第二章 深緑の救世主
ハイレンの側近ボラウからの伝言を受け、タクトは渋い顔でハイレンの住まうシェルターに足を向けていた。
「なんで俺が荷物の調達係なんぞをせにゃならん」
パスと顔ではそう零しつつ、内心では異界から来たという少女を村人の誰よりも早く目にすることが出来る特権に満足していた。
紐で括って簡単にまとめた調達物を何となく目の高さまで掲げて観察する。
特にノイズが高揚しやすい赤ん坊に使うものと同じ生地であつらえた女児用の服。シェリルの混合率が高い分、それなりに値も張る代物だ。ボラウによると、その少女は確か、ノイズの制御が出来ないようなことを言っていた。ハイレンが自分のシェルを渡してしまったらしいとも。人に頓着しない彼にはあり得ない思い入れようだ。それがボラウから聞いた時、最初に抱いた感想だった。
(巧く懐かせれば、キュアの諜報係に仕込めるかな)
タクトの柿色の瞳が怪しく光った。
ハイレンに非がないのは解っている。だが、物心ついた頃からずっとキュア候補として育てられて来たタクトにとって、ハイレンの誕生は自分の人生を大きく変えた。ある意味邪魔な存在とも言い換えられた。
彼の紅玉の瞳を見るまでは、皆が自分を次のキュアとして扱っていた。幼いながらも自負心や自尊心を大人顔負けなほど持っていただけに、ハイレンがキュア候補としてともに学ぶことになった時はむきになって兄弟子面を誇示していた。だが、彼の素質には敵わなかった。そう思わせたのは、完全防御のつもりでいたのに、あっさりノイズを読まれた挙句、善悪の判らない彼が幼い心のままに、それをパスにした瞬間だった。
『タクトは僕がキュア候補になったから嫌いなのか。なら、僕はキュアになんかなりたくない。ならない』
あれ以来、タクトもシェルアイテムを身につけるようになった。それがハイレンに通用しているのかは定かでないが。完全防御出来ることがキュアの証。それを知るのはキュアの修行を受けた者のみ。自分にはそれが出来ていなかったと彼自身に思い知らされた。
参謀に甘んじているのは、決してハイレンに屈したからではない。また、完全防御出来ないという自身の不甲斐なさを人々に晒したくないということだけでもない。この世界に古から伝わる愚行の二の舞を踏みたくないからだ。かつてはノイズを伝えられない人間の方が圧倒的に多かった。故に異端とされた我々の祖先が、いわれのない迫害を受けて来たという暗黒史。追い詰められた先人達は、結束して文明の利器に頼るしか術のない非ノイズ伝達者との戦いに圧勝した。己の弱さを認められず滅びた愚者と同じ道を辿る気はない。
(けどな。不慮の事故や戦で奴がいなくなれば、世の中がどう変わるか解らない)
手まりのように、手荷物をぽんぽんと軽く投げては受け止める。投げられた服は、裏へ表へと空を仰ぎ、向きを変えてはまたタクトの手に弄ばれる。
「キュアのこと、嫌いじゃないけどね。ちょっと変わり者過ぎるんだよな」
じわりといつの間にかという形で、彼を少しずつ侵蝕していけばいい。村人の心を彼から少しずつ引き剥がし、こちらへ向けさせていけばいい。先人が時を待てと教えている――タクトは歴史をそう解釈していた。
ハイレンのシェルターに辿り着き、声を掛けるが応答がない。伝達を受けてからまだ一刻(一刻は約一時間十分)半も経っていない。異界の子連れでどこかへ出歩いているとも思えない。
「キュア、入るぞ」
そう断りを入れて幔幕に手を掛けた瞬間、薄桃色のオーラが零れ出た。
(何だ、こりゃ)
巧いパスが見つからないが、そのオーラがタクトを何とも居心地のよいような悪いような不可解な気分にさせた。柔らかな気分はシェリルの大樹で過ごす時の感覚とよく似ているが、微妙にそれとも違う妙なむず痒さが混じる。タクトは無駄に首筋を掻きむしりながらシェルターの中へ足を踏み入れた。
「……子供か、こいつら」
まあひとりは立派な子供だが。居室の床に転がっている薄桃オーラの源を見下ろし、ついでのように呟いた。不吉を予感させる漆黒の長い髪を褥にばら撒き、赤子のように拳を握って口許に寄せたまま眠る少女。その傍らに眠るもうひとりの方に、思わず葛藤交じりの苦笑が漏れた。少年の頃と変わらない無防備な寝顔。シェリルの木陰で昔はよく眺めた、弟のように親しみを感じたくすぐったい寝顔。まるで少女を守るかのように、その腕は彼女を毛布の上から包んでいた。
