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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
六.処暑のころ
82/91

80 啓介か、仕事か

 午後、面会時間を待って、島田とさくらは病室を訪ねることにした。廊下で島田が立ち止まり、なんだろうと足を止めると、一人の女性が通話エリアで電話をかけている。はっきりした顔立ちには見覚えがある。髪の長い、河野によく似た美人だったが、河野よりさらに印象の鋭さを感じた。

 さくらが誰か予想を付けるのと同時に島田が言った。

「香苗姉ちゃん」

「啓介?」

 険しい顔を向ける女性は、予想通り島田の二番目の姉らしい。聞いていた話から、体が硬くなるのがわかる。

 ちらりと視線を向けられて、さくらは反射的に頭を下げた。

「あ、あの、お姉さん、私」

お姉さん・・・・? 私、家族以外にそんな風に呼ばれる覚えは無いし」

 香苗はそう切り捨てるように言うと、頭を下げたまま言葉を失うさくらの前を通り過ぎる。

「ちょっと待てよ。それがいい大人の態度かよ」

「私は、認めないから」

「姉ちゃんだって、今は義兄さんと結婚して良かったって思ってんだろ」

「それとこれは話が別だし、あんたみたいな苦労知らずの甘ったれには言われたくないよ」

 聞く耳を持たないまま、香苗は踵を返し、病室へ姿を消す。

「ごめん、さくら」

 島田が憤りを隠さないまま謝り、茫然自失としていたさくらは、はっと我に返った。

「だ、大丈夫です」

 そう返すものの、さくらはかなりのショックを受けていた。

(っていうか、めちゃくちゃ怖いんですけどー!)

 説得する前に挨拶だけでも心が折れそうである。それを隠す余裕も無いさくらを見て、島田は項垂れる。

「昔から、あんな感じなんだ。さくらを嫌ってるんじゃなくて、あの人、俺が嫌いなだけ。だから気にしないでくれるとありがたい」

 そう言うと、彼はさくらを連れて病室に入った。



「あら、こんにちは」

 病室の窓際には島田の母と河野が並んで座っていた。そしてベッドを挟んで反対側の壁際には、先ほどの香苗と見知らぬ男性が二人座っている。以前訪ねた時には引かれていたカーテンは開いていた。ベッドの上には島田の父なのだろう、初老の男性が横たわっていた。

 眉のしっかりした、ちょっと頑固そうな顔に、さくらが思わず怯んだとたん、彼ははにかんだような笑顔を浮かべた。

 渋めの顔が、とたんに甘く緩んで、さくらは思わず顔を赤らめた。

(うわ、島田さんと口元が似てる!)

 目は母親似、あとの輪郭が父親にらしい。そして、さくらはどうやらこの甘い笑顔に弱いのだと、自覚して慌ててしまう。

「啓介の、彼女だったかな」

「島田さんにはいつもお世話になっております! 片桐さくらです、よろしくお願いします!」

 反射的に大きな声が出てしまい、さくらは慌てて口を抑える。

(病室だってば! またやっちゃったよ!)

 だが、島田の父は「啓介の父です。元気のよいお嬢さんだ」と破顔した。

 ほっとしたさくらだったが、島田の父は笑顔のまま、島田を見て有無を言わせぬ強さで言った。

「だが、啓介。今日は家族会議だと言っておいたはずだ。家族以外・・・・は遠慮してもらう」

 そう聞いて、さくらは壁際の二人の男性が姉二人の伴侶だと知る。怯んで後ずさりをするさくらの背に、島田の手が置かれた。

「さくらは俺の婚約者・・・だ。話を聞く権利があると思う」

 島田が反論すると、島田の父は「まぁ、そんなに焦るな」と苦笑いをした。

「許してやりたいのは山々なんだが……すまないね、さくらさん」

 島田の父は、そう謝ると、ちらりと香苗の方を見た。

「やっぱり親として、啓介だけ特別扱いにはできないんだ。これは、どの子の相手にも言って来たのだけどね」

 笑顔を引っ込めて、真面目な顔でさくらに言った。

「啓介か、仕事か、選んでくれないかね」



 明確な答えを出さないさくらには、家族会議への参加は許可されなかった。

 病院の喫茶室でため息を吐くさくらの前に、先ほど病室から出てきた島田が力なく座っている。隣には島田の母が座っていた。

 目の前には持ち込んでいた仕事用のスケッチブックと、二杯目のアイスコーヒーが置いてあり、グラスの中では先ほど投入したガムシロップが透明な糸を引いている。コーヒーとはなかなか混ざり合わず、グラスの底に溜まって行く。続けて入れたミルクは浮いた氷の上で澱み、分離したままだ。

 なんとなくそれを見つめていると、島田の母がふわりと笑った。

「二人とも、そんなに難しく考えなくていいのよ。移ってもらえたら、何も反対する理由は無いのだから」

 そう言って、島田の母は、さくらが島田美装に移る場合の具体的な条件を提示する。事務職で、残業は無く、定時で帰れて、給料もいい。母が聞いたら「いい仕事やないね!」と喜びそうなものだったと思う。だが、さくらの耳は途中から情報を捕らえられず、頭にはまったく書き込まれなかった。

