中学一年生篇6
数週間、週末前の授業が終わると、直樹と茜は示し合わせたように一緒に学校を出るようになった。
しばらくは制服での出歩きが主だったが、貰った服も着たいという直樹の申し出により、時には私服での買い物をした。
降りた駅の周りをあらかた散策したあとは、もう少し遠出をしてみたり、ファストフード店や喫茶店にも入ってみる。何事も、初めのうちはドキドキしてしまい楽しむ余裕もなかったが、慣れていくうちに気持ちが上回っていった。女の子として見てくれることが嬉しかった。
今日も、その週末である。
しかし、茜は委員会での集まりがあり、直樹は一人で駅に向かっていた。
梅雨の時期にしてはカラリと晴れていて、いい散歩日和だ。店内を見てまわるよりは、風景を楽しんで歩くほうがいいだろう。
くるぶしまでのスカートと、シャツに薄いカーディガンを合わせて、直樹はいつもの駅に降り立った。
学校のカバンは駅のコインロッカーに入れてある。代わりに小さなポシェットを下げ、直樹は畑が点在する住宅街に踏み出した。
緑が多く、少し地元から離れるだけでここまで空気が違うものかと、毎回驚かされる。
足取り軽く、直樹は緑道を進む。
駅の近くには店が立ち並び、気になった場所には少し立ち止まってみる。それを過ぎてしまえば、子どもたちの賑やかな声が出迎える公園がある。車通りも少なくて気持ちがいい。
直樹は楽しそうにはしゃぐ声に惹かれて、公園の中を突っ切っていくことにした。
懐かしい遊具に囲まれると、童心に戻る気がする。
(まだ、大人でもないけど)
心で訂正を入れ、比較的すいているブランコに腰掛け、アスレチックで遊ぶ小学生を眺めた。みんなランドセルをベンチや木に引っ掛けていて、家には帰っていないようだ。自分が小学生だったときを思い返し、そのまま遊びに行っていた子がいたなと、直樹は微笑んだ。
久しぶりの晴れ間に浮かれているのは自分だけじゃないんだと嬉しくなる。
うららかな日差しの下、キコキコとブランコを漕ぎつつ瞳を閉じる。
春も終わり、次は容赦のない夏がやってくる。この柔らかな暖かさもあと少しだ。ぼんやりとそんなことを考えていたとき、すぐそばで遠慮がちな声が小さく聞こえた。
「お姉ちゃん、かして?」
目を開くと安全柵の外から、手をつないだ小学校高学年と低学年の姉妹らしい女の子が二人立っていた。
声をかけてきたのは、背が低いほうの女の子だ。妹だろう。
ブランコは二つしかなく、直樹はお尻を手ではらって退く。
「どうぞ。占領しちゃってごめんね」
にこりと笑って場所を譲ると、妹は恥ずかしそうに下を向きながら、小走りにブランコに近づいた。手をつないでいた姉も、すぐにあとを追いかけていく。
さてどうしようかと直樹が出口を見ると、再びか細い声が呼び止める。
どうしたのかと振り返り、首を傾げる。
姉のほうが、まっすぐに直樹を見つめていた。まじまじと顔を見られ、直樹は指先を髪に寄せて顔を隠そうとする。だが、短い髪では到底無理で、ブランコの漕ぐ音がするのと同じくして、女の子の口が動いた。
「お姉ちゃん、ひとりなの?」
「うん……そうだね」
「ひとりでブランコ乗ってたの?」
「今日は、いい天気だし。お友達は用事でこれなかったんだよ」
「ふーん」
女の子はブランコを漕ぐのをやめ、自分の隣で元気にブランコを揺らす妹を、しばらく見ていた。
綺麗な黒髪が風になびく。高い笑い声が空に届く。
直樹は柵に腰掛け、誰に話しかけるでもなく喋りだした。
「僕は、女の子に見えるかな」
何も考えずに口をついた言葉に、一番驚いたのは直樹自身だった。
長く美しい髪に心を奪われ、思わず出てきた言葉。自分の髪も、せめて肩ぐらいまであればもっと可愛く見えるかもしれない。そんな思いが胸を圧迫した。
女の子は言葉の意味をうまく租借できなかったようで、疑問符が浮かんでいる。
