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第九章 時の神が二人を分かつとも

 学ぶ。求めるつもりでいた星見の知識は、ノエルとの親交を締結することによって補えると考え直した。それよりも、極寒の地であるここだからこそ学べる、最低限の資源で生活を維持する《ノイズ》の利用法に関する文献を読み漁った。《ノイズ》は武器化させるだけが能ではない。その発想の転換はパルディエスにはないもので、ハイレンをいつまでも研究に没頭させた。

「たいくつ」

 少し寒さの緩んだある夜、隣に横たわるミドリが拗ねた口調でそう言い、ハイレンの掌に灯った焔の《ノイズ》に自分のそれを叩きつける恰好で掻き消した。折角《ノイズ》を水晶に封じられる程度まで炎の熱に変換出来たところだったのに。

「……やっと凝縮させられたのに」

 不満げな声で彼女を睨みつけても、彼女が悪びれることはなかった。それはかなり珍しい反応で、既に彼女のノイズを聞けなくなってふた月になろうとしている今では、パスにされない彼女のそんな態度は、ただハイレンに戸惑いの表情を浮かべさせるばかりだった。

「言いたいことがあるなら、パスにする、と約束しただろう」

 ハイレンは呆れた声でそう告げながら、枕の上に広げていた書物を閉じて枕許へ片づけた。溜息混じりに床へ立てていた肘を折り、ミドリの隣へ身を滑らせる。懐に彼女を納めると、胸元でぽすん、という軽い音がした。

「人によって、《ノイズ》の得手不得手があるようだ。ヘルト殿下のような、鳥の《ノイズ》を持つ者は、それを使って伝令などに役立てることが出来る。彼と鍛錬で競争中だ」

 寝物語の代わりに、今夜も今日の一日をミドリに語る。彼女はいつもそんな話の中で、いつの間にか寝息を立てるから。

「ボラウの《ノイズ》が、隼なのだ。彼は《ノイズ》を悪と思いこんでいるから、滅多に見せることはないのだが」

「ボラウって、いつも穏やかだものね。感情をあからさまにしないから、隼なんて何だか意外」

 優秀な伝達係さんになりそうね、と彼女がやっと笑ってくれた。

「早く、パルディエスに帰りたいな」

 みんなに会いたい。タクトやボラウ、館の子供達。エインに「充分、もういいよ」と伝えたい。カインと今後の館のあり様を語り合いたい。たくさんの望みをパスにするミドリが、不意に顔を上げてまっすぐ視線を合わせて来た。

「別に、ホームシックって意味じゃあないからね。子供扱いしちゃやぁよ」

「ほーむしっく?」

「寂しいから帰りたい、っていうような意味。そうじゃないから、ハイレンまでそんな風に子供扱いしないでね」

「……」

 ミドリが何を言いたいのか解らない。

「別に、子供扱いをしたことはないのだが」

 でなければ、パルディエスの掟を覆してまでミドリを娶ろうなどと思わない。

「うそ」

「嘘をついてどうする。本当は、紅でなくとも鍛錬さえ積めば《ノイズ》を自在に出来るのだ。それが解れば、皆もキュアの妻というものに固執することもなくなるだろう。説得の自信があるから求婚し」

「そういう話じゃ、ないの」

「……」

 じぃっと食い入るような瞳を向けられると、読み取れない自分に罪があるのでは、と後ろめたさを抱いてしまう。

「あのね。私ね、もう十六歳なの。解る?」

 ミドリの頭の回りから、久方振りにシェリルが枝葉を見せた。

「ディエルトでは、とっくに大人なの。なのにね、ハイレンはね、私をいつまでも子供扱いのまんまなの」

 シェリルの《ノイズ》が、ぺちりとハイレンの頬を叩き、《ノイズ》以上に久し振りの、彼女のノイズを運んで来た。それはハイレンの予想だにしないノイズで、彼女に炎の《ノイズ》が掻き消されてしまったにも関わらず、妙に体中が熱くなった。