(ハイレン、起きろ)
少女を起こさぬよう、小声で彼の真名を呼び、無防備な頭を軽く蹴って転がした。シェルターの中でさえあれば、パスもノイズも外部に漏れることはない。禁句の真名を口にしても、災いをもたらすことは、きっと、ない。
「ん……タク、ト……?」
彼は眠たげに目をこすったかと思うと、突然勢いをつけて飛び起きた。
「しまった!」
(馬鹿が、封印もせずにうたた寝とはな)
大袈裟なほどの溜息を漏らす。ささやかな優越感を味わうことで、苦く黒い感情を封じ込める。
(何でまた寝所を使わずこんなところで転がってるんだ。打ち合わせが出来ないだろうが)
こちらの小声の理由に気づいたハイレンが、戸惑う表情でタクトを見上げた。
(何となく……客人には失礼な気がした)
「俺ならいい、ってか」
呆れるあまり、思わず地声が出た。
ハイレンから昨夜の出来事を仔細に聞いた。
「時の神の啓示、ねえ。まあシェリルが効かないという点から見れば、そういう見方もあり、かな」
居間を客人に占拠された為に、タクトはハイレンの寝床で寝転がったまま気だるそうにそんな私見を呟いた。
「嘘にはなるまい。古文書の記述はタクトも知っているだろう。災いが起こる兆しとして、時の神が使者を放つ、という伝承」
「戦禍にまみれる兆し見ゆれば、時の神、異界より使者解き放つ。何人たりともおかすこと勿れ――犯す、かな。それとも侵す、かな」
意地悪な意味をこめて、ハイレンの好きなパス遊びを持ち掛ける。限りなく白に近い薄桃色のオーラ、紅が純白に薄められたと思わせる彼らしからぬ儚いオーラ。そのまま白いオーラに変わり、消えてしまえばいい。ミドリとやらいう異界から来た少女の放つオーラが白いのだろうと推測した。
「両方、ではないか」
ハイレンが話に乗って来ることはなかった。既に一青年ではなくキュアとしての彼に立て直しを終えていた。
「皆、外部に対する警戒という面では、私よりもタクトのパスを受け容れると思わないか。お前から説明して欲しい」
「了解。お前はことなかれ主義だからな」
「……彼女の世界では、二十歳が成人らしい。それまで何人たりとも成人の扱いをしないように、ということも、頼む」
普段なら形式的に発する「了解」の声が、その期間を聞いて驚いた為に意図せず喉の奥でつまずいた。
「って、紅の館へ預けるのはまずいだろう」
紅の館と呼ばれる修道院は、あくまでもキュア候補であるキュアの種から生まれた子しか預けられない。例外を認めることで、ほかの村人、特に女が我が子守りたさに預かれと言い出すに違いない。
「だから……ミドリをここに住まわせる」
頼りなさげな瞳でちらりとこちらを見遣る。要は自分に賛同し、村人の懐柔を図れという訳だ。
「昨夜、ベアスの母親が死んだぞ。お前に拒絶されたと考えたベアスが絶望を《ノイズ》化させたのが原因だ。ベアスは父親が処分した。今日の集会、覚悟をしておけよ」
手厳しい現実を知らせる形で、タクトはハイレンの打診を即答で拒絶した。
「やはり……無理、か」
壁にもたれ立ったまま、腕を組み俯くハイレンの肩が小さく震える。彼の周囲を紅が、ゆらりと淡く取り囲む。激したものをノイズにさせまいと抑える所作。タクトも寝転んだ姿勢から身を起こして自分の両手を見れば、やはり柿色のオーラが漏れ出ていた。
だから、嫌なのだ。ハイレンと一対一で話すのは。自分の心なのに理解出来ない感情に包まれる。それは、とても、不愉快な感情。よく解らないが、自分がそれを発しているとは認めたくないと思わせる不可解で居た堪れなくなる気持ち。何故自分のオーラにそれが宿るのか解らず、解らないという事実がタクトの恐怖をいざなう。不可解と恐怖が混じる濁った橙を、タクトは目を強く瞑って握り潰した。
「キュアはお前だ。お前が最終決議を下せばいいさ。俺達はキュアの命に従うまでだ……お前にその紅が宿っている間はな」
吐き捨てるようにそう答え、大儀とばかりに立ち上がる。
「時間だ。客人はどうする」
