82 褪せない思い出
島田が言葉少なに語ったが、彼の父の病状はC型肝炎からの肝硬変で、手術をしても再発の可能性がとても高いそうだ。島田と彼の家族は、父の完全回復がほぼ望めないことを知り、気落ちしている。
そして、誰よりも、この先続くであろう闘病生活を思って苦しんでいるのは、島田の父、本人だ。
『少し先の未来を明るくしてあげたいのよ。闘うための希望を持たせたいの』
島田の母の言葉を思い出す。暗い廊下の床を一歩一歩踏みしめながら、さくらは細く息を吐いた。
(余計なお世話だったらどうしよう)
不安がさくらを蝕む。頼まれたからといっても、出過ぎた真似にも思えて、さくらは動揺していた。この大事な時間に、こうして部外者である自分が病室に出入りするというのも厚かましく思えて、気後れした。
病室に近づくほど動悸が激しくなった。やがて病室のドアが開かれる。さくらは、白く明るい部屋に目がくらみ、目を細めた。
窓際には表情の冴えない河野がいた。恐怖を必死で隠している顔――島田と同じ顔だと思った。そして中央に佇むのは、一番落ち着いた顔をした島田の父だった。
ベッドの隣の椅子に近づくと、島田の母はさくらの渡した紙袋をひょいと掲げた。
「あなた。さくらさんからお見舞いを頂いたわよ」
「ああ、すまないね。……これは何だろうね?」
島田の父は首を傾げる。まるで試験の合格発表直前のようだった。さくらは喉に張り付く言葉を必死で外へと押し出した。
「開けてみて下さい」
じゃあ、遠慮なく。と島田の父の手が封を開ける。さくらは口から心臓が飛び出すのではないかと思った。
カサカサと紙のこすれる音がしたあと、真っ白な包装紙の上に色が現れ、反応が怖くてさくらは思わず目を閉じる。
「――あ」
最初に小さく声を上げたのは香苗だった。
「水彩画? え、うそ、これさくらちゃんが描いたわけ」
と次に河野が口を開く。
「絵を描くって……これを、こんなのを描いてたのか」
最後に島田が口を押さえた。
島田には「絵を描く」としか伝えていなかったので、驚くのも仕方ないかもしれない。それに、まともに描いた絵を見せるのもはじめてだった。
さくらが持って来たのは六号のキャンバスに描いた一枚の絵だった。有給を全部使って、預かった古ぼけた写真を元に描き上げたのは、一枚の家族の肖像。
高台から見下ろした、湯布院の鮮やかな田園風景は記憶に新しい。それを背景に微笑む夫婦と、その子供たちだった。
すました顔の真由美。その隣でいたずらをし合う香苗と幼い頃の島田。子供たちを見守る父と母。仲がよく幸せそうな家族の姿だった。
「さくらさんに私が頼んだのよ。この頃はデジカメなんか無いから、写真もどんどん色褪せちゃって。完全に褪せてしまう前に再現したかったのよね」
穏やかだが含みのある島田の母の言葉に、香苗と島田が気まずそうに顔を見合わせた。褪せて欲しくなかったのは、きっとこの思い出なのだろうと、部外者のさくらにでもわかった。だから精一杯想いを込めて描いたのだ。
正直時間が無くて、まだ塗込みたかった。未完成と言っていいものだけど、間に合わなければ意味が無いと思った。少なくとも、島田の母の気持ちを思うと、間に合わせなければ駄目だと思った。
「懐かしいな。昔はこうやって毎年旅行に行っていたけれど、……いつから行かなくなったのか」
島田の父が、懐かしそうに目を細める。
「また、行きましょう。だからあなた、頑張って下さいよ。戻って来てくれないと困ります」
島田の母が微笑んで語りかけると、
「そうだな。早く治して、十一月には皆で朝霧を見に行こう」
島田の父は応えるように笑みを浮かべた。そして、穏やかな笑みのままさくらを見ると、言った。
「その時は、さくらさんもぜひ一緒に」
面会時間が終わり、病室から押し出された三姉弟とさくらは、そのまま近くのファミレスへと移動した。
先ほどの島田父の言葉は、結婚の許しにしか聞こえなかったが、具体的にどうするのか――島田が折れるのか、香苗が折れるのか――は、やはり話し合うしかなさそうだった。