「……」

 水晶に封じられている麒麟がふと目に留まる。それを少しばかり邪魔だと思ってしまう。逃がせば寒さが室内を満たすのだろうが、ほどなくまた温かくなるだろう。紅の小さな龍に、ノイズの欠片を封じ込めて解き放つ。その小龍に麒麟の遊び相手をさせると、淡い朱色の照明が、ふ、と消えた。闇が部屋を覆い尽くすと

「鈍ちん」

 と、はにかむ声が鼓膜をそっと揺らした。そのコトバの意味は解らなかったが、甘く囁くミドリの声が、もう幼い少女のそれでなくなっていることだけは解った。

 蜜月の夜が、音もなく過ぎてゆく。漆黒の闇に、淡く儚いシェリルの大樹が、抱きしめるように枝葉で紅龍を包む姿が刹那の時間浮かび上がった。




 タクトから言い渡された『ふた月』をみ月も過ぎた頃に、ようやくハイレンは《ノイズ》の利用に関する文献や、実際に利用する術を粗方網羅した。

「教え甲斐のある弟子でござった。道中の無事を祈るでござる」

 ロズウェルが、らしくもない潤んだ瞳ではなむけのパスを口にし、手を差し出した。

「ご指導ありがとうございました。また立ち寄るその日まで、ご健勝を」

 一個人として切に願うことを、そのままパスにした。

「ミドリを遣わしてくれて、ありがとう。彼女へあの人のことを伝えることで、私も随分と慰められました」

 そう語る黄金乃王の微笑は、訪れたばかりの頃よりも随分と自然な笑顔になっていた。語り、吐露することで、澱んだ思いを少しずつ浄化出来たのかも知れない。

「ハイレン殿。ミドリに教えられました。心の中にいつでも彼女はいる、と。まったくもってそのとおりだと、今の私は思います」

 今を精一杯、大切に。再び口にされた忠告は、ハイレンに初回とは異なる大きな重みを感じさせた。

「フリード殿……」

 続くパスが紡げない。パス以上に伝えて来る彼のノイズには、誰よりもハイレンの後を慮る、パスに置き換え切れない万感の想いがこめられていた。それに対するハイレンの想いも、あちこちへ揺らめき、乱舞して。見合うだけのパスをなかなか思いつけなかった。

「大丈夫。私は先見(さきみ)を、貴殿は伝導(みちびき)を。メサイア達が大きな時の節目を動かす器を持つ者として、我らを選んでくれたことに誇りを持っていきましょう」

 彼の発した「いきましょう」が、「生きましょう」と聞こえた。交わした握手の握る手に、これまでにない力強さを感じた。それが、独りではないと強く訴えかけているようで。

「はい」

 たったふたつの音に、全ての思いを凝縮させた。

「本当に、無理をしたり我慢をしたりは駄目だぞ。ミドリはすぐ堪えてしまうから、気の利かないキュア殿と二人旅では心配で仕方がない」

「ヘルト王子ってば、言い過ぎ。大丈夫だよ、本当に。帰りは温かい方へ向かっていくんだもの」

「何かあったら、ちゃんと水晶を割るんだぞ。私の《ノイズ》を仕込んでおいたから、すぐに使者を送るからな」

「うん、ありがとう」

 少し離れたところで別離の挨拶を交わす若い二人の会話が耳に入った。どうやら、最後までヘルト王子の信用を、ある一面については得られなかったらしい。二人を一瞥した視線を再び黄金乃王へ戻すと、彼もまたハイレンへ視線を戻した瞬間だった。

「口ばかり達者な弟ですみません」

「いえ、彼は人を見る目が優れていると思います」

 二人揃って苦笑を浮かべた。


 帰路にはほぼ一廻を要した。ミドリの体調を慮ってのことだ。パルディエスに《ノイズ》で伝達を送り、ボラウと旅路で合流した。彼は途中であの町へ立ち寄り、『黒衣の剣士』の話を聞いたらしい。あの町――フェストが治める、行商の町。ハイレンが初めて魂の救済をした町。初めてミドリの《ノイズ》を見た場所。