子守りを願い出るつもりで訊いた。キュアの肩入れから逃げることと、ミドリの手懐けを目的に。ハイレンの俯いた面がゆるりと上がり、その手が額に被った長い髪を掻きあげる。
「ミドリはボラウに任せよう。参謀殿は私とともに、キュアドームへ」
開かれた紅玉の瞳に宿った強い炎が、自分の小細工を焼き尽くすかのように燃えていた。まっすぐタクトを捉える視線は、幼き二番弟子のそれではなく、従えという指令を孕んだ強いそれへと変わっていた。
「……御意、キュア殿」
タクトの背筋を、冷たい汗が伝っていった。
キュアドーム――その名のとおり、ドーム型をした救済の場。シェリルの幹を素材とした柱と、シェリルリーフから抽出した繊維を泥に練り込み壁材としている。ノイズの完全防御を実現した大型シェルター内では、各々がシェルアイテムをつけなくても、ドーム自体が大きなシェルと化している。貧富の差なく、各自の《ノイズ》による攻撃を防げる安息の場、というのが村人のキュアドームに対する位置づけだ。
昨夜の警備の報告とミドリの件についてハイレンが淡々とパスで語る。
「――ということで、ノエルの賊から押収した品を解析し、シェリルのみを抽出して貯蔵庫へ保管しておくこと。ミドリの件については、前述のとおり皆に《ノイズ》を暴走させる心配は一切ない。だが、皆の気持ちが理屈になかなかついていかないのは当然のことだと私も思う。私のシェルターで異界に於ける成人である二十歳まで預かり、ミドリを保護及び監視することとする。質問や意見は?」
タクトにさえ伝わって来る、ノイズの露出を防ぎ切れない凡庸な人々の矛盾だらけのノイズとパス。
(預かる、って……宿しの儀はどうなるんだ?)
「二十歳……」
(まだ独りも紅玉の子は生まれてないぞ)
「異界の子は何歳なのだ?」
(何を考えてるんだ、学者かぶれのこの小僧は!)
「キュア、その……宿しの儀はどうなるのですか」
タクトは壇上で説明をするハイレンの傍らに立ち、特に感じることもなく、ただぼんやりとそれらを心の中で反すうしていた。
「当然ながらそれまでの間、執り行なわないものとする」
(は……っ、結局そう来たか)
涼しげな顔でそう答えるハイレンの横顔を盗み見て、無表情を保ちながら心の中で冷笑する。感情を《ノイズ》化させやすい女は男に比べ、暴走を理由に殺される、もしくは裁かれ処分される率が高い。それゆえ慢性的に女不足となっているこの村で、全員に認められた状況の中快楽に溺れることが出来る立場なのに、贅沢な悩みを抱えたものだとハイレンの心の幼さを影で嗤う。
ひとりの男が、ハイレンの答えに即反応して立ち上がった。
「キュア、宿しの儀を怠るなど……あなたはご自分の年齢がお分かりか」
(ふざけるな! 俺の娘は今日十五になるのだぞ! やっと産ませた女だったのに。キュアの母になれば、俺の未来も安泰だったはずなのに!)
「二十八だが、何か問題でも?」
涼しげな顔を保ったままで、ハイレンは淡々と彼に答える。こちらを一度も見ない。あくまでも、ハイレンの打診を拒んだ自分には頼らないと言いたげに見え、初めてタクトの眉根に皺が寄った。
(ったく、可愛くないね)
タクトのノイズに、村人は誰ひとり気づかない。今叫んでいる男と同様、自分の保身で頭がいっぱいになっている者もいれば、少女と聴いて下らない妄想に飛んでいる愚かな者もいる。
(紅龍のひとつでもかまして黙らせれば、こんな下らん集会を設ける必要なんざないんだがね)
長老の教えを最後まで理解出来なかったタクトには、それがキュアとして最善の方法だとしか思えなかった。
「先代が何歳で戦死したか解っているでしょう。どうしてそんな余裕を持った顔をしていられるんですか!」
「あと十年で父に追いつきますが、あいにく私は戦士ではなく、学者だ。父と寿命が同じとは限らないと思っているが」
「その娘は何歳ですか」
「十四歳らしい。暦が異なるので正確な年齢は判らないが」
「じゅうよ……あ、あなたはそれまで我々にまで待てと」
「そこまでだ」
――根負けだ。
黒、朱、碧、様々な色のオーラが、《ノイズ》をかたどろうと足掻きもがく。《ノイズ》化させてハイレンを襲おうとするのを、シェリルの深緑のカーテンが癒すようにその外郭を溶かしていく。ここまで明るみに浮き出るそれらを、キュアであるハイレンが気づいていないはずがない。
