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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
六.処暑のころ
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79 回りくどい誘い

 翌朝、島田は寝不足の頭を抱えてぼんやりと縁側に座っていた。

 遠く、水平線から太陽が顔を出し、辺りを赤く染上げた。かと思うと、太陽はすぐに力強く輝き出し、街を金色に照らし始める。見ていると、ここが海辺の街である事を改めて知る。潮の香りが微かに鼻に届いた気がした。それに混じってみそ汁の、出汁のいい香りも漂っている。

 朝食を作っていたさくらの母親が、庭に野菜を取りに来た。朝露を纏った葱とトマト、キュウリを手早くちぎると、ちらりと島田を見やって、際どい質問を投げた。

「夜這いとかしてなかろうね」

「あの状況でできるほど、肝は据わってません」

 どう考えても見張られているというのに、そしてエアコンも扇風機も無く、窓を全開にした部屋に寝かせたくせに、聞くのがおかしいと思った。いくら昨晩さくらに散々煽られたとしても、そこまで開放的にはなれない。

(でも、もしご両親がいなかったら、我慢できなかったかもしれないけど…………間違いなく拒まれたな)

 何だかんだで彼女はとても保守的なのだ。落とすのには例によって理屈がいる。理屈があれば落とせるから、それを考えるのは楽しいけれど。

 想像する島田に、さくらの母は暢気に笑いかける。

「あとちょっとの我慢やろ」

「……まぁそうですけど」

 既に手を出してしまっている身としては少々気まずく、島田は適当に濁すと話題を変えた。

「さくらさん、連れて戻りますね。彼女がいないと、うちの会社回らないんですよ」

「あの子が戻るって言うんなら、私には止められんよ。お父さんに怒られるけんね」

 少し寂しそうにさくらの母は言う。

 島田が意外に思うと、彼女は補足した。

「過保護過ぎやろ、って怒られたんよ。縛り付けて、あの子が肝心な時に帰って来れんようになったらどうするんねって。さくらが選んだんなら信じてやりって」

「そうなんですか」

 それで攻撃が手ぬるくなったのかと納得していると、母はムッと表情を険しくした。

「……さすがに、さくらが帰って来た時はお父さんも怒っとったけどね」

 ぎろりと睨まれて島田は僅かに小さくなる。

「でも、ここまで来たんなら、本気やろ」

「はい。絶対大事にします」

「あんた、親の臑かじっとるし、肝心なところで駄目やけんね。とりあえずは自分の身辺を片付けり。話はそれからやけん。お父さん、普段は静かやけど、私よりも頑固やし、理屈っぽいけん」

 相変わらず評価は低いようだったが、事実なので全く否定できない。苦笑いしながらも、島田は熱意だけは見せようと頷く。

「精一杯頑張ります」

「でも一人で頑張りなさんな。さくらに何でも話して、一緒に頑張り。二人の問題なんやけんね」

 思わぬ激励をうけて、島田は目を丸くする。そして、父親に出直しを言い渡されたとしても、昨日ここまで出向いて来て良かったと心底思った。

 そのとき、

「あ、おはよーございます」

 と、さくらののんびりした声が割り込み、島田は振り返って思わずぎょっとする。

「なに、その恰好」

 ジャージだ。しかも小豆色で、膝に毛玉があり、ずいぶんくたびれている。妙に懐かしい形だった。

(……高校のジャージとか?)

 島田が言葉を探して絶句していると、さくらは赤くなって膨れた。

「だって島田さんが酷い恰好って言うから。あれがだめなら、これしかないんです」

 誰も見ないからいいんですよ、とさくらは文句を言う。

「それもある意味酷い」

 島田は吹き出しそうになりながら、さくらから目を逸らす。そして心の中で密かに呟いた。

(でも露出多いよりは、ジャージの方が助かるけど)

 いくら夏だからと言っても、伸びやかな手足と白い肌は目の毒だった。特に、二の腕の内側の肌が酷く柔らかそうで、甘そうで。堪らなかった。

 なんといってもプロポーズを受けてもらった直後なのだ。酒さえ飲んでなければ、昨晩のうちにさくらを連れて自宅に帰っていたと思う。

 そこまで考えて、島田は思いつく。会社までは一時間あれば着く。

「あ、もう六時か」

(すぐに出れば、間に合うかな)

 時計を見て計算を始める島田に、突如さくらが言った。

「あの、私、有給消化は勿体ないので、今日から仕事に戻ります。でも、まともな服持って帰ってなくって、着替えを取りに行きたいので……ええと、途中で下ろしてもらってもいいですか」

「? 別に構わないけど」

 願ってもない提案に、島田は思わず目を見張る。島田と目が合うと、さくらはどこか気まずそうに目を伏せた。よく見ると、耳が僅かに赤い気がする。

(あれ? もしかして、俺と同じ事考えてる?)