「キュアが送ってくれた小龍を見て、信じてついて来てくれたんですよ」

 ボラウが喜々として語る傍らには、ハイレンにも見覚えのある女性がいた。それはあの町の周辺を彷徨う魔物に宿っていた魂の妻に当たる人だった。ハイレンに「リエル」というパスを教えてくれた人のひとりでもある。

「改めて、ヘバムと申します。黒衣の剣士さまが女性の手を必要とされていると伺い、恩返しは今しかない、と思いまして」

 あの頃の憔悴し切った疲れはもう微塵もなく、毅然とした顔立ちが気丈な気性をうかがわせた。何のためらいもなく零す彼女のノイズは、思わず笑みを浮かべてしまうほど頼もしく。

(まったく、男の人ってのは本当に考えなしなんだから。身重に旅を続けさせるなんて、無茶苦茶ね。私がメサイアを守ってあげないと)

「急ぐ旅路なので、脚を止められずミドリには申し訳ないと思ってはいるのですが。いずれ、こちらこそ恩返しをさせていただかねばならないでしょう。道中、彼女をよろしくお願いします」

 恭しく一礼した後そう答えると、彼女は初めてシェルアイテムをつけ忘れていることに気づき、ばつの悪そうな顔をして笑った。


 荒野のささくれ立った地平線。その一角に緩やかな弧の連なりが浮かび出す――パルディエスのシェルターが描く流線型。

「みんな、怒るかな。驚くよね、きっと」

「俺の《ノイズ》がタクトさまのところへ無事届いていれば、大丈夫……だと思うんだけど……自信ないなあ」

 荷台の方からボラウとミドリの、心許なさそうな会話が漏れ聞こえて来た。それぞれが、それぞれの不安を抱えての帰郷とも言える。ハイレンもまた、以降のパルディエスのあり様について、独裁的な決定を下そうとしていることについて、村人の猛反発を覚悟してはいたものの、いざ目の前に故郷が見えると、ただ懐かしさだけに浸ることが出来ずにいたのは確かだ。

「大丈夫よ。フェスト領主がパルディエスに使いを出したらしいから。あの頑固村が城門を開けた、って、町では大騒ぎだったらしいわよ。……あなた達が変わっていったように、村人達にも、変化するだけの時が流れているもの」

 ヘバムのそのパスに振り向くと、彼女達を乗せた馬車の手綱を握るボラウもまた彼女達の方を振り返っていた。

「ヘバム、いつの間に、どうやって町と連絡を取っていたのだ?」

 ハイレンのその問い掛けを聞いた彼女は、いかにも不思議なことを訊くと言いたげな訝る顔をして、馬鹿馬鹿しそうに答えた。

「あら嫌だ。キュアでも気づかないものな訳? 大地も、木々も、風も、いつだって全てが、ノイズを運んでくれているでしょう?」

 ――心を澄ましてご覧なさいよ。

 ヘバムのパスが、ハイレンの中で、何かと何かを繋ぎ合わせ、カチリと嵌る音を響かせた。不安が次第に溶けていく。替わって湧き溢れ出て来るのは、未来への果てしない希望と期待。

「教えを乞いに行くのは、ノエルだけではなさそうだな」

 口角が自然と上がる。まだ、始まったばかりだ。不安から尻込みしていては、先へ進むことが出来なくなる。そんな自分自身への叱咤がボラウにも漏れ伝わったのだろうか。彼もまたぎこちない笑みを浮かべながら

「俺も自信持とうっと。折角キュアが《ノイズ》の使い方を教えてくれたんだから。師匠をバカにすることになっちまう」

 と前言を撤回した。

「そうだね。きっと、タクトがみんなを纏めてくれてるものね。笑って帰らなくちゃ、みんなに心配掛けちゃうね」

 前向きな気持ちが、ヘバムのひと言で伝播していく。ミドリもようやく笑ってくれた。ハイレンのざわついていた心が、ようやく穏やかな凪になった。出迎えるたくさんの人影がはっきり見える頃になると、四人はそれぞれの思いを抱いた笑みを浮かべて彼らに大きく手を振った。