ざわりと不快な気持ちがまた湧き上がる。潰れてしまえばいいと思っているはずなのに。
「要は宿しの儀が続行されさえすれば、客人の迎え入れそのものには問題がない訳だな」
(何やってんだか、俺は)
場内を鋭い視線で睨めつけながら、異論のありそうな輩を探す。何故、こうしてしまうのだろう。気持ち悪くてしようがない。ハイレンなど失脚してしまえばいいのに、何故手を貸してしまうのだ。
「異論は、なさそうだな」
にやりと口角が片方だけ上がる。それは萎縮し恐怖の色を浮かべた民の顔に満足した笑みというよりも、己が愚行に対する自嘲だった。
「……では、私のシェルターを広げてミドリの居室を作り、儀式の際は寝所に封印を施す、ということで、よいか」
ハイレンが諦めの溜息を交えて代案をパスで伝え始めたその時。
「(――っ! ――!!)」
その瞬間、風がドームに吹き込んだ。爽快を思わせる、適度に湿った心地よい感覚がドーム内を満たしていく。皆が一斉に後方にある出入り口の方に注目した。
「ミドリ……」
隣で無防備な驚きの表情を見せたキュアが、風を運んだ主の名を告げた。
「お……」
「うぁ……」
(あれは……)
(す……ごい……)
村人のパスとノイズが合致する。それが判るタクトにとって、その現象はあり得ないことだった。そしててっきり凡庸な白だとばかり思っていたミドリが振り撒いているそのオーラは――深緑。
「ボラウさんから、聞きました。あの、本当に、ごめんなさい!」
ぎこちない発音で叫びながら、ミドリが何故か壇上へと小走りして来る。タクトはその姿を見ている内に、徐々に目を見開いていった。
「ハイレンは、悪く、ない、です!」
激昂する彼女のノイズが、次第に《ノイズ》化されていく。だがそれは攻撃的なものではなく。
「……シェリル……」
思わず、呟いてしまった。
「タクト?」
キュアの声にはっとして、彼の方へ視線を向ける。うろたえた自分が口惜しい。タクトはそれを誤魔化すように、訝るハイレンに笑みを返した。
「使者とした理由が判ったよ。なるほどね、彼女は覚醒しているとシェリルの《ノイズ》をかたどるのか」
「ミドリの、《ノイズ》……? タクトには見えるのか」
驚いた顔で返して来たハイレンのパスに、今度はタクトがきょとんとする番だった。
「お前には、見えない……のか……?」
彼がタクトに答えるよりも早く、深緑の《ノイズ》が彼を覆い隠した。彼が立っているはずの場所の前に少女が立ちはだかり、大衆を見つめて泣きながら訴える。
「ハイレンは、――シイ人、だから。私、可哀想って。迷子の、私、悪いです! 出て、行くからっ。すみません!」
「(ミドリ、ミドリ――。――――、――。――)」
シェリルの《ノイズ》から聞こえるのは、確かに自分のよく知る幼馴染にして族長の声だ。だが、彼女の名を呼び語り掛けるそのパスは、タクトにも村人にも判らないそれで。彼女の涙が止まる。一瞬表情が消えたかと思うと、幼い癖に、妙に艶やかな何とも言えない微笑を浮かべた。
「ありが、とう。ウレシイ。あ、ウレシイってのは、あったかい気持ち。ここが、じわん、って、なる、気持ち」
たどたどしいパスで、ミドリが告げる。彼女が胸元を押さえ、もう一度村人達へ微笑み掛ける。
「くすぐったい、跳ねたい、そんな気持ち。ありがとう。ハイレン、悪くない、解ってくれて、ありがとう」
ウレシイ。意味不明だったそのパスが、急に実感としてタクトの中に納まった。それはタクトだけでなく。
「……メサイア……」
どこからともなく呟かれたパス。それが次第にドーム内へ広がっていった。
「深緑の救世主さま、どうかパルディエスをお守りください」
歓迎のパスがドームを満たす。その中で、平凡な少女にしか見えないミドリが不安げに見上げた先に、もうシェリルの大樹は見えなかった。代わりにそこで彼女を守るのは。
「私に見えないのは残念だが。皆にはミドリの《ノイズ》がシェリルに見えるらしい。もう怖がらなくても大丈夫。皆がミドリを神の使者だと認めてくれたようだから」
