26:呪われし鑑定士と、値の付けられない酒
その夜は、冷たい雨が降っていた。
BAR【second】の古びた扉が開き、雨の匂いと共に、一人の男が店に入ってきた。
仕立ての良い服を着ているが、その表情はやつれきり、まるでこの世の全てに絶望したかのように、瞳から光が消えている。
男――バルザックは、カウンターに案内されるまでの短い間にも、無意識に、そして強迫的に、視界に入るすべてのモノの『価格』を鑑定し続けていた。
(扉:オーク材、年代物。銀貨十二枚)
(床の石畳:一枚あたり銅貨三枚)
これは呪いだった。
かつて『神の目』と謳われた高名な鑑定士であった彼は、ライバルの呪術師によって、この呪いをかけられた。
『全ての物の市場価格が、数字として視界に浮かび上がる』
それ以来、彼の世界からは色彩と情緒が失われ、無機質な数字の羅列だけが残った。
カイが、黙って水の入ったグラスを置く。
(バーテンダーのシャツ:綿、仕立て良し。銀貨八枚)
バルザックは、差し出された水で乾いた喉を潤しながら、ゆっくりと店内を見渡した。
(カウンターチェア:木材の質良し。銀貨三十枚)
(壁の絵画:作者不明。キャンバス古し。金貨二枚)
(店の隅の暖炉:年代物だが手入れ良し。金貨十五枚)
彼は、深いため息をついた。歴史ある調度品も、作者の想いが込められているかもしれない絵画も、彼にとってはただの数字だ。
友情も、愛情も、美しい風景さえも、その背景にある「価格」がちらつき、彼の精神をすり減らしていく。
カラン、と軽やかな音がして、店の扉が再び開いた。
お忍び姿のアランと、いつものように胃を押さえたゼノンだった。
二人は楽しげに言葉を交わしながら、カウンターの端に腰を下ろす。
バルザックの呪われた視線が、無遠慮に二人を捉えた。
(ゼノンの剣:ギルド支給品。銀貨七十枚)
(ゼノンが飲んでいる薬草酒:原価 銅貨五十枚)
(アランのフード付きマント:一見粗末だが、古代の魔術的防御繊維を使用。金貨八百枚)
アランの持つ圧倒的な『価格』に、バルザックは息を呑む。
だが、それ以上に、彼らが交わす友情や、その笑顔にさえ、頭の中で勝手に「価格」を付けようとする自分自身に、吐き気を覚えた。
「ほう、面白い『目』を持っておるな、人間」
カウンターの奥、特等席に座るリンドが、値踏みするようにバルザックを見つめていた。
その碧眼は、彼の魂の奥底まで見通しているかのようだ。
「随分と、世の中がつまらなく見えるのではないか?」
バルザックの肩が、驚愕に跳ねた。この女、まさか、この呪いのことを……。
見抜かれた動揺と、長年蓄積した絶望が、彼の理性の箍を外した。
「……この店で、一番安い酒をくれ」
自暴自棄に、彼はそう吐き捨てた。
価格が安ければ、絶望も浅くなるかもしれない。
そんな虚しい思考だけが、頭を支配していた。
しかし、カイは眉一つ動かさず、静かに首を振った。
「あいにく、今夜はそういう気分じゃねえ」
カイは、バルザックの瞳の奥に宿る深い疲労と、渇望にも似た絶望を、ただ黙って見つめていた。
やがて、彼はおもむろにシェイカーを手に取る。
特定の銘柄のボトルではない。
カウンターの端に並んだ、ラベルのない小瓶から数滴の液体を垂らし、名も知らぬハーブを指で軽く揉み、氷と共にシェイカーに入れた。
レシピはない。その日の湿度、客の表情、店の空気、そしてカイ自身の「勘」だけを頼りに作られる、二度と同じものは作れない、その一瞬だけの一杯。
静かなシェイク音の後、淡い琥珀色のカクテルが、バルザックの前に静かに置かれた。
バルザックは、いつもの癖でそのカクテルに視線を落とした。
呪われた鑑定眼が、その「価格」を算定しようとする。
だが、彼の視界に浮かんだのは、いつもの冷たい数字ではなかった。
【価格:N/A(測定不能)】
(測定不能……? そんなはずは……! この呪いにかかってから、鑑定できなかったものなど、ただの一度も……!)
彼は混乱した。市場に存在しない。レシピが存在しない。
カイの技術と、その瞬間の想いだけで生み出されたその一杯は、彼の呪われた鑑定眼では「価格」を弾き出すことができなかったのだ。
バルザックは、震える手でグラスを手に取った。
カクテルから、嗅いだことのない、複雑で、しかし心を落ち着かせる香りが立ち上る。
彼は、何年ぶりかで、その「価格」を知らないまま、液体を一口、口に含んだ。
味が、した。
いや、違う。
呪いにかかってからも、味覚はあった。
だが、それは常に(銅貨三枚のパン)(銀貨二枚のスープ)という「価格」の味だった。
今、彼の舌を潤しているのは、「価値」そのものだった。
複雑なハーブの香り、アルコールの清冽な刺激、そして、作り手の計り知れない技術と想い。
「……うまい……」
彼の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは、灰色だった世界が、再び色彩を取り戻した瞬間だった。
カイは、黙って布巾でカウンターを拭いている。
「そりゃどうも。……代金は、あんたが『妥当だと思う額』でいいぜ」
それは、彼にとって最も残酷で、そして最も優しい問いかけだった。
呪いが解けたわけではない。
しかし、バルザックはこの世にまだ「価格」の付けられない、美しい価値が存在することを知った。
彼は、涙を拭うと、震える手で財布から一枚の金貨を取り出し、カウンターに置いた。
「……ありがとう。この一杯の『価値』だ。お釣りは、いらない」
バルザックは、カイに深々と頭を下げた。
BAR【second】の扉を開けて出ていく彼の足取りは、来た時とは比べ物にならないほど、軽く、力強いものになっていた。




