8-3:全快祝いと新たな火種
アランが慌ただしく帰っていった後、店には再び静かな時間が流れた。
カイの献身的な看病の甲斐あって、リンドはそれから丸一日、一度も目を覚ますことなく深い眠りに落ちていた。
彼女が次に目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。
窓から差し込む陽光が、いつもより暖かく感じられる。
体を起こすと、あれほど自分を苦しめていた体の節々の痛みや、頭の重さが嘘のように消え去っていた。
喉の違和感もなく、試しに声を出してみれば、いつもの鈴を転がすような美声が淀みなく響く。
「……治った、のか……?」
彼女は自らの掌を見つめる。
あの致死性の呪いは、完全に消え去っていた。
リンドは、自らの強靭な生命力と、カイが調合したあの「原始的な薬(病人食)」が、見事呪いに打ち勝ったのだと完全に信じ込んだ。
彼女はソファからすっくと立ち上がると、開店準備をしていたカイの前に、仁王立ちになった。
「小僧」
「なんだよ。起きたのか」
「うむ。お主のおかげで、忌まわしき呪いは浄化されたようじゃな」
すっかりいつもの調子を取り戻したリンドは、尊大な態度でカイの働きを評価し始める。
「小僧、見事であった。お主の働きは、この儂が直々に認めてつかわす。儂の命を救った褒美として、今日は好きなだけこの店の酒を飲むことを許可しよう。もちろん、支払いは儂持ちじゃ」
「そりゃどうも」
カイは、もはや「あれはただの風邪だ」と訂正するのも面倒になり、ただ曖昧に頷いた。
彼女なりの最大級の賛辞なのだろう。
とりあえず、元気になってくれたのなら、それで十分だった。
*
その日の夜、Bar "Second"はいつも通りの営業を再開した。
リンドもいつもの定位置に戻り、上機嫌で酒を飲んでいる。
あの悪夢のような二日間が嘘だったかのような、穏やかな光景だった。
そこへ、カラン、とベルの音と共に、ギルドマスターのゼノンが疲れた顔で入ってきた。
「カイ、いつものやつを……」
彼が言い終わる前に、溜まった心労を吐き出すかのように、小さく咳払いをした。
「……げほっ。すまん、少し喉が……」
その瞬間、店の空気が凍りついた。
カウンターの奥で優雅にグラスを傾けていたリンドの目の色が、カッと変わる。
その赤い瞳は、獲物を狙う猛禽のように、病原菌を鋭く射抜いていた。
「小僧!」
リンドの、怒気に満ちた鋭い声が店内に響き渡る。
「そこの男を叩き出せ! 病原菌を店に持ち込むでないわ!」
「はあ!? 病原菌とは何だ、リンド殿!」
突然罵倒されたゼノンは、当然ながら抗議する。
だが、つい二日前に死の淵(本人談)を彷徨ったリンドに、彼の常識は一切通用しない。
結局、鬼の形相で詰め寄るリンドの剣幕に押され、ギルドマスター・ゼノンは、一杯の酒にもありつけないまま、すごすごと店から追い出されてしまった。
その一件は、始まりに過ぎなかった。
翌日には、胡椒の効いたツマミを食べてくしゃみをした職人を叩き出し、その次の日には、顔色が悪いという理由だけで衛兵の入店を拒否した。
リンドは自らを店の「健康管理責任者」と称し、彼女の独断と偏見による厳格な健康チェックを客に課し始めたのだ。
当然、店の客足はぱったりと途絶えた。
数日後。客の誰もいない、静まり返った店内で、カイはリンドに向き直った。
「リンド」
「なんじゃ、小僧」
「その『健康管理責任者』とやら、もうやめろ」
カイの静かだが、有無を言わせぬ声に、リンドは不機嫌そうに眉をひそめる。
「何を言うか。儂はこの聖域を、下等な病魔から守っておるのじゃぞ」
「客から聖域を守ってどうする」
カイは空っぽの客席を親指で指し示し、深く、長いため息をついた。
「あんたが追い出した客、この三日で何人になるか分かってるか? このままだと一月もたずに店が潰れるぞ。それでもいいのか?」
「む……」
店の経営が傾く、という現実的な問題を突きつけられ、リンドはぐっと言葉に詰まる。
この店は、彼女にとっても居心地の良い巣であり、何より、美味い酒と退屈しない下僕がいる重要な場所だった。
「……フン。人間とは、病に弱く、心も弱い、実にか弱い生き物よの」
リンドは悪態をつきながらも、矛を収めることを選んだらしい。
「よかろう。貴様の言うことも、まあ一理なくもない。健康管理責任者の任は、今日限りで解いてやる。……だが小僧、次にお主が病に倒れても、儂は看病してやらぬからな!」
捨て台詞を残してそっぽを向くリンド。
カイは、ようやく取り戻された店の日常に、心の底から安堵のため息を漏らす。
「……そんときは、そんときだ」
二人の信頼関係は、ほんの少しだけ深まったのかもしれない。
だが、カイの心労が尽きる日は、まだ当分先になりそうだった。




