第20話 悪意の証明
ラトが金魚を飼い始めた。
信じられないような話だが、それははっきりとした現実だった。ラトは客間に水槽を置き、小さな魚をたくさん浮かべ、そばに読書用の椅子をおいて、日がな一日ずっと図書室から持ち出した難解な哲学書を読み聞かせてやっていた。
退屈は人を殺すというが、まさにその言葉通り、とうとう気が狂ってしまったのかもしれない。違法な煙草に手を出されるよりは遥かにましだが、それはそれとして、はっきり言って背筋が寒くなるような光景だった。
クリフはラトにも金魚にもなるべく近寄らずに過ごした。
夫人の忠実なる使用人たちはプロらしく何も言葉にしなかったが、心の内ではきっと同じ想いだっただろう。宝石商が新聞広告を見たと連絡を返して来たとき、やっとこの件に片がつく時が来たのかと胸をなでおろしたはずだ。
その日の午後、カーネリアン邸を訪れた宝石商たちは、あまりの歓迎ぶりに腰を抜かしそうになっていた。
宝石商たちはウールのジャケットを着こんだ太った男と、黄土色のベストを着た痩せた男の二人組で、ベストを着た痩せた男が部下らしかった。
召使や執事たちは二人を床にも置かぬ扱いで客間に招き入れると、最上級の茶葉で紅茶を淹れてやり、焼き立てのケーキやサンドイッチなどの軽食をたっぷり出してやった。そうしてやってからも、椅子の背もたれがかたいのでクッションはいかがですかなどとあれこれすすめ、いい上着ですね、お似合いですなどとおべっかを使うのも忘れなかった。
商人たちにとっては逆に居心地が悪かったのではないだろうか。
そうこうして甘い汁をたっぷりと吸われたあと、荷物や金を根こそぎ奪われるんじゃないかと目を白黒させている宝石商たちの前に、屋敷の主人が現れた。
「まあまあ、お待ちしておりました。ようこそ我が屋敷へ……」
実際に商談に当たるのはカーネリアン夫人だ。ルベライト元夫人は可哀想に事件のショックで伏せっており、邸には来られないとあらかじめ連絡があった。
もちろん、カーネリアン夫人にも、ルベライト元夫人にも、宝石商から宝石を買い込むつもりは毛頭ない。
これはラト・クリスタルの企みなのだということははっきりしている。
カーネリアン夫人の目配せを受けて、クリフはラトを呼びに二階に上がった。
「ラト、宝石商がやって来たぞ」
扉をノックすると、中から眠たげな声がした。
「ああ、ようやくか……。どうぞ、クリフくん。連中、もう街を出ちゃったんじゃないかと心配してたところだよ」
ラトは毛布の下でごそごそしながら這い出して来たところだった。
服のまま寝たらしく、シャツは皺だらけで、頭は寝ぐせだらけ。タイと靴の片方は行方不明になっていた。
ラトはクリフがソファの下から発見した濃紺のタイを首元に結び、ベストを身に着けた。それから櫛を使って丁寧に髪型を整えはじめた。
「なあ、ラト。聞いておきたいんだが、何故宝石商をカーネリアン邸に呼び出したんだ? 事件の謎はもう解けたということか?」
クリフが訊ねると、ラトは腕組をし、いきなり驚くような言葉を口にした。
「ひとつはっきりさせておこうか。この事件に犯人がいるとしたら、それはルベライト夫人だよ。宝石を消してしまったのは彼女だ」
「なんだって?」
「なんと言われようと、彼女が犯人だ。だって、彼女以外に宝石と二人きりになった人物はいないんだからね」
クリフはカーネリアン夫人がいまのセリフを聞いていなくてよかったと思った。彼女はルベライト夫人にかなりの信頼を置いているようなのだ。ラトの言葉を聞いていたら、たちまち怒り出したにちがいない。
「それはとんでもない結論だぞ、ラト。カーネリアン夫人はこの件では奥方の味方をするものと決めている。そうとなればラト、お前だって夫人の味方だろうと思われてるんだぞ」
「そんなことは僕の知ったこっちゃないね……。しかしかばうわけじゃないが、ルベライト元夫人は宝石が消えてしまうとは思ってなかったはずだ」
「つまり、どういうことだ」
「交通事故みたいなものだよ。どんな馬車だって、女子供や老人、犬を轢き殺してやろうと思って走り回ってるわけじゃない」
「お前さんが何を言おうとしてるのか俺には皆目わかりゃしないが、彼女に悪意はなかったということでいいんだな」
「そうとも。だが、悪意が全く無かったというのは言い過ぎだな。それだけ長い争いを続けてやっとこさ離婚した相手のすることだ。ほんの少ししか悪意の持ちあわせがなかったというのが正しいだろう。そう、宝石が消えたのは結果論でしかない。かわいいものさ」
「ルベライト夫人は無意識のうちに魔法を使って宝石を消してしまったとでも言いたいのか? ばかげた屁理屈を言っていないで、少しくらい説明してくれ。どうして宝石商の奴らを屋敷に招待したんだ?」
