2:勇者の相談と囚われの妖精
店の扉が閉まり、キノコたちの騒動が嘘だったかのように静寂が戻る。
その中で、青年――アランは、カイから差し出された小さなカップを前に、わずかに身を強張らせていた。
黄金色に澄んだスープからは、先程まで店を満たしていた、あの豊潤な香りが立ち上っている。
「……カイさん、これが先程の……」
「ああ、歌うキノコのスープだ。毒味は済んでるから安心しろ」
悪戯っぽく笑うカイに促され、アランは意を決したようにスプーンを手に取った。
そっとスープをすくい、恐る恐る口元へと運ぶ。
次の瞬間、アランの碧い瞳が驚きに見開かれた。
「こ、これは……! なんて深く、豊かな味わいだ……!」
口に含んだ瞬間に広がる、濃厚なキノコの風味。
それは森の土の匂いと、太陽の光を凝縮したかのような滋味深さ。
喉を通り過ぎた後も、幸福な余韻が舌の上に長く留まる。
アランは夢中になったように、最後の一滴までスープを飲み干した。
「素晴らしい……本当に素晴らしいです!」
興奮冷めやらぬ様子で語るアラン。
その純粋な感動に満ちた視線は、カウンターの奥で優雅に酒を嗜むリンドへと向けられた。
「カイさんは本当に幸せ者ですね! こんなに美しい奥様がいて、これほど美味しい料理まで作れるなんて!」
満面の笑みで放たれた、一点の曇りもない賛辞。
そして、いつもの勘違い。
カイはこめかみをぐりぐりと押さえた。
また始まった、と内心で天を仰ぐ。
アランの発言と同時に、店の空気が音を立てて凍りついた。
流れていた曲の音色までもが、一瞬遠のいたように錯覚する。
指でグラスを弄んでいたリンドの動きが、ぴたりと止まった。
その血のように赤い瞳がゆっくりと細められ、完璧な美貌をたたえていたはずの額に、青筋がうっすらと浮かび上がる。
「アラン……てめえ、何回言ったら分かるんだ! こいつはオーナーだ! 妻じゃないといつも言ってるだろうが!」
「え? ですが、こんなにお綺麗でカイさんの隣にいるのですから……」
「……勇者よ」
リンドの静かな声が、カイの怒声とアランの間の抜けた返事を切り裂いた。
「その腐った脳味噌に、もう一度だけ叩き込んでやろう。儂はこやつの妻ではない。金輪際、間違えるな。次はないぞ」
絶対零度の声と視線に、さすがのアランもびくりと肩を震わせ、申し訳なさそうに小さくなった。
カイは大きなため息をつき、その場を収めるようにアランに水を出す。
気まずい沈黙が少しだけ流れた後、アランは居住まいを正し、その表情から先程までのあどけなさを消した。
「……すみませんでした。本題に入ります。実は、カイさんにしか頼めない相談があるんです」
その声は、勇者と呼ばれるにふさわしい、真摯な響きを帯びていた。
アランは静かに語り始めた。
数日前、ダンジョン『妖精の寝床』でゴブリンの小規模な集落を発見し、討伐した時のこと。
ねぐらを調査していると、汚れた木箱で作られた粗末な檻を見つけたという。
「中に……小さなピクシーが閉じ込められていたんです。羽を傷つけられ、ひどく衰弱していました」
ゴブリンたちは、ピクシーの羽から採れる鱗粉を目当てに捕らえていたらしかった。
アランはすぐにピクシーを救出したが、問題はその後だった。
「森に帰そうにも、傷のせいでまともに飛べず、このままではすぐに他の魔物に捕まってしまう。ギルドの保護施設はあくまで人間族のものです。どうすればこの子を……」
助けたはいいものの、その命を預かる術がない。
勇者としての正義の行動が、新たな悩みを生んでしまったのだ。
彼はカイならば、表沙汰にできない事情に詳しいかもしれないと、最後の望みをかけてやってきたのだった。
「……お前ってやつは、本当に面倒事を拾ってくる天才だな」
カイは腕を組み、心底呆れたように呟くが、その声に本気の拒絶の色はない。
「ピクシーか。矮小なだけの虫のようなものじゃな。儂には関係のないことじゃ」
リンドは興味なさそうに爪を眺めている。
アランは反論するでもなく、おもむろにマントの内ポケットに手を入れた。
