6:黒い卵と古龍の矜持
その夜、店の外は激しい嵐だった。
分厚い扉を叩きつける雨粒の音と、路地裏を吹き抜ける風の唸り声が、静かな店内にまで響いてくる。
客の姿はなく、カイはカウンターの内側で静かにシェイカーを磨き、リンドは奥の席で黙ってグラスを傾けていた。
突如、その嵐の音に混じって、店の扉が乱暴に叩かれる。
次の瞬間、鍵もかけられていない扉は勢いよく開け放たれ、雨と風と共に、ずぶ濡れの若い男が一人、店内へと転がり込んできた。
「た、頼む、少しだけ匿ってくれ! ”何か”に追われてるんだ!」
息も絶え絶にそう叫ぶと、男――年の頃は二十歳そこそこの、まだ若い冒険者――は内側から扉に乱暴に閂をかけた。
その腕からは、生々しい切り傷から血が流れている。
「……また面倒事か」
カイは深くため息をつきつつも、棚から救急箱を取り出す。
プロとして、客が誰であろうと最低限の仕事はする。
彼は黙って冒険者の腕に応急手当を施し、温かいスープを差し出した。
リンドは一連の騒動を一瞥しただけで、興味を失ったように磨き上げた爪を眺めている。
冒険者は怯えたように、固く閉ざされた扉の向こうの気配を窺っていた。
どれほどの時間が経ったか。
扉の外からは、嵐の音以外何も聞こえなくなった。
追手が諦めたと判断したのか、冒険者は安堵の表情を浮かべ、慌てて立ち上がる。
「助かった……! あんた、恩に着る!」
「いいから金だけ払っていけ」
「そ、それが……今は持ち合わせがなくてな。だが、代わりに礼ならできる!」
そう言うと、冒険者は背負っていた袋から、ずっしりと重い何かを取り出した。
それは、黒曜石のように鈍い光を放つ、巨大な黒い卵だった。
表面は硬質で、カンテラの光さえ吸い込んでしまうかのような、異様な存在感を放っている。
「ダンジョンの奥で見つけたんだ! すげえ宝物のはずだ! 礼代わりに受け取ってくれ!」
「いらん。持って帰れ」
カイが断る間もなく、冒険者はその不気味な卵をカウンターに押し付けるように置くと、「恩は忘れない!」と一方的に言い残し、嵐の街へと駆け去ってしまった。
後には、静寂を取り戻した店と、場違いな黒い卵だけが残された。
カイがその処遇を考えあぐねていると、それまで沈黙を守っていたリンドが、静かだが有無を言わせぬ声で命じた。
「小僧。それを持って、ここへ来い」
リンドは、カイが運んできた卵を前に、これまでカイが見たこともないほど険しい表情を浮かべていた。
彼女は卵に直接触れることはせず、ただその赤い瞳で、まるで内部を透かし見るかのように凝視する。
その横顔には、普段の尊大さとは違う、古代の王族が放つような冷たい威厳が宿っていた。
長い沈黙の後、リンドは吐き捨てるように言った。
「……ブラックドラゴン。竜種の中でも最も厄介な連中じゃ。奴らはただ己の欲望のままに破壊と略奪を繰り返す。そこに誇りも、矜持も、何もない。ただのわがままな獣じゃ。竜の名を騙るのもおこがましいわ」
その言葉には、カイもよく知る、彼女の存在の根幹をなす「矜持」に基づいた、純粋で絶対的な軽蔑が込められていた。
「ギルドに引き渡すべきか? 街が危ない」
事の重大さを理解したカイがそう提案するが、リンドは「愚かな。人間の手に余る代物じゃ」とそれを一蹴する。
二人が沈黙する中、カウンターに置かれた黒い卵が、ミシッ、と微かに音を立てた。
その音を聞いたリンドは、決意を固めたように静かに目を伏せる。
「……これは儂の仕事じゃ。同族の不始末、儂が預かろう」
リンドはカイに鋭い視線を向けた。
「小僧。表の扉の状態は? どこか厄介な場所に繋がっておらぬだろうな?」
「今は静かだ。ただの変な所には繋がってなさそうだ」
カイが彼女の意図を察し、即座に答える。
店の入口の扉に異常がないことを確認する。
それは、彼らの間ではもう手慣れたやり取りだった。
「よろしい」。リンドは頷くと、黒い卵を魔法の力でそっと浮かせ、店の奥にあるワインセラーへと向かう。
カイも黙ってそれに続いた。
セラーの最も奥、古いワイン樽の陰になった壁には、古い木製の扉がある。
カイとリンドだけがその先がどこに繋がっているかを承知している。
店のもう一つの秘密の扉だった。
リンドが扉に手を触れ、静かに開く。
ただ、静かな月明かりだけが、音もなく差し込む静寂の空間が広がっていた。
彼女は、今回ばかりはどこへ行くのかをカイに告げない。
ただ、黒い卵と共にその空間へと足を踏み入れ、扉が閉まると共にその姿は完全に消えた。
カイは一人、セラーの扉が閉まったのを見届けると、静かに階上へと戻った。
嵐の音だけが響く、客のいない店内で、彼はカウンターに残された冒険者の使ったカップを手に取り、慣れた手つきで洗い始める。
そして、清潔な布で水滴を一つ一つ丁寧に拭き上げていく。
世界を揺るがしかねない秘密を抱え込んだ後でも、彼の日常は、ただ静かに続いていくのだった。




