8-2:古龍の矜持と店長の看病
自らが発した轟音に呆然としていたリンドを、さらなる異変が襲った。
完璧なはずの鼻から、絶え間なく透明な液体が流れ落ちてくる。
美しい陶器のような肌には、まるで氷の針に刺されるかのような悪寒が走り、体の節々が鈍い痛みを訴え始めた。
その症状の数々は、彼女が知る、あまりにもありふれた人間の病――「風邪」のそれと完全に一致していた。
(こ、この儂が……? 人間どもが罹る、あの下等な病に……?)
戦慄するリンドの横から、カイが呆れ顔で覗き込む。
「あーあ。言わんこっちゃない。風邪、ひいたみたいだな」
その無慈悲な一言に、リンドは激昂した。
「馬鹿を申せ! この儂が、ただの人間の風邪ごときに罹るものか! これは風邪に偽装した、対竜族用の高度な呪いに違いあるまい! そうに決まっておる!」
彼女のプライドが、あまりにも平凡な現実を断固として拒絶していた。
自らに言い聞かせるようにそう結論づけると、リンドは震える指でカイを指し、威厳を保とうとしながらも悲壮な声で命じた。
「小僧! ぐずぐずしておらぬで、この呪い風邪の特効薬をさっさと作るのじゃ! お主ならできるであろう!」
「特効薬ねえ……」
カイは心底面倒くさそうに頭を掻くと、その馬鹿げた要求を鼻で笑った。
「特効薬なんて便利なものはない。温かいもん食って、暖かくして、寝て治すんだよ。人間と同じだ」
「に、人間と同じだと……!?」
その言葉は、リンドにとって最大の屈辱だった。
彼女は怒りに任せて反論しようとしたが、喉からほとばしったのは言葉ではなく、激しい咳だった。
「ごほっ、げほっ! こ、小僧……き、さま……」
咳き込むうちに、自慢の美声がみるみるしゃがれていく。
もはや満足に声も出せないという事実に、リンドはついに観念した。
症状は悪化する一方で、彼女にはもう、不本意ながらもカイの言うことを聞く以外の選択肢は残されていなかった。
「まったく、手のかかるオーナーだ」
「自業自得だろ」
カイはぶつぶつと文句を言いながらも、その手つきは驚くほど手際が良かった。
厨房からは、すりおろした生姜と蜂蜜の甘い香りが漂ってくる。
やがて、湯気の立つホットミルクと、鶏肉と野菜がたっぷり入った栄養満点のスープが、リンドの前に差し出された。
「……こんなもので、儂の呪いが癒えるものか……」
恨み言を呟きながらも、リンドは差し出されたスプーンを手に取る。
ホットミルクの優しい甘さが荒れた喉に染み渡り、丁寧に煮込まれたスープの滋味深い味わいが、冷え切った体に温かく広がっていく。
いつの間にか、彼女は夢中でそれらを平らげていた。
満腹感と体の温かさに、リンドの瞼がとろりと重くなってくる。
熱に浮かされ、その意識は現実と夢の狭間を彷徨い始めていた。
強大な古龍の精神も、慣れない肉体の不調の前には抗えない。
朦朧とする中、傍らで様子を見ていたカイが、静かに立ち上がる気配がした。
その瞬間、リンドの心に、これまで感じたことのない心細さがこみ上げてくる。
彼女はほとんど無意識に、ソファからか細い手を伸ばし、カイの上着の裾を弱々しく掴んだ。
「……どこへ行く、小僧……」
その声は、命令ではなく、懇願に近かった。
「……儂を、一人にするでない……」
子供のような、不安げな声。
カイは少し驚いたように目を見開いたが、すぐにいつものぶっきらぼうな表情に戻る。
「便所だよ。腹でも壊されたら、もっと面倒だろ」
そう言いながらも、彼はリンドの手を振り払わなかった。
そして、彼女が再び穏やかな寝息を立て始めるまで、ただ静かにその傍らに座り続けていた。
*
翌朝。
カイの献身的な(?)看病の甲斐あって、リンドの症状はかなり落ち着いていた。
ソファの上で、大量のブランケットに埋もれて穏やかに眠っている。
その傍らで、カイは静かに本を読んでいた。
カラン、と店の扉が開く。
やってきたのはアランだった。
「カイさーん、いますかー……?」
彼の目に映ったのは、店の静かな空気と、ソファで安らかに眠るリンド、そしてその傍らで静かに本を読むカイ、という、信じがたいほどに家庭的な光景だった。
アランは、何かとてつもなくプライベートな空間に足を踏み入れてしまったことを瞬時に悟る。
「お、お取り込み中でしたらまた……!」
彼はそう小声で言うと、誰に咎められるでもなく、そっと店の扉を閉めた。
Bar "Second"には、また静かな時間が戻ってくる。
それは、嵐の前の静けさかもしれないし、あるいはただの穏やかな一日の始まりなのかもしれなかった。