そして、柔らかな布にくるまれた小さな存在を、カウンターの上にそっと置いた。
布が開かれると、中から現れたのは手のひらに乗るほどの小さな妖精だった。
月光を編んだかのような金の髪、そして片方が痛々しく裂けてしまった、蜻蛉の羽のような一対の翅。
恐怖と衰弱でぐったりと横たわり、か細い呼吸を繰り返している。
カイは、またしても長い、長い溜息を一つ吐いた。
彼は無言で立ち上がると、カクテルに使うための蜂蜜を小さなスプーンに一滴垂らし、それを水で溶いてピクシーの口元へと運んだ。
ピクシーは最初、警戒していたが、甘い香りに誘われたのか、やがておずおずと顔を近づけ、その蜜を舐め始めた。
「ありがとうございます、カイさん……」
「別に。腹が減ってるやつに飯を食わせる。それだけだ」
そっけない返事とは裏腹に、カイの眼差しはどこか優しかった。
蜜のおかげか、少しだけ元気を取り戻したピクシーは、ゆっくりと身を起こした。
そして、何かを伝えようとするかのように、カイとアラン、そしてリンドの顔を順番に見つめる。
やがて、ピクシーは震える手で傷ついた羽に触れた。
すると、その指先から金色の光の粒子が、ふわり、と宙に舞う。
「……これは?」
アランが息を呑む。
光の粒子――鱗粉は、まるで意思を持っているかのように薄暗い店内の空間を飛び交い、一本の線を描き、やがて面を構成していく。
それは、光で描かれた一枚の絵だった。
そこに描き出されたのは、憂いを帯びた表情、流れるような銀の髪、気高くもどこか寂しげな横顔。
光の粒子が明滅し、まるで生きているかのように表情を変える、リンドの肖像画だった。
店内の誰もが、その幻想的な光景に心を奪われる。
それまで冷淡に成り行きを眺めていたリンドが、ゆっくりと席を立った。
彼女は宙に浮かぶ自らの光の肖像画に、まるで美術品に触れるかのように、そっと指を伸ばす。
「……ほう」
リンドの唇から、感嘆とも驚愕ともつかない吐息が漏れた。
「この儂の神々しいまでの美しさを、わずかながらにでも理解するとは。先程の下等な菌類よりかは少しだけましじゃな」
その口元には、初めて確かな興味の色が浮かんでいた。
その光景を見ていたカイが、ポン、と軽く手を打つ。
その音に、アランとリンドの視線が集まる。
「……アラン、心当たりが一人だけいる」
カイの口から語られたのは、アステルの街外れで薬草園を営む、一人のエルフの女性の話だった。
歳は二百を超える程度で、見た目も若いが、植物や妖精といった、か弱きものたちの扱いに長けているという。
そして彼女もまた、カイの昔なじみの一人だった。
「気難しい人だが、命を弄ぶやつを何より嫌う。あそこなら、安全に保護してくれるはずだ」
翌日、カイとアランは、小さなピクシーをランタン型のガラスケースに入れ、街外れの薬草園を訪れた。
ハーブの香りが満ちるその場所で、カイの説明を聞くエルフの女性は、最初こそ眉をひそめたが、傷ついたピクシーの姿を見ると、すぐに中へと招き入れてくれた。
「……この子の羽が元に戻るまで、私が預かりましょう。森へ帰る手助けも」
専門的な知識を持つ彼女の言葉に、アランは心からの安堵の表情を浮かべた。
その夜、再びBar "Second"を訪れたアランの表情は、晴れやかだった。
「本当に、何とお礼を言ったらいいか……」
アランは心からの感謝を述べ、報酬だという金貨の詰まった袋をカウンターに置く。
カイはそれにちらりと目をやっただけで、押し返した。
「いいから、その金でうちの酒を飲んでいけ。それが礼だ」
ぶっきらぼうにそう言って、カイはアランの前に一杯のカクテルを差し出す。
アランは一瞬戸惑った後、満面の笑みで頷いた。
やがてアランも帰り、店内にはまたいつもの二人が残される。
客のいないカウンターで、リンドが指先で小さな光の粒子を弄んでいた。
ピクシーが感謝の印に残していった、ささやかな置き土産。
その光は、彼女の赤い瞳を映して、静かにきらめいていた。
カイはそんな彼女の様子を黙って見ながら、静かにグラスを磨き始める。
店の静寂の中に、また一つ、小さな物語の余韻が溶けていった。