「そこがこの事件の難しいところだよ、クリフくん。今回の場合、正直いってルベライト元夫人よりもたちが悪い人物たちがいるんだ。それがあの宝石商たちだよ。僕が考えるに、彼らは詐欺師だ。まともな宝石商なんかじゃない」
「会ったこともないくせに、何故そんなことがわかる? 根拠は?」
「すぐにわかるよ」
ラトはたっぷり時間をかけて身支度を整えると、客間に向かった。
客間では商談の真っ最中であり、軽食やお茶が並んだ丸テーブルの真ん中にカーネリアン夫人が座り、宝石商たちがトランクから青い石の塊を見せているところだった。主にジャケットの男がこの宝石がいかに稀少なものかを熱心に語っている。
「御覧ください、奥様。この素晴らしい色合いを。このような青色は女王陛下の宝石箱にもございませんよ。煌めきはダイヤモンドなみです。有名な収集家であるルベライト卿がまたとない逸品と認めたのですからね」
カーネリアン夫人は閉じた扇の内側で、なんとも言えない表情をしている。
「なんといってもお詫びの品ですからね、大振りのものをおすすめします。これを見れば、おふたりの冷めた愛情も元に戻るかもしれませんよ。カーネリアン夫人が保証人だということであれば、支払いは分割でも構いません」
あまりにも適当なことを言うので、クリフはあきれ果てた。
この二人が悪徳商人であるという確証はまだないが、ルベライト夫妻の仲が破綻した原因が宝石であるということ、二人の婚姻期間は十二年に及び、長い確執があることを考えれば、それはどう考えてもうかつな発言に違いなく、思いやりのある商人の言葉とは思えなかった。
それでなくとも二人はどうも目つきがぎらぎらとしていて、言葉にはしないが《この宝石を街一番の名士に押し付けたくてたまらない》というような雰囲気があるのだった。
「ごきげんよう、僕はラト・クリスタル。この屋敷の客分にして名探偵です。僕も宝石には目がないもので、同席しても構いませんか」
ラトはこの嫌な空気で満ちた交渉の場に土足で入って行って、にっこりとほほ笑んでみせた。
ただ笑顔だけを取り上げるなら、たおやかで美しい少年か、少女のそれなのだが、ラトは強引に交渉のテーブルの真ん中で光り輝いている美しい青い石を取り上げてしまった。
それは青いひとかたまりで、まだ磨かれておらず、表面はごつごつとしたただの石くれのような状態だった。
商人が何か言う前に、ラトはポケットから取り出したルーペで覗き込んでいる。
それから、突然、大きな声を上げた。
「いやはや――なんてことだ、これはひどい。カーネリアン夫人、この石をはっきりと見ましたか? ひどい色ですよ。質も悪い!」
宝石商たちは何とも言えない苦笑いを浮かべている。
さりげなくラトから宝石を取り返そうとするのだが、伸ばした手は巧みにかわされてしまう。
「あなたたちはとんでもない詐欺師です。こんなまがいものの石を宝石だなんて、よく言えるものだ」
「いったい、なんの根拠があって――これは、北部の鉱山で新らしく発見された、まだ誰も知らない稀少な石なのですよ」
「ちがうね。これはクズ石だ。ほら、ここに証拠がある。表面が曇っていてわからないんじゃない? 洗ってみてみよう」
ラトは言って、宝石を持ち去ると、この二日間、自分が大層かわいがっていた金魚の水槽の上に差し出した。
そのとき、商人たちは二人とも、揃って腰を上げた。
「やめろ!」
「待ってくれ、待つんだ!」
さっきとは全く違う剣幕だった。しかし願いもむなしく、宝石は水槽の中へと消えて――そして、消えてしまった。
影も形もない。
「消えた!?」
クリフは声を上げた。
水槽の中の水は飛沫を上げることもなく平静のまま、小さな朱色の魚たちが悠々と泳いでいる。
「びっくりした? これはただの鏡のトリックだよ。だけど、そっちの二人はどうしてそんなに驚いているのかな……?」
宝石商たちは明らかに平静を欠いた様子だった。
「上等のサファイヤだろうが、ブルーダイヤモンドだろうが、水槽に落としたくらいじゃどうにもなりはしませんよ。宝石商ならそんなことはわかっていて当然です。砂利にぶつかったとしても傷ひとつつかないのが高級品のあかしです。むしろ水槽のほうが割れてしまうでしょう。だけど、それだけ慌てふためくということは、あなたたちは知っていたんです。この宝石は、水に絶対に入れてはいけないってことを」
ラトは水槽に手を突っ込んで、青い宝石を取り出した。
「ちがう、私たちは……ただ……」
宝石商の、太ったほうが気まずそうに言った。
「それならいいけど。言っておくけど、僕は温情を掛けたつもりだ。次は本当に水に落とすからね」
ラトはそう言って、宝石を水面に近づけた。
宝石商たちは取るものもの取り合えず、その場を逃げようとして、太った男はクリフに、そして痩せた男のほうは使用人たちに止められたのだった。




