81 有給の有効活用
病院を出たあとの島田は、ひたすら寡黙だった。
晩ご飯は何がいいかと尋ねると「家、来るの?」と聞き返し、さくらが頷くと「なんでもいいよ」と答えた。
表面上は普通にしているが、島田はあきらかに気落ちしていた。放っておけなくて、さくらは強引に島田の家に上がり込んで、勝手に夕食を作った。空腹だとろくな事を考えない。それは自分だけかもしれないけれど、少しでも彼の役に立ちたいと願った。
島田の好物――鶏肉とごぼうの炊き込みご飯、豚汁を食べ終わると、彼はようやく自分から口を開いた。
「ごめん、さくら。帰ってくれる? 俺、今日はちょっと楽しませるの、無理みたいだし」
結局、いつも通りに振る舞うのを諦めた島田は、そう言ってさくらを帰そうとした。無理に浮かべた笑顔に、少しの慰めにもならない自分が不甲斐なくてしょうがない。
「……すみません、なんの役にも立たなくて。また来ます」
泣きそうになるけれど、辛いのは島田だ。絶対泣くものかと堪えて、なんとか笑顔を浮かべる。すると、にわかに島田が慌てた。
「ちがうんだ。えっと、俺、ちょっといろいろ自信無い。さくらを傷つけそう」
じわりと顔を赤らめる島田に、さくらは首を傾げる。すると彼は言い難そうに補足する。
「大丈夫だって信じたいけど、信じないといけないけど、いろいろ考え出すと、怖いんだ。……だから現実逃避にさくらを使うかもしれない。それって、あとで自己嫌悪に陥りそうだし」
島田の表情から、言われている事を何となく理解したさくらは、釣られて赤くなる。
「別にいいですよ。っていうか、むしろ利用してください。利用されないと困ります。私、彼女なんですよ! それに……、これから奥さんになるんですよ!」
泣きそうな顔をしている島田の手を取って引き寄せると、さくらは彼の頭を胸に抱きしめた。
「ごめん、俺、情けなくて。年上なのに」
「辛いときに、歳なんか関係ないですよ。島田さんは、ずっと私を支えてくれてたじゃないですか。今度は私の番でしょう?」
そっと頭を撫でると、島田はゆっくりと息を吐いた。震える息を吐き切った彼の体から、強ばりが剥がれ落ちる。
「さくらがいてくれて良かった」
絞り出すように囁くと、彼はさくらを抱きしめ返した。
*
「片桐は休みっすか」
始業時間になって不審そうにあがった上原の声に、島田は頷く。
「ああ。私用で有給とってる」
さくらがそれを言い出したのは、今朝の事だ。気落ちした島田を存分に励ました彼女は、居住まいを正して、真剣な顔で訴えた。
「今日から残りの有給取らせて下さい」
やはり辞めると言い出すのかと島田が顔を険しくしたら、違うと否定した。
「昨日、島田さんのお母さんから、頼まれたことがあって。急がないからって言われたんですけど、絶対急いだ方がいいと思って。あ、仕事の方は、今は多分上原さんだけでなんとかなると思いますので」
「辞めるんじゃ無いならいいけど……でも、母さんにって、何を?」
「実は……」
その後さくらから聞いた話に、島田は「なんでそんな事を?」と首を傾げたが、あの人の事だからと深く考えない事にした。直感で行動する島田の母は、思考が飛躍する傾向があるのだ。
(今までの事を考えると意味はあるのだろうけど……)
気にはなったが、やがて島田は考えを投げた。時間も無いし、島田は島田でできることをするだけだった。
顔を上げて、上原に指示を出す。
「最新のカタログで使ったデータ集めてもらえるか? できればサイズ調整して、JPGに加工してもらえるとありがたい。あと展示会で使ったサンプルの写真ってあったっけ」
「それ、何に使うんすか」
「美装向けプレゼンに使う」
ただし、相手は一人だが。プレゼンテーションソフトを開いて、手強い姉向けにどう展開させるかを考えている島田に、上原がぽつりと言う。
「結婚するのもなかなか大変っすね」
「ああ……――って」
島田は目を丸くして上原を振り返る。