「タクト! みんな! ただいま!」

 ボラウが馬を止めると、ミドリが待ち兼ねたように荷台から降りて走り出す。

「あ、こら」

「メサイアっ」

「危ないっ」

 三人同時に発した声は、虚しく荒野に吸い込まれていった。ハイレンも慌てて馬を降り、彼女のあとを急いで追った。

「走るなぁ! この馬鹿者が!」

 懐かしい怒声に、駆ける足が一瞬緩む。ミドリの足も同時に止まった。近づいて来るひと際大きな人影が、次第に鮮明な人の輪郭をかたどった。

「タクト、いきなり怒ってるし。相変わらず、だよね」

 追いついたミドリの傍らに立つと、笑い声に混じってそんな呟きがハイレンに同意を求めた。

「ああ……いや、変わった」

 背に陽の光を受けて少し肩をいからせ近づく姿は、以前よりも威風堂々と感じさせる。二廻振りに見るタクトは、軍人としてのそれとともに、あの頃には感じられなかった長の威厳を兼ね備える人物に変わっていた。

「まったく、揃いも揃って、わがまま放題な二廻を過ごしてくれたな。ミドリ、紅の母になるのであれば、もっとその自覚を持て。それからハイレン」

 片腕にミドリを抱えてぎろりと睨むタクトの蒼く澄んだ瞳が、急に緩んだ。

「魔物を食らうなど……聴いた時は、生きた心地がしなかったぞ。この馬鹿弟め」

 絡んだ視線がとおり過ぎる。蒼い髪が視界を覆う。首に絡んだ腕の力強さと弾けるノイズが、ハイレンに息苦しさと気恥ずかしい心地よさという矛盾したふたつを同時に味わわせた。

「すまない……今、帰った、タクト」

 タクトの名を口にすると、ようやく帰って来た実感が湧いた。離れてみて初めて気づく。決して独りではなかったのだと。疑い、戸惑い、悩みながらも、唯一同じ立場で理解し分かち合える肉親だったこと。

 彼の背に腕を回して思いを返すと、隣でミドリが自分のことのように嬉しげな笑顔を浮かべていた。




 言えばまたミドリに「鈍感」と言われそうだが。

 思い返せば、村人が総出で出迎えてくれていた。それまでのパルディエスでは、あり得ないことだった。自分の処理すべき報告書の束に軽い眩暈を覚えつつ、ひとつひとつ丁寧に読んでは決定を下していく。加えてタクトが代理として決定を下した事案もあわせて記憶に焼きつけていく。ボラウが隼の《ノイズ》を扱えるようになって以降の分については、タクトに龍の《ノイズ》で伝達をした事項の事後報告と推測出来たので割愛した。

「軍役に就いている者の飲み込みの方が早かったのでな。《ノイズ》の制御鍛錬を軍の演習に組み込み、ノエルのロズから派遣された伝令隊から指導を受けた。村人には、軍部が教えている現状だ」

「ノエルの使者の方が早くパルディエスに着いたのか。早いな」

「お前らが遅過ぎたんだ」

「……フェスト領主の町への防衛指導については?」

「カラブの町か。カインを陣頭に数名派遣している」

「軍役に志願する者が増えたのだな。ありがたい話だ。で、報酬についての交渉は?」

「まだだ。鉱物を考えていたが、ほかに何か?」

 ヘバムの言っていたことが、ハイレンの中で燻っていた。

「ヘバムの話を聞く限り、あの町の人々は、草木や風から運ばれるノイズも聞けるようだ。それが当たり前らしい」

「ほう、それで、彼らはあまりシェルアイテムに頓着しないのか」

 タクトが興味深そうに身を乗り出した。相変わらずヘバムは、しばしばシェルアイテムの装備を忘れては、ノイズを撒き散らしているらしい。だが村人はそれをさほど驚かず、そのことが逆にハイレンを驚かせた。タクト曰く「カラブからの使者は皆似たようなもの」だそうだ。村人の変化の理由がそれを聞いてやっと解った。村人もまた、ノイズを晒すことで、互いに疑わずに済むことを知ったのだ。ミドリというメサイアだけでなく、ディエルトの人間でもそれが可能だと知ったのだろう。悪しき感情を抱いても、芽の小さな内に互いの誤解を解くことも出来ると気づいたのだろう。村人の中でも学のある自尊心の高い者は、カラブの民の苦笑するノイズに立腹し、自らもシェルアイテムを外したという。そしてカラブの民に言われたそうだ。

