なるほど。君がわたしの正体を知っているというのは、はったりではないようだ。君は材料は二つあると言ったが、ひとつが馬車の音だとして、もうひとつの決め手は何なのだね?」
「先ほども言ったように、人の特徴というものは上半身よりも下半身によく出るものなのです。これは僕の考えではなく偉大な先人の知恵といったところですが、その知見に従って貴方を観察すると、とても無視はできないおかしな特徴が見受けられます。たとえばあなたの足の長さ……。太腿の付け根から足首にかけての長さです。クリフくん、依頼人の姿をおかしいと思わないかい?」
クリフは失礼だとは思いながらも、まじまじと客人の股下を見ずにはおれなかった。客の足元は、市井にあふれている成人男性らとちがって太ってはおらず、かといって貧弱ではなく適度な筋肉をまとい、いかなる奇形の特徴も見当たらなかった。
「まっすぐで、どちらかといえば美しい脚だと思うが」
「長さに着目するといい。彼の足はね、両足がぴったり同じ長さで、左右対称なんだ。足音や、歩き方を見ればわかる。この人は重心がぴったり真ん中にある」
「足というのは、両足が同じ長さだろう?」
「いいや。大勢の人はそう思い込んでいるが、仕立て屋や靴屋にとっては両脚の長さがぴったり同じで、完全な左右対称にできてる人なんていないというのは常識だ。テーラーメイドを仕立てるのに、体の半分だけの長さを計測する職人なんてこの世にいるだろうか? いるわけない。人間は彫刻とは違うんだ。生まれつき拳ひとつぶんも違う人もいるし、生活習慣や加齢などで骨がすり減って偏りが生まれることもある。依頼人、靴のサイズはそれぞれいくつです? おそらく、それもピッタリ同じ長さでしょう。それだけでなく、両腕の長さも完璧に左右対称になっているはずだ。何故なら、あなたには人間というものは半身ごとにごく若干の違いを持たせなければならないという発想そのものが無いからです」
依頼人はすっかり黙りこんでいた。
それはラト・クリスタルの観察眼が噂に聞いていた以上のものであり、そしてプライドを傷つけられたからだろう。
「クリフくん、紹介しよう。こちらの方は大陸に名高い《竜人公爵》だ。竜でありながら王家に匹敵するほどの力を持ち、爵位を与えられて王国北部に君臨する竜血の君であらせられる」