 渡された一枚の用紙にはいくつかの数字がある。それを見るとやはり待遇はとてもいい。

 だけど、仕事の楽しさは、待遇では決まらないのかもしれない。心は沈んだままで、浮いて来ようとしないのだ。

 それでも、島田と計りにかければ、重さは比べ物にならない気がした。

(軽蔑されそうだよね。島田さん、仕事熱心だし、私の腕を買ってくれてるし)

 喫茶室には沈黙が落ちつづけている。

 ふとさくらは違和感を覚え、その正体に気づいた。

 先ほどまでの刺々しい雰囲気はどこへ行ったのか、島田が反抗をやめているのだ。

(どうしたんだろ)

 ぼんやりするさくらに、どこか気落ちした様子の島田が「ごめん」と謝った。

「姉ちゃんたち、二人とも恋人がいたんだけど、どっちも最終的には仕事を選んだ」

「仕事を?」

「ああ。でも……俺、あの人たちが仕事選んだ気持ちもわかるし。香苗の彼氏は教師やってたんだ。美装じゃ絶対できない仕事だろ? 姉ちゃんも多分、自分を選ばせられなかったから身を引いたんだと思う。だけど、」

 島田はそこでさくらを見た。

「俺は、さくらには俺を選んで欲しい」

(あー……もう、これで十分だと思う)

 さくらは未練を断ち切ろうと思う。愛する人と一緒に働ける。それで十分だと思おうとする。

 と、島田の母はさくらの心を読み取ったかのようにごめんなさいね、と謝った。

「……香苗の事は時間をかければいつか解決すると思うの。だけどお父さんがあんなだし……」

 その言葉に含みを感じて、さくらが島田を見ると、彼は戸惑ったように目を伏せた。

「結婚考えてるなら、さくらさんに言わないわけにはいかないでしょう」

 島田の母が促すと、島田は苦しげに息を吐いた。

「前に、親父の病状、腹水って言ってたろ。あれ、肝硬変が原因なんだ。しばらく薬で治療して様子見てたけど……、肝癌が併発したらしくて、手術することになってる。さっきの話は、それだったんだ」

 癌という言葉に頭頂を殴られた気がした。

 そして事態の深刻さをじわじわと理解し、さくらは言葉を失った。

 しばし、皆黙り込んだあと、島田の母が重い沈黙を破った。

「あの人、啓介が一人前になるのを見て、安心したいって。じゃないと心配で手術もできないって我が儘言うもんだから」

「あの、お父さんは、ご存知なんですか」

 どの程度進行しているのか、助かるのか。本当はいろいろ聞きたかったが、それだけをようやく問えた。島田の母は頷いた。

「誤摩化そうと思っていたけれど、あの人の祖父が、同じ病気で亡くなったから、隠せなくてね」

 亡くなった、という言葉が落ちると、さくらはもう何も言えなくなった。

「啓介とあなたの事を許してあげたいけれどね、香苗を傷つけたくはないのよ。元々真ん中だからね、いろいろ我慢する事が多いの。真由美は一番上でいろいろ優遇したし、啓介は長男だから、やっぱり特別扱いして来たと思う。だから余計に強く言えなくてね。あの子から歩み寄ってくれるように、時間をかけるべきなのだと思うけれど……」

「でも、さくらに我慢を押し付けるのは変だろ」

 島田が弱々しく反論したが、母は譲らなかった。

「私ね、我が儘言ってる自覚はあるのよ。ただ、こんな時だから、できる限り揉めたくないの。お父さん、昔から香苗にはめっぽう弱いでしょう。あと、お義父さんも」

「手がかかってたのはよく知ってる。俺、あいつ見て、何をやったら怒られるのか学んでた」

 島田ももう説得する手だてを思いつかないのだろう。さくらだって、こんな状況では思いつかない。

 悲壮感の滲んだ島田の笑みを見て、さくらは腹を決めた。島田の母を見ると、毅然と顔を上げた。

「私、先ほどのお話ありがたく受けさせて頂こうと思います」

 だが、島田は反射のように拒否した。

「だめだ」

「でも」

 島田は首を横に振ってさくらの言葉を遮る。そしてスケッチブックの、描きかけのさくらの絵を指差した。そこには待合室の様子が描かれていた。待ち時間、何もしていないと色々と考えてしまうので、病院向けの仕事のためにとメモ代わりに描き付けていたのだ。

「さくらがいないと、さくらの絵が無いと、SHIMADAは回らない。さくらに辞めないで欲しいってのは、さくらのためでもあるし、俺の我が儘でもあるんだ」

「え? 上原さんじゃなくて?」

 意外な言葉に、さくらは目を見張る。

「ああ。上原もだけど、さくらも、姉ちゃんも皆必要だ。——俺、今まで、いくら頑張っても脛かじりってレッテル張られ続けて来た。SHIMADAで、はじめて会社を一から任されて、やっと親の力じゃなくて自分の実力で勝負できて、一人前になれるかもって思えた。だから、SHIMADAは、特別なんだ。大きくするのが俺の夢なんだよ。俺は、さくらもSHIMADAも諦められない。馬鹿馬鹿しい慣習には頷けない」

 そう熱く語る島田の隣で、島田の母は困った顔で息を大きく吐いた。

「……要は香苗が気持ちよく頷けばいいのよね」

 島田の母は、じっとテーブルを見つめて考え込んでいたが、やがてさくらと島田を交互に見つめて、口元に小さな笑みを浮かべた。


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