直樹は、今度ははっきりと口を動かして
「僕は、女の子に、見えるかな」
「見えるよ」
直球で返される言葉。それは嬉しい言葉。
けれど、それだけでは足りなくて、直樹は再び続ける。
「でもね、本当は僕、男の子なんだ」
くしゃりと顔を歪め、笑う。口元が軽く痙攣しているようで、ひくりひくりと動いている。うまく笑えている気がしない。ただ、女の子の反応を見る。
いつのまにか、妹のブランコを漕ぐ音もしなくなり、直樹の周囲だけいやに静けさが広がっていた。
返ってくるはずの言葉はなく。笑いつかれてきた表情筋が、むなしく音をたてて崩れていく。
年下に向かって、何をカミングアウトしているのだと惨めになり、直樹は早くこの場を立ち去ったほうがいいと、腰を浮かした。
「お姉ちゃんは、お姉ちゃんじゃないの?」
立ち上がった直樹を食い止める妹の黒髪が、風に揺れた。
「きれいね」
ぶわっと、風が巻き上がる。白南風だろうか。
まだ明るい公園に、『家路』のメロディーが流れ始める。女の子たちは互いに視線を合わせ、ブランコから降り立ち、直樹の横をすり抜けていった。
鈴を転がしたような笑い声が走って行き、彼女の言葉だけが残った。
直樹はボーっとしている頭を隠せさせるため、両頬を強く叩く。もう女の子たちの姿はなく、親子の姿が目立つばかり。本当にあったことなのだろうかと疑問になりつつ、自分も公園をあとにする。
足が地面についているか不安で何度も下を見て確認するが、飛んでいるということはなく、しっかりと地面を掴んで歩いていた。
空を見上げれば、ずっと遠くのほうから夕方が迫ってきている。
直樹はポシェットを押さえながら、上を向いて歩いていた。
駅に向かって歩き、曲がり角をよく見もせずに曲がろうとしたとき、ドンと体に衝撃が走った。
「いってぇ……」
「ご、ごめんなさい」
尻餅をついた直樹が謝り、立ったまま胸元を押さえる男子学生が呻く。苦しそうに下を向いたままの彼に、直樹は早く立ち去りたいと思いつつも、このままでは逃げてしまうようで申し訳ない。
近づいて、もう一度謝罪しようとしたと直樹の手を、目の前の学生が鷲掴んで怒鳴る。
「ちゃんと前見て歩けよ!てめぇのせいで怪我なんか、したら……」
最後のほうには言葉を失ってしまった彼を、直樹は不思議に思って顔を上げた。
そこには、見たことのある顔。いや、見慣れすぎた顔だ。毎日のように顔を合わせているのだから、同じクラスで。
「あれ?お前、川瀬?」
混乱しているのか、視線を上下に行ったり来たりさせながら、大島健二は顔を覗き込む。直樹はバレるわけにはいかないと、できるだけ頭を下げて腕を振り払おうと試みる。
しかし、がっちりとホールドされた手首は、ちょっとやそっとじゃビクともしない。
「川瀬だろ?お前、なんでそんな格好してんの?」
ニヤついた声が鼓膜を震わせる。
ぞくり、と背筋を薄ら寒いものが這い、大きな声がでそうになった。
「健二、なにやってんだよ」
「あ、舜!」
心臓が一瞬、止まる。
知った名前に、動きが鈍くなる直樹。
そんな彼に健二は気が緩み、手首を握る力が弱まった。その隙をついて、直樹は彼の手をはらい退けて逃げ出した。昔の自分と、今の自分の姿が重なる。
後ろからは名前を呼ぶ声。追いかけてくる気配はない。気配はないが、止まることは許されなかった。あらん限りの力で駅を目指す。
往復切符を機械に通し、直樹は公衆トイレに駆け込む。自分の荒い息を聞きながら、誰も入ってくるなと念じた。女性トイレに駆け込んでしまったが、個室が多くて助かった。一番奥の部屋に入って鍵をかけると肩の力が抜け、喉がぐうっと持ち上げられるような感覚がした。
熱が体中を駆け巡り放出される。大粒の涙が溢れ、胸が潰れそうだ。
声をあげたくなるのを抑え、唇を震わせてスカートを握りこむ。
両手に、いくつもの雫が散った。




