鼓動
森の奥から、叫び声が響いた。
「うおぉぉぉぉぉ!!!」
涙を流す森永ベイクが、拳を握って立っていた。
叫びながら、富士博士に駆け寄る。
「アトム、逃げろぉぉぉ!!」
叫びながら拳を突き出す。
大ぶりの一撃ではなく、小刻みに当てにいくような連撃だ。
だが、博士は軽々と攻撃をいなすと、ベイクの顔面に掌底を叩き込んだ。
「っぐ」
「ふぉふぉふぉ。生身でよくやるのう……死にたければ、殺してやっても良いがな」
──ベイクが殺される。助けないと。
アトムは崩れそうになる膝を無理やり立て直し、富士博士の元へと走る。
頭の中は真っ白で、現実感はない。
森永ココアは、男だった。ベイクだった。その事実はいまだ受け止めきれていない。考えるのを後回しにして、ただひたすらに真っ直ぐ駆けていく。
「ふぉふぉふぉ、良い子だ。自分から近づいてきてくれるのかい」
博士の右手にバチリと紫電が走る。
しかし、アトムは止まれない。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!!」
博士の手がアトムに伸びる。
それは、一瞬の出来事だった。
アトムの前に飛び出す人影……森永ココア。
彼女はアトムの方を向き、ニコリと微笑む。
ココアの腹から生える、博士の手。
表情を無くすココアの顔。
アトムは走る勢いを殺せず、そのまま彼女にぶつかった。
「ぐっ。邪魔をしてくれたのぅ……む?」
巻き込まれる形で、地面に倒れた富士博士。
だが、彼はそのまま立ち上がることが出来ない。
博士の腕には森永ココアが絡みついていた。さらに、その脚にしがみついていたのは──絵崎グリコだ。
アトムは目を見開く。
「グリコ、目覚めたのか!?」
「逃げてください! アトムさん!」
「でも!」
「わたくしたちは、あなたのためなら……!」
躊躇するアトム。
その体が、突然抱え上げられる。
「恨み言は後で聞く」
「ベイクさん!」
「行くぞ」
そう言って、ベイクはアトムを抱えて階段を降りる。
背後からは富士博士の叫び声が聞こえる。
「山崎アトム! こやつらを救いたければ、ファントムのアジトまで来い、必ずじゃ! 逃さんぞ、お前は貴重な……!」
ベイクは無言だった。
客席の扉を開け、アトムを放り込む。その間、アトムは呆けたまま、なすがままになっていた。
VTOL機は静かに空へと舞い上がり、山を離れる。
気流による振動も安定してきた頃だった。
ベイクは運転席を離れ、アトムの座る後部座席に現れる。
「自動運転に切り替えた。これで何もしなくても目的地に着くはずだ……」
アトムの向かいにドカッと座る。
ベイクの様子はおかしかった。
顔色は青白く、額には汗をかいている。息は荒く、体には力が入っていないようだ。
「ベイク……だ、大丈夫か!?」
「アトム、悪いな」
そのまま崩れるように横向きに倒れる。
背もたれには、生々しい血液がベッタリとこびりついていた。
「ベイク!」
「……聞いてくれ、アトム。俺の話を……」
そう言って、アトムの手を握った。
可愛いものが好きで、ピンクのフリフリの服やキラキラしたアクセサリーを身につけたいと思った。格好いい男の子には胸がときめくし、可愛い女の子を羨ましいと思った。
ただ、幼い頃からベイクは賢かった。親が自分の趣味をよく思わないと敏感に察していた。そして、自分の体が男であり、心の性別と不一致を起こしていることをすぐに悟った。
誰にも知られないよう過ごしていたし、実際に彼の……彼女の悩みに気づく者はなかった。
……ただ一人、祖母の森永マリーを除いて。
ベイクにとって、祖母は良き相談相手だった。
下手に同情するでもなく、ただ「そういうもの」として話をしてくれた。当たり前のことを普通に叱ってくれて、一緒に笑ってくれた。そしていつしか、祖母の後について探偵の真似事をするようになった。
両親が仕事の都合で海外に行っても、彼女は祖母の元に残った。ときおり祖母に代わり難事件を解決しながら、理想の女の子像を夢想する日々。
ある日、祖母が言った。
『そんなに女の子になりたきゃ、女の子型のコピーロボットでも持つといい。いっそ兄妹設定で、一緒に探偵でもやったらどうだい』
それはベイクにとって大きな衝撃だった。
これまで思いつきもしなかったが、確かにそれならベイクの夢を叶えることができるかもしれない。
実際にコピーロボットを持った日。
ピンク色のスカートをはき、少し大人びたグロスを塗って、恐る恐る街に出た日の喜びを忘れることはないだろう。森永ベイクの内でずっと育まれてきた森永ココアという女の子は、ようやくその日、外の世界に出ることが出来たのだ。
ベイクは青白い顔で、息苦しそうに話をする。
アトムには、その手を握って話を聞くことしかできない。
「悪いと思ってた……アトムくんを騙していることに、罪悪感を感じてた……本当の私は、女ですらない。大柄でゴツゴツで、いかにもな勇ましい男でしか……なくて」
「うん……うん……」
「アトムくんを好きで好きで、どうしようもなくて……嬉しくて、浮かれちゃって……でも、アトムくんに嫌われると思ったから、本当のことをずっと言えなくて……」
ベイクの手が震える。
アトムは両手で彼女の手を掴んだ。
「罰が当たったんだね……真実を追い求める探偵が……一番大切な人を、一番酷い形で裏切ってたんだもん……アトムくんのことをバカだなんて言えないなぁ……私のほうがよっぽど、大バカだった……」
ベイクの目は、焦点が合わなくなってくる。手の力もすっかり抜けきり、呼吸も浅く、弱々しい。
「ごめんね……初めての彼女がこんなので…………ありがとう……たくさんのドキドキと、素敵な時間をくれて…………よかったよ……せめてアトムくんを助けて、逝くことができて……」
「そんな……待ってよ、ココア……!」
「ふふ……まだその名前で、呼んで……くれ……」
──滑るように進む空の上で、森永ベイクの鼓動は止まった。そしてそのまま、もう二度と動き出すことはなかった。