香苗はどう思ったのだろうと、さくらは気が気で無い。あの場所で口論を避けたかっただけなのではと思えて、いつ彼女が鋭い口を開くのかと、さくらはずっとお腹に力を入れたままだった。
だが、香苗は食事を終えても、ひと言も口を開かないままだった。
会計を終えて外に出ると、さくらと同じくやきもきしていたらしい島田が、耐えきれない様子で問いかけた。
「父さんはもう反対しないみたいだけど……何も言わないってことは、認めたって事でいいのか?」
「……わざわざ聞くなよ! あんたの空気読めないところが私は大嫌いなんだよ!」
むっつりと口を尖らせる香苗に、河野が我慢できないと言った様子で吹き出した。
「香苗は意地っ張りなのよ、けいちゃんもよく知ってるでしょ」
「だけど、白黒はっきりさせないと気持ち悪い」
島田が渋ると、香苗は不機嫌そうに腕を組んだ。
「別に、認めたわけじゃないけど……父さんが落ちたんなら、もう、私が一人で頑張っても無駄じゃない。何とかする手段、いくらだってあるんだから。――っていうか、父さんもじいちゃんも私に気を使いすぎなんだよ。だから私が、こうやってつけあがるんだろうが。無視すりゃいいのに、鬱陶しい」
プリプリと別の事で怒り出す香苗に、さくらは唖然とする。
「香苗。もう無理して反対しなくていいのよー。さくらちゃん、いい子よぉ」
河野が呆れている。
「そんなの、けいちゃんを選んだ時点で知ってる。相当なお人好しじゃないと付き合えないよ、こんなあまったれ。もっといい男いっぱいいるのに、わざわざこんなの選ぶなんて。馬鹿な弟には本当に勿体ない」
「なんだよそれ」
ぼろくそに言われて憤る島田を無視して、香苗は真剣な面持ちでさくらに向き直った。
「私のモトカレは、私を選ばなかった。仕事を選んだ。でも私も島田を捨てられなかったんだ。私はけいちゃんとちがって、捨てようと思ったら捨てられたのに。でも、さくらさん。あなたは捨てるって言ったんだよね。あれだけのもの持ってるくせに。……知っちゃったら、認めないわけにいかないよ。私はもの作りのセンスは無いけど、勿体ないの、さすがにわかる。あなたをわざわざ美装に引っ張って、業績落ちちゃったら、真由美ちゃんに迷惑かかるし! ああ、くそ、SHIMADAがけいちゃんの会社だったら、こんな遠慮しなかったのに!」
途中からヒートアップしはじめた香苗に、
「そうよねぇ。けいちゃんの会社だったら、美装に吸収させれば良かったんだもん。ま、あんたがもうちょっとごねたら、けいちゃん説得して、そうしようかと思ってたけど……」
河野が苦笑いをして、びっくりするような事を打ち明けている。
「それ、父さんの入れ知恵でしょ。父さんも母さんも真由美ちゃんも、けいちゃんに甘いんだよ! だからこいついつまでも坊々なんだから!」
もっと谷底に突き落とさないと、大きな男になれないんだから! と香苗は物騒な事を叫んでいるが、さくらの胸には温かいものが広がって行く。
家族一人一人が、全く違う形ではあるけれど、島田を大事にしている。そして島田も、なんだかんだ文句を言いながらも家族を大事にしている。彼が育った温かい家庭が垣間見えて、すごく安心した。
なにより、島田と一緒になれば、この人たちが姉になる。嬉しいおまけに頬が緩んだ。
「やさしいお姉さんですね」
頭の中でまとめた意見が思わず零れた。島田がぎょっとした顔で振り向く。
「え、真由美が?」
「いいえ、お二人とも」
そう言って笑うと、島田は納得いかないというように首を振る。そんな島田に香苗のげんこつが飛ぶ。
「ってえ、何すんだよ、この暴力姉貴!」
「ほら、あんたの家に行くよ」
「え、なんで。泊まるんなら真由美んちにしろよ」
明らかに迷惑そうに島田が返すと、香苗は悪魔のように凶悪な笑みを浮かべた。
「真由美ちゃんとこ、奈々がいるから夜更かしできないでしょうが。皆で父さんのこと、祈るんだよ。まさか邪魔すんなとか言わないよね?」