『馬鹿にしたんじゃないよ。それならそうと言ってくれれば、こうやって違うと話し合えるだろう』

 この一廻少しの間に、そんなやり取りが少しずつ浸透し、村人達に『信』の心というものが生まれた。キュアドーム謁見の間にロズウェルが刻んだその文字は、切り取られドームの入口に飾られている。

「カラブからの報酬として、自然からノイズを受け取る術を知る識者の派遣を、と思うが、どうだろう」

 政には、相変わらず自信がない。窺う視線をタクトに向けると、彼は愉快そうに笑って快諾した。

「相互扶助、という奴か。外へと開けていくことは、この村にとっても得策だ。お前にしては建設的な提案だな」

 執務室の椅子の主であることにすっかり馴染んだタクトが、机上に山となっている議案書の一枚にそれを追記した。次の事案を目にしたタクトが、一瞬パスを詰まらせ、ハイレンを見上げた。

「……女子の成人の儀については、未だ賛否両論あるが、次の集会でどう決断を下す?」

 ミドリの産み落とした男児、エボルは、紅玉の瞳を持つものの、髪はハイレンよりも黒みを帯びた紅だった。紅の血を舐めさせる洗礼の儀を行なわず、ミドリのシェリルのオーラが、赤子の激情を鎮めた。その実証が、現在のキュアに妻帯することを村民に了承させたものの、『宿しの儀』そのものの撤廃については、首を横に振る者がまだ多かった。

「紅の館を開放し、メサイアの全てを明かそうと思う。如何に我々がメサイアに依存し、自らの手で歴史を作って来なかったかということを、知るべき時が今、だと思う」

 タクトへ答える間にも、黄金乃王のノイズが繰り返す。

『知っていたら、残された時の全てを使って、あの人を精一杯愛していただろうに』

「私には、メサイアという存在が、ディエルトへ遣わす為に、時の神によって異界から連れ去られた贄に思えて仕方がないのだ。人々が紅に依存するから、紅の一族は民の望みを叶えんとして願ってしまう。それが贄の連鎖を呼ぶ……こんな思いを、自分の子達にまでさせたくは、ない」

 紙面を睨んで俯くタクトの口から漏れた深い溜息が、数枚の書類を浮き上がらせた。

「エインのばあさんが、それを許すと思うか? 村人に彼女が咎人であると晒すに等しい行為だぞ、それは」

 タクトのその懸念は、想定の範疇だった。互いにとって育ての親でもあったエインについて、私情がその決断をパスにするのをハイレンにためらわせていたが。

「彼女の抱く罪の意識が、現世に姿を留めさせていたのだと思う。己の愚行をメサイアへ伝え続け、同じ愚行を犯させぬ為に。だが、それもまた、我らの依存から来る悲劇だとは思わないか」

 エインの魂を浄化してやりたい。そう発するパスが、どうしても震えてしまう。

「俺達が後世へ伝えていくと、彼女に?」

「ああ。エイン館長は、充分に罪を贖った」

「メサイアや守り人に依存する時代は終わりにする、と」

「そう、まずはパルディエスとノエルから」

「そして、ノエルの先見(さきみ)に従い、お前は伝導(みちびき)の旅を、と。ミドリはそれでいいと言っているのか」

 問う、というより反論の意をこめた確認のパスが低く響いた。旅を諦める訳にはいかない。その使命の為にミドリは異界での自分を切り捨ててまで、パルディエスに舞い降りてくれたのだから。連れてなど行けるはずがない。彼女がこんなにもこの村を愛し、ここで最後を迎えたいと言うのだから。

