10-1:元魔王の就職活動
その夜、Bar "Second"には穏やかな時間が流れていた。
カイが静かにグラスを磨いていると、店の扉が、カランというベルの音ではなく、ガチャリと鍵で直接開けられた。
店の常連客の中でも、ごく一部の者にだけ渡されている合鍵の音だ。
重厚な扉を開けて入ってきたのは、屈強な肉体を上質な、しかし着慣れない平服に包んだ壮年の男、マグナス。
床板が彼の体重でぎしりと軋む。
その広い肩は、世界の重圧に耐えてきた証のようにたくましいが、今はしょんぼりと垂れ下がっていた。
彼はカウンターの中でも一際頑丈そうな椅子にどさりと腰を下ろすと、店中に響き渡るような、深く長いため息をついた。
ボトルが数本、その吐息の圧力でカタカタと震える。
すかさず、カウンターの奥で酒を嗜んでいたリンドが、楽しそうに赤い瞳を細める。
「おお、偉大なる魔族の王ともあろうお方が、この世の終わりのような顔をしてどうした。玉座を失った寂しさにでも苛まれておるのか?」
「黙れ、古龍。貴様の軽口を聞きに来たのではない」
マグナスはリンドを忌々しげに睨みつけながらも、カイに向き直り、絞り出すような声で言った。
「カイ……また面接に落ちた」
「……今度はどこだ?」
カイは何も言わず、棚から一番強い蒸留酒のボトルを取り出し、分厚いグラスに注いで差し出す。
マグナスはそれを水のように一気に呷ると、これまでの悲惨な就職活動について、その詳細を語り始めた。
「まず、パン屋の窯番に応募した。『火力を一定に保て』と。実に簡単な任務だった。我が魔法で窯の内部温度を摂氏八百度で完璧に維持してやったのだが、『パンが黒曜石になった』『店のオーブンが溶けて崩れ落ちた』などと、理不尽極まりない理由で怒鳴られた」
「……だろうな。普通の窯は薪でやるもんだ」
「次に、鍛冶屋の弟子になった。『鉄は熱いうちに打て』と。至極当然の命令だ。ゆえに、ヘルファイアで工房中の鉄鉱石を融解させ、常に熱い状態を保ってやったのだが……なぜか親方に『俺の人生を返せ』と泣かれた」
「……そうだろうな。鉄は一本ずつ打つもんだ」
「極め付きは、衛兵の採用試験だ! 『暴徒の鎮圧方法』を問われた。我が軍の基本戦術である『敵対勢力の一割を殲滅し、残る九割の恐怖心によって統率する』という、最も効率的で実績のある方法を披露したのだが、面接官が泡を吹いて卒倒し、即刻つまみ出された」
マグナスは本気で解せないという顔で、再びグラスを呷る。
カイはこめかみを強く押さえた。
「あんたのスキルは、もう少し平和的に、こう、手加減とかできないのか……」
「これでも最大級の配慮をしておる! この儂の輝かしい経歴と、比類なき能力を活かせる仕事が、なぜ人間社会にはないのだ!」
元魔王がそう嘆いていた、まさにその時だった。
カラン、と店の扉が軽やかに開き、一人の青年が入ってきた。
英雄、アランだった。
「カイさん、こんばんはー……って、あれ?」
アランは、カウンターで項垂れるマグナスの、そのあまりにも特徴的な広い背中を認め、その場で凍りついた。
マグナスもまた、聞き覚えのある声に顔を上げ、アランの顔を見て凍りつく。
数年経つとはいえ、世界の命運を賭けて死闘を繰り広げていた二人が、王都から離れた路地裏のバーで、ばったりと顔を合わせてしまったのだ。
店内に、信じられないほど気まずい沈黙が流れる。
アランは入るべきか出るべきか逡巡し、マグナスは誇りを保つべきか項垂れるべきか葛藤している。
ただ一人、リンドだけが、この上なく楽しそうにワイングラスを傾け、その光景を静かに鑑賞していた。
プロのバーテンダーとして、その地獄のような沈黙を破ったのはカイだった。
「アラン、いらっしゃい。突っ立ってないで座れ。いつものエールでいいか?」
「あ、は、はい……」
カイのいつもと変わらない声に、二人は我に返る。
アランはおずおずと、マグナスから最も遠いカウンタースツールに腰掛けた。
マグナスは、何かを思いついたように、アランに詰め寄った。
「おお、英雄ではないか! ちょうど良いところに! 貴様とは講和を結んだ仲だ、この儂にふさわしい仕事の斡旋をしろ!」
「ええっ!? し、仕事ですか!? そ、そうですね……マグナス殿は、お力が強いから、例えば木こりとか……」
「木こりだと? この儂に森の木を切れと申すか!」
「で、では解体作業とか……」
「破壊は得意だが……創造性が感じられんな」
無茶振りに狼狽し、しどろもどろになるアラン。
その混沌とした光景を見ていたカイは、静かに一枚の羊皮紙を取り出すと、マグナスの目の前のカウンターに、トン、と置いた。
そこには、カイの少しだけ雑な、しかし読みやすい字でこう書かれていた。
『求人:皿洗い兼用心棒(時給:銅貨八枚。賄い付き)』
マグナスは、その張り紙を凝視する。
自らの輝かしい経歴と、提示されたあまりに質素な業務内容を天秤にかけているかのようだ。
アランは、信じられないものを見る目でそれを見つめている。
そしてリンドは、ついにこらえきれず、グラスを置いて腹を抱えて笑い出した。
元魔王の再就職への道は、まだ始まったばかりだった。




