32:錆びついた剣と、甘い釘
静かな夜だった。
店の奥で、振り子時計の音が一定のリズムを刻んでいる。
カウンターの中、俺は静かにグラスを磨き、隣では新入りのサクラが黙々と作業をしていた。
彼女は俺が洗ったグラスを受け取り、布で拭き上げ、棚へと戻す。
その動作は一切の無駄がなく、機械仕掛けの精密時計を見ているようだ。
先日雇ったばかりのサクラは、仕事ぶりに関しては文句のつけようがない。
「……平和じゃのう」
カウンターの定位置で、リンドが琥珀色の液体が入ったグラスを揺らしながら呟く。
客足が途絶え、店内には俺たち三人だけ。
このまま閉店時間を迎えるかと思った、その時だった。
カラン、コロン。
重厚なドアベルの音と共に、扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
「イラッシャイマセ」
俺とサクラの声が重なる。
入ってきたのは、一人の初老の男性だった。
身の丈ほどもある大剣を背負い、使い込まれた革鎧を纏っている。
歩くたびに、ガチャリ、ガチャリと、金属と革が擦れる乾いた音がした。
男はカウンターの真ん中あたりに、どさりと重い腰を下ろした。
「……何か、安い酒をくれ。酔えればなんでもいい」
投げやりな声だった。
俺は「かしこまりました」と答え、スタンダードなウイスキーをロックで差し出した。
男――ガルドは、礼も言わずにグラスを煽った。
「……ふぅ。染みるな」
ガルドはグラスを置くと、自身の節くれだった手をじっと見つめ、自嘲気味に笑った。
「マスター。俺みたいな古い傭兵は、もう用済みらしい」
ぽつり、ぽつりと、彼は語り始めた。
長年、剣一本で戦場を渡り歩いてきたこと。
しかし最近は、魔導力で動く最新鋭の『強化外骨格』や、魔法銃を使う若い冒険者たちが台頭し、自分のようなオールドスタイルの傭兵は依頼が減っていること。
「今日、ギルドで若造に笑われてな。『おっさんの剣、錆びてるんじゃないの? 博物館にでも飾っときなよ』だってさ」
ガルドは背中の大剣を親指で指した。
手入れは行き届いているが、確かに鞘は傷だらけで、柄の革も擦り切れている。
「まったくその通りだ。時代遅れの遺物……俺はもう、切れ味の悪い『錆びついた鉄くず』だよ」
彼は残りの酒を一気に流し込み、ガリガリと氷を噛んだ。
その背中は、背負った剣の重さ以上に、時代の流れという重圧に押し潰されているように見えた。
「……鉄くず、ですか」
俺は空になった彼のグラスを下げながら、静かに口を開いた。
「では、そんなお客様にぴったりの一杯をお作りしましょう」
「あ? 鉄くずに似合う酒なんてあるのかよ」
ガルドが訝しげに眉を寄せる。
俺は微かに微笑み、バックバーから二つのボトルを取り出した。
スモーキーな香りが特徴の『スコッチ・ウイスキー』。
そして、ハーブと蜂蜜の甘い香りを秘めたリキュール『ドランブイ』。
ロックグラスに氷を入れ、二つの液体を注ぐ。
琥珀色と黄金色が混ざり合い、深みのある色合いへと変化していく。
バースプーンで静かにステアし、氷と液体を馴染ませる。
カラン、と涼やかな音が店内に響いた。
「お待たせしました」
俺は完成したカクテルを、コースターの上に滑らせた。
サクラがすかさず、コースターの位置をミリ単位で修正する。
「……なんだ、綺麗な色じゃねえか」
「カクテルの名前は『ラスティ・ネイル』。直訳すれば――」
俺は一拍置いて、告げた。
「――『錆びた釘』です」
ガルドが目を丸くし、それから「ハッ」と吹き出した。
「錆びた釘、か! 傑作だ。今の俺にお誂え向きだな」
彼は皮肉げに口端を吊り上げ、グラスを手に取った。
どうせ、錆びた味がするような安酒だろう。
そんな顔で、彼はカクテルを口に含んだ。
しかし――次の瞬間、ガルドの目が大きく見開かれた。
「……なっ」
口の中に広がったのは、予想していた「古臭さ」や「渋み」ではない。
濃厚で、とろけるような蜂蜜の甘み。
その奥から立ち上る、数多のハーブの複雑な香り。
そして最後に、スコッチ・ウイスキーの重厚なコクとスモーキーな余韻が鼻へと抜けていく。
「……甘い。いや、ただ甘いだけじゃねえ。なんだこの、深い味は」
「ドランブイというリキュールを使っています」
俺はボトルを彼に見せた。
「この酒は、数多くのハーブとスパイス、そして蜂蜜を、長い時間をかけて熟成させて作られます。ただ甘いだけではない、長い時を経なければ出せない深みがあるのです」
ガルドがグラスの中の、琥珀色の液体を見つめる。
「名前こそ『錆びた釘』ですが、その中身は芳醇で、味わい深い。……最新の武器も素晴らしいでしょう。ですが、使い込まれた剣には、新品には決して出せない『重み』と『馴染み』があるはずです」
俺の言葉に、ガルドはハッとしたように顔を上げた。
横で聞いていたリンドが、ふん、と鼻を鳴らす。
「そうよのう。ピカピカの若造には出せん味が、そこにはあるわい。人間も酒も、古くなってからが本番じゃろ?」
「……違いない」
ガルドは苦笑し、今度はゆっくりと、味わうようにグラスを傾けた。
「……ああ、美味い。体に染み渡るようだ」
一口飲むごとに、彼の顔から険しい色が消えていく。
そこにあるのは、諦めや卑下ではなく、長い戦歴を生き抜いてきた者だけが持つ、静かな自信のようなものだった。
「錆びついたんじゃない。熟成されたんだと、そう思っておくとするか」
ガルドは最後の一口を飲み干すと、満足げに息を吐いた。
カウンターに代金を置き、彼は立ち上がる。
その背筋は、店に入ってきた時よりもずっと伸びていた。
「アリガトウゴザイマシタ」
サクラが先回りして扉を開け、深々と頭を下げる。
ガルドは背中の大剣を揺すり上げ、ニカっと笑った。
「ああ、ご馳走さん。また来るよ。……美味い『錆び』を飲みにさ」
カラン、コロン。
軽やかなベルの音を残して、老兵は夜の街へと消えていった。
「イイ笑顔、デシタ」
扉を閉めたサクラが、無表情のままポツリと言った。
その頭のアホ毛が、ピコピコと嬉しそうに揺れている。
「そうだな。……さて、片付けようか」
俺は空になったグラスを手に取った。
氷が溶け、わずかに残った琥珀色の液体が、店内の明かりを受けて鈍く光っていた。