「当たり前だと思っていたことが当たり前ではないと教えてくれた、この村に最後までいたいそうだ」

「……時の神は、惨酷だな」

 蒼い瞳が悲しげに揺れる。タクトの右手が書類に大きく『撤廃』の二文字を乱暴に綴った。


 紅の館が開放された。思い返せば、子供達の心もまたかつての自分と同じだったのだ。エインに感謝はあれど、紅の館に住む子供達は生母が恋しい。掟に縛られるのが「当たり前」と思って来た彼らの母親達もまた、我が子を抱けるキュアの案に心から同意を示し、可決に至った。そこに住まう子供達は、村の女達が「村の子」として自分の子とともに遊ばせ、育てることとなった。その中には、母としてのミドリや、子としてのエボルの姿もあった。全ての子供達が同列に扱われる光景に馴染む頃には、『宿しの儀』についての重要性も村人から薄れていった。ミドリの諭しが大きく影響している。

『みんな、知らなかったから勘違いしてるだけだよ。キュアの親族という安心を自分が(・・・)得たいから、って勘違いしてる』

 ――それを、ディエルトでは『リベル』と言うの。愛しているから、キュアに近しい場所、という安全な場所へ家族を置きたがっているだけ。

 彼女はそう諭し、ハイレンがキュアの座をタクトへ引き継ぐこと、『黒衣の剣士』として魂の救済を行なうことと、ディエルトをひとつに繋ぐ伝導(みちびき)の旅に出る意向を語り、村人にその賛同を切々と乞うた。

「私から皆へ伝える前に、ミドリに何もかも暴露されてしまった。あの時は、さぞ頼りないキュアだと皆も呆れたであろうな」

 二度目の旅から半廻振りにパルディエスへ帰り、広間で遊ぶ子供らを眺めながら、ミドリへ今更なことをそう零した。傍らの床へ腰掛ける彼女へ視線を向けるが、その瞳はこちらの視線とはもう合わない。見えて、いないのだ。ハイレンがなすべき使命をこなすごとに、ひとつずつ彼女から何かが失われていく。今回の帰郷でそれを確信した。

「そんなこと、ないよ。パルディエスではなくディエルト全てを、なんて大きなことを考えていたとは、って笑ってた。『俺達の誇りだ』って、結構得意になってる人もいるよ。特に若い人達」

 見えない瞳が、ハイレンを捉える。それでも彼女は笑みを絶やさない。心の目で見えていると言わんばかりの微笑を前に、ハイレンも胸の軋む思いを面に零すことが出来ないでいた。

「誇り、か。私よりも柔軟に今を受け容れている皆の方が、よほど私より優れていると思うがな」

 渇いた笑いになってしまう。ミドリのように、巧く自然に笑えない。全てを知った村人達は、ハイレンが旅から戻ると出来るだけミドリと二人になれる時間を設けて近寄らずにいてくれた。それが逆に、ミドリの残された時間を、ともに過ごす彼らの方が知っていると感じさせた。今回は、息子のエボルさえ距離を置いて遊ばせている。次の旅から戻った時に、果たしてミドリはどうなっているのだろうか。

「……エイン館長の最後は、どうだった」

 サウデン地方のとある村で、サウル出身の末裔という若者へエインのことを語り伝え、サウルの再興を託した。その直後の伝令で彼女が消えたことを知った。仔細をタクトに尋ねるのは酷な気がして、気になりながらも問えなかったことをミドリに問うた。

「シェリルリーフになって、消えた。ありがとう、って」

 タクトがそれを、神木である丘のシェリルの根元へ埋めたという。

「私は普通に朽ちていくのかな。それとも、シェリルになれるのかしら」

 どちらにしても、あの丘で眠りたいな――そんな呟きさえ、彼女は笑って口にした。




 三度目の帰郷は、二廻近くなってしまった。黄金乃王の星見によって、サウルの末裔を捜し歩いた為に時間を取ってしまった。エストの辺境で見つけ出した彼らにサウルへ向かう打診を告げ、パルディエス近郊で別れた辺りでボラウからの伝令が届いた。

『メサイアのパスと、四肢の自由がなくなりました。どうか早くお戻りください』

 返答の《ノイズ》を飛ばすよりも、愛馬を駈らせる手綱をいち早く握った。どこまで近づいても感じられないミドリのオーラ。深緑が次第に淡くなり、最後に感じたのは殆ど白に近くなっていた。儚げなそれさえも、今は感じられなくなっている。目の前に、開かれっぱなしになった城壁の門が見えるほどまで近づいたのに。