 回りくどい誘い・・に気づいた島田は、緩む頬を隠すため、手で口元を覆った。



 *



 マンションまであと少しという赤信号で、島田の歯止めが利かなくなった。

「あー……ちょっと限界」

 そう言うと、島田はギアをパーキングにし、サイドブレーキを引く。眼鏡を外し、さくらを引き寄せた。

 後ろから響く不機嫌なクラクションに発進を促されて、ようやく解放される。名残惜しそうに彼は眼鏡を掛けて、ハンドルを握り直す。そんな風に、マンションまで待ちきれないと無言で訴える島田を、さくらはなんとか部屋まではなだめたものの、部屋に着いたらもう止められなかったし、止めるつもりも無かった。



 結果的には五分の遅刻ですんだ。

 二人してオフィスに駆け込むと、河野はまだだった。一人でディスプレイと向かい合っていた上原が、横目で睨んでくる。

「遅刻っすよ。つーか、片桐、お前、有給消化って言ってなかったか?」

「お騒がせしてすみませんでした。辞めるのを止めます。で、有給は有効に使います」

 さくらは素直に頭を下げる。

「あー……なんだ。痴話げんかだったってオチ?」

 心底面白くなさそうに、上原は舌打ちした。

「上原。河野から話してもらってるはずだけど、これからどうするんだ?」

 島田が間髪入れずに問うと、上原は「待遇、山田より上にしてもらえることになったから、出て行く理由はないしなー。それに島田さんが出て行くんっすよね?」と島田に質問を返す。

「ああ。だけど、さくらを諦めてもらわないと出て行けない」

「勝手っすねぇ」

 上原は不機嫌そうにため息を吐く。

「俺に辞めろって言いたいんっすか」

「いや。SHIMADAにはお前が必要だから、できれば辞めないで欲しい。……でも、さくらは諦めて欲しいんだ」

「めちゃくちゃ勝手な言い分っすね」

 上原はさくらの左手に目をやると、存在感を示すリングを目ざとく睨んで「ずるいっすよ。俺にはそれは買えない」と文句を言う。

「所詮、平社員は御曹司には敵わない、か。あーあ。いいなあ、俺も金持ちの家に生まれたかった」

 わざとらしいくらいに僻む上原に、島田はムッとして言い返している。

「楽して買ったように言うなよ。親の金なんか一銭も使ってねえし。大体、俺とお前、給料そんなに変わんないって。役員手当くらいだろ。むしろお前、実家に住んでるくせに、どうして貯金してないんだよ」

「あー、はいはい、今度給料上がったらその分貯金しますよ」

 仲良く・・・喧嘩をし始める二人に挟まれて、さくらは思った。

(……本当は図星だったんじゃないのかなぁ)

 上原は、やっぱり島田が・・・好きなのだ。あんな風にさくらに言ってくれたけど、さくらと同じくらいに、いやむしろ、さくらよりも島田の事が好きなのだ。もちろん、変な意味ではなく。

 だから、見ていられなかったのかもしれない。いつまでもぐずぐずしている島田とさくらを、煽ってくれたのかもしれない。

(そんな風に思うのは、やっぱり逃げかな。ずるいかな)

 さくらがそんな風に感傷に浸っていると、上原はぎろりと睨んで、人差し指を突きつけた。

「お前、何だその顔、うぜええ! まさか『私のために争わないで〜』とか思ってんじゃねえだろうな!? 調子こいてんじゃねえ。――誰がお前みたいな女子力ゼロ、本気で相手にするかよ。血迷ってたんだよ!」

 そう真っ赤な顔で悪態をつくと、彼は鞄を掴んでデスクを離れる。

「今日、体調ってか、胸くそ悪いんで、休み貰います」

 上原が社会人失格の理由でオフィスを出ようとする。島田は上原の背中に向かって言った。

「今度おごる」

 一瞬上原は立ち止まると、大きくため息を吐いた。

「回らない寿司で、手を打ちますよー」

 振り向かずにひらひらと手を振ると、上原はオフィスをあとにした。

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