二十八年ともに暮らして来たキュアの、そんな表情を初めて見た。またあのむず痒さが全身に走り、タクトは無意識に首筋を掻いた。
らしく、ない。タクトは今の自分を俯瞰で眺めてパスとは異なる思いを抱く。らしくないのは自分だけではなく、パルディエス全体に及んでいる。明らかに、ミドリの所為だ。どうにも居心地が悪くて、また首許に手が伸びる。
「タクト、さっきから同じところばかり掻いている。虫にでも刺されたか?」
どう聴いても案じているというより話を逸らそうという意図が見え見えというパスの高低で、ハイレンがふざけたことを問うて来た。
タクトの説教をやり過ごして安堵に満ちたボラウは、無邪気なミドリと隣の居室で談笑をしている。若い二人は気が合うようで、話す会話のやり取りからミドリが恐ろしい勢いでパスを修得していく様子も見て取れた。それを忌々しげに一瞥すると、再びハイレンを睨みつけた。
「そんなことはどうでもいい。何故真名をミドリに教えた」
「……何故だろう。何となく、口から出た」
何ら支障はないと言いたげなその表情に、肺が空になるほど息を吐く。眩暈を感じてこめかみに手を当てる。真名を知られることは呪いの餌食になる危険性が高まることに繋がるというのに。
「何が『何となく』だ、馬鹿者っ」
つい口汚いパスが出る。相手がキュアであることを忘れて毒づいてしまう。つくづく、自分の真名をお前に知られていなくてよかった、とハイレンに皮肉を言った。どうもミドリには、人の警戒心を緩めさせる能力があると感じられた。それは彼女を手懐けられれば大きな武器になろうが、こちらに仕掛けられたら堪ったものではない。
「タクト、ごめんなさい。私、大きな声で、叫んだ、所為?」
小さな身体で細々と動き回る。そして意外と耳ざとい。ボラウとの話に夢中になっているかと思っていたのに、彼女が隣室から寝所へ赴き話に割り込んで来てしまった。
「私、真名、ミドリ。深い、緑、意味、ね? もし、また私、ハイレン、呼んじゃったら、タクト、私、呪詛、して、止めて?」
涙目でそう訴える。いとも簡単に弱点を晒す。まったく理解出来ない彼女のノイズ。
(だから、ハイレンを叱らないで)
自分が糾弾されている訳でもないのに、何故こうもぽろぽろとよく泣けるのか。その度に頭上へ綿菓子のように、シェリルの小枝が浮かんでは消える。それに感化されて、憤るノイズが妙な気分にすり替わる。
「客人に非はないので呪詛する気も一切ない。一方的に真名を告げるな。公平ではなくなるだろうが。……タクティクスだ」
「え? それ、タクト、の、真名?」
「……」
(……危険だ)
嫌な汗が耳のつけ根を舐めて、落ちていく。俯くハイレンが、庇うミドリのすぐ後ろで小刻みに肩を震わせているのが目に入った。
「キュア、パスにしてみろよ」
「『何故真名をミドリに教えた』?」
案の定ハイレンは不敵な笑みを浮かべ、タクトのパスをそのままそっくり返して来た。まったくもって腹立たしい。
「『何となく、口から出た』。これでいいんだろう。くそっ」
しかめた顔が緩んでしまう。そんな自分でいられるのは、一体何年振りだろう。
「……くっ」
「……はっ」
堪え切れずに噴き出すと、ハイレンもまた、懐かしい笑い顔をタクトに見せた。
ミドリの頭上から、またシェリルの小枝が露と化して消える。高まる気持ちが鎮まり、《ノイズ》が彼女の体内に溶けていく。
「私? 笑うこと、言った?」
気づけばタクトの手に平からも、ハイレンから漏れているものとそっくりな薄桃色のオーラが溶けるように漏れていた。その色はまるで、今ミドリの浮かべた頬の色とそっくりだった。初めてハイレンの拘る意味を理解した。彼女はあまりにも、穢れがない。出来るだけ手許に置いて、この世界の毒気で穢したくないという気になる。戦禍の予兆とされる使者だからこそ。守ってくれる存在であれば、その逆もまたしかりと思わせる。
「いや、こちらの話だ」
改めて彼女の前に跪く。
「え、ちょ、何?」
恭しく忠誠を誓う。
「改めて。副族長のタクトと申します。メサイアの御身は我々が全力でお守りします。どうぞパルディエスを戦禍からお守りください」
タクトは彼女の能力でもなく、立場でもなく。心が欲しい、と初めて思った。