「ミドリ!」

 体裁を構う余裕も、人々を慮る配慮もなくなっていた。悲鳴に近い声で叫ぶ。彼女のノイズを感じたくて、シェルへ辿り着く間も惜しんで名前を呼ぶ。待ち兼ねたようにボラウがハイレンの腕を取った。

「神木の傍へ行きたいと。タクトさまがメサイアを連れて、村人も皆、今しがた馬を駈り出したところです」

 旅で疲弊し切った愛馬に代わり、毛色のよい駿馬が既に用意されていた。

 馬を駈りながら思い出す。ミドリに誓った、約束のひとつ。

『今度、あの場所へこっそり連れて行ってやろう』

 あの時ミドリは、初めて自分のことを話してくれたと、顔をほころばせて嬉しげに頷いた。わずかしか許されなかった「個」としての時間。彼女が最後に望むのは――。

「タクトーっ!」

 切願をこめて《ノイズ》を送る。紅の龍が天高く昇る。昇り、一行を探して身をくねらせる。それが一角で止まったかと思うと、地平へ吸い込まれるように消えていった。

 ようやく追いついた一行は、立ち止まってくれていた。言ってみれば個人のわがままに過ぎない、ハイレンとミドリの最後の願いを、彼らは許してくれた。

「遅い」

 先頭のタクトに追いつくなり咎められた彼の声音は、少しもハイレンを責めてはいなかった。彼の腕に抱かれたミドリが、ぴくりと小さく身を震わせた。力なく、微笑む。盲目の瞳から、涙がひと筋伝っていった。

「行って来い。俺達がいたら、『個』ではいられないだろう」

 タクトはハイレンに小さな身柄を預けると、踵を返す号令を後列に告げた。


 神木のシェリルは、数十年前に来た時と少しも変わらず、癒しの雨を頭上に降らせた。激したものが、幾分か慰められる。ミドリの眉間に寄っていた皺も消え、幾らか呼吸が楽になった様子を見せた。

(やくそく、ありがとう)

 彼女がゆっくりと、唇でかたどる。

「こんな際になってしまって、悪かった」

 はっきりと聞こえるよう、彼女の耳許へ囁いた。触れる頬が、微かに上がったことをハイレンの頬へ伝えて来る。近づけた顔を離して彼女を見れば、穏やかな笑みを浮かべていた。

(よかった。ハイレンに、ホントのきもち、つたえられそう)

 ――本当は、守り人に堕ちてもいいから、ずっと同じセカイに、一緒にいたかった。

 人には言えないパスをかたどると同時に、また溢れ出しては頬を濡らす、涙。ハイレンには、それがどちらの零した思いと涙なのか解らなくなっていた。

「ちゃんと、解っている。出来ることなら、私だって」

 ――できないのが、ハイレンでしょう。わかっていて、すきになったの。

 力の限り抱き寄せている。かたどるパスを読めるはずなどない。シェリルの大樹が力を貸して、彼女のノイズを直接伝えてくれていた。

「私は、諦めが悪いから……欲張りだから」

 ――うん、だからきっと、見つけてね。

 ミドリが時の狭間のどこにいようとも。

「必ず見つけ出して、迎えにゆく。少しだけ、待っていてくれ」

 不意に彼女を掻き抱いた両腕が勢いよく自分の両肩を抱いた。彼女の重みが腕から消えた。

 ――ハイレン、愛してる。

 シェリルの葉ずれに混じって、最後のノイズがハイレンに届く。硬く閉じた瞳を開いて肩を抱いた両腕を伸ばすと、朽ちた身どころかシェリルリーフの一枚も残さず、ミドリは最初からそこにいなかったかのように消えていた。

「……愛してる。これから先も、ずっと」

 彼女の残り香を漂わせる空になった衣を抱きしめる。顔を埋め、嗚咽を漏らす。出会ってからの五廻にわたって抱いた思い全てを、シェリルの大樹へ預けんとするかのように、声の涸れるまで泣き続けた。

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