上原の、職権乱用などとうに知っている、という顔に島田は僅かに焦る。データを握る上原の協力が無いと、この計画は上手くいかない。彼の説得から始めないといけないかもしれないと構える島田に、しかし、上原はあっさり頷いた。
「今回はいいっすよ。SHIMADAのプレゼンってことは、多分、俺の将来もかかってるんすよね? あ、でも寿司に焼き肉追加でもいいっすかね」
「何でも食え」
恩に着ると島田は感謝しかけたが、ふと彼の引き締まった腹が目に留まる。
「――ってお前、また太るぞ」
島田が勿体ないとこぼすと、
「太ってる方が、女の本性見抜きやすいんすよ」
と、上原はにやりと笑った。
*
それから島田の父の手術前日を迎えるまでは、あっという間だった。
有給を有効利用して一つの仕事をやり遂げたさくらは、目の下の隈をコンシーラーで必死で隠すと、顔色がよく見えるようにと薄くチークを叩いた。
悩んだ末に、万が一にも涙を見せないようにと、パンダになるのを恐れて泣けないようにウォータープルーフではないマスカラを塗る。水色のシャツにグレーの台形スカートを合わせると、パンプスを履いて、大きな紙袋を肩にかけた。
「あ、忘れてた」
姿見を見て口元に色が無い事に気が付き、慌ててピンクベージュのルージュを塗る。
そして微笑んで気合いを入れると、ドアを開けて、初秋の空気の漂う外へ飛び出した。
病院に着くと、花壇ではピンク色のコスモスが風に揺れていた。
その向こう、エントランスの前で島田が誰かと言い争っているのが見えて、さくらは立ち止まる。
どうしたのだろうと目を凝らすと、相手は香苗だった。
「少しでいいから、話を聞いてくれよ」
「時間の無駄。あんた、私が島田製作所の取締役って忘れてるんじゃないの? そのカタログに載ってる商品もサンプルも、うちで作ってるの忘れたの」
「忘れてない。でも見てないだろ。見てたらそんな反応しないはずだし、見てそんな反応するんなら、センスがない。取締役は義兄さんに譲るべきだ」
島田の辛辣な言葉に香苗の目が吊り上がる。
「そんな生意気が言える立場な訳? いつからそんなに偉くなったのかなぁ、けいちゃんは。——私だってね、父さんが大変な事はわかってるけど、だからと言って、私が折れる理由にはならないよ。あの子が辞めればいいだけの話でしょ。あんただけに皆が甘いのは納得いかない」
「さくらは島田美装には勿体ないんだよ。適材を適所に配置するのは管理職の役目だろ」
「じゃあ、あの誰でも描けそうな単純なイラストが、どれだけすごいのか。あんたの彼女がどれだけすごいのか言ってみなよ。私にはわかんない。あんたがどうしてあれほどあの子を買ってるのか」
「俺がどれだけ色んな現場を回ってると思ってるんだ。サインは分かり易さが一番大事なんだよ。一目見て何を示してるのかが表現できないと駄目なんだ。単純なイラストって言うけど、この小さなイラストの中に情報詰め込めるってのは、才能だ。簡単そうに見えても、本質を良く見てないと出来ない。さくらには本物を見る力があるんだよ」
熱心に訴える島田だったが、香苗は話をあっさり聞き流した。
「大体、あの小さな会社、デザイナーは上原君一人で十分」
「あいつはあいつでできることが違う。さくらにしかできないんだ。姉ちゃんの元カレと同じなんだ」
「うるさい!」
激しい言い争いに、さくらがその場に立ち尽くしていると後ろから肩を叩かれる。
「さくらさん」
振り向くと、島田の母が立っていた。
「啓介も敵の姿が見えてないわよね。百聞は一見に如かずっていうのにね。見ればわかるんだから、見せればいいのに」
島田の母はやれやれとため息を吐くと、
「持って来てくれたのね。ありがとう」
と紙袋を指差した。
「そんなに上手じゃないですけど、一生懸命描きました。少しでも喜んでもらえたら嬉しいです」
肩から紙袋を下ろすと、島田の母に差し出す。
彼女はその中を覗くと、にっこりと微笑む。そして言い争いをやめない二人の子を「いい加減にしなさい、いい大人が恥ずかしい。大体ここをどこだと思ってるの」と叱ると、病室へと促した。




