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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
六.処暑のころ
80/91

78 襖を隔てて右隣

 島田はその晩、さくらの家に泊まる事となった。

 飲酒運転はできないから、電車で帰って明日車を取りにくると言ったが、駅までのバスがもう終わってしまっていた。運転代行まで頼もうとした島田に、母が「勿体ないやろ」と猛反対したのだ。

 座敷に面した庭では蚊取り線香が焚かれ、白い煙が闇の上で柔かい曲線を描いていた。島田は、縁側に座り込んで宵闇を見つめている。ぼうっとしているのは酒のせいだけではないのだろう。

 彼は先ほど強引に風呂に入れられ、父のパジャマを借りて着ていた。さすがに新品を下ろしてくれたらしいが、どこぞのスーパーで買って来た縞々の青いパジャマは、正直に言うと彼には全く似合っていない。

 同じく風呂に入って部屋着に着替えたさくらは、冷えた麦茶の入ったグラスを二つ持って、彼の隣にちょこんと体操座りをする。グラスを島田に渡すと、「すみません、両親、頑固者で」と謝った。

「いや、当然の反応。猫の子貰うわけじゃないんだから」

 と島田は苦笑いをする。

「でも、なんか、すみません。せっかく来て頂いたのに」

「いいんだよ。これで。さくらに謝るのが最大の目的だったし。俺の気持ちが伝わったんなら、それで満足だ。すぐ上手くいくとか甘い事は考えてない。営業で鍛えてるから、このくらい全然平気だし」

 営業、と言った後、島田の顔が曇った事にさくらはすぐに気が付いた。美装に戻れば、島田が営業で回る事はきっとないのだろう。

 寂しさが移ったさくらは、ぽつりと呟いた。

「島田さん……SHIMADA、辞めちゃうんですね」

 島田は膝の上で手を組むと、その上に額を乗せて項垂れた。

「本当はもっとあの場所で頑張りたかったんだけどな。最初はさ、営業とか無理だと思ってた。でも、頑張れば頑張るほど成果が目に見えるのって、結構やりがいがあった。自分の力で一から作り上げるのって、めちゃくちゃ大変だけど、楽しかったし。あと二年くらいさせてもらえれば……年商一億も、見えてきてたんだけどな。上原とさくらのデザイン、もっと売ってやれたのに」

 悔しがる島田の口から、上原と聞けば、もう黙っておけなかった。

「あ、あの……さっき言いそびれたんですけど、ええと」

 しかし、さすがに先輩社員の裏切りを口にするのは気が引けた。さくらが言いよどむと、

「上原が山田に誘われてるって話?」

 島田がさらりと遮り、さくらは仰天した。

「ご存知だったんですか?」

 島田は頷く。

「山田社長に会ったら、『上原君から何か聞きましたか』って言われてさ。上原も様子変だったから、そうかなと思った。『既存のデザインやノウハウは渡せませんよ』って一応社長に釘は差しておいたけど……どうするかは上原に任せる」

「え、でも、島田さんがいなくなって、上原さんまでいないと、SHIMADA、回りませんよ」

「うん。だから、待遇の見直しして、姉ちゃんに話つけてもらうつもり。俺が言うと、揉めそうだし。正直に言うと、俺、自分がいなくなるのに、上原が残るのめちゃくちゃ不安なんだけど、私情で辞めさせるわけにもいかないからさ」

 さくらだけを残して行きたくないという、島田の本心がひしひしと感じられて、さくらは何とかしたくて仕方が無くなる。すごく簡単な方法が目の前に落ちているから、なおさらだった。

「……私、辞めてもいいですよ。そうしたら、何もかもあっさり解決しますよね?」

「駄目だ。今の島田美装に絵を描く仕事はない」

「絵は趣味でやればいいんです」

 自分に言い聞かせるように言うと、島田はその顔に僅かに怒りを滲ませた。

「趣味? 本当にそれで納得する? 俺を選んで、せっかく掴んだ仕事、そんな風に放り出す?」

「……」

 島田がじっと見つめてくる。さくらは、彼の目を見て嘘はつけないと思った。

「辞めたくありません」

 正直に漏らすと、島田は満足そうに笑った。

「そうだろ? どっちか一方だけが我慢してたら、長く続かない。俺はそんなの嫌だから」

「でも、……辞めたいとも思うんです。私、島田さんが居ないSHIMADAだと、寂しいです。仕事はもちろん楽しいですけど、仕事ばかりの真面目人間じゃないんです、私。島田さんがいるから、頑張れてる部分が絶対あるんです」

 厳しい指導に耐えられたのは、島田と働きたかったからだし、彼に相応しくありたかったからだ。

「本当は、島田さんに辞めて欲しくない」

 ずっと今のままでいたいのに。思わず弱音を吐くと、島田はさくらの指に指を絡めて、熱の籠った目でさくらを見つめた。

「それは、俺も同じ。でも、親が大事にして来た会社だし、俺が放り出すわけにいかないから」

「わかってます。すみません、我が儘言って」

「俺……一緒に働けないなら、せめて夜は一緒にいたい。それなら、俺は頑張れる。さくらは?」

 囁くような声で彼は言った。さくらは「私もです」と頷くと島田を見上げる。そして眼差しのあまりの甘さに、つい目を伏せかけた。

 が、そのとき、

「あっはっはっは」

 と笑い声が響いて、さくらははっと目を開けた。島田はとっさに飛び退いたらしく、さくらと距離を取って、居間との境にある襖を恨めしそうに睨んでいる。居間からは、わざとらしく父に話しかける母の声が聞こえて来て、ここが籠の中だったと思い出した。

(あぁ……ここが実家じゃなかったらなぁ)

 一生に一度の、プロポーズされた夜だ。どれだけ甘い夜になった事だろうと勿体なく思った。

 だが、さくらは頭を振って甘い妄想を払いのけると、島田に説明を求めた。

「ええと、でも……どうするんですか?」

 彼は髪をかきあげて小さくため息をつくと、力強く言った。

「島田の慣例を壊す。社外結婚を認めてもらう」

「どうやってです」

「突破口になりそうな事に、心当たりがあるんだ。じいちゃんが社内結婚を勧めはじめたのって、叔父さんが、社内の子に手当たり次第に手を出してたからじゃないかなって」

「あー、例の叔父さんですか」

「うん。例の」

 先日の場面を思い浮かべて顔をしかめるさくらに、島田は苦笑いをする。

「社内に妻がいれば、さすがに遊ばないだろうって考えたんだろうけど、じいちゃんも甘いよな。ああいう人は外で遊ぶに決まってる」

「じゃあ、叔父さんが逮捕されたって事は……あ、不謹慎ですみません」

 島田は「別にいいよ。それに執行猶予は付くみたいだけど」と笑って続きを引き取った。

「つまり一人敵は減ってるはず。だけど、俺が思うに、巻き添え食らった人間の方が根が深そうなんだよな」

「巻き添えですか」

「うん。姉ちゃん二人。二人とも、じいちゃんに逆らえなくて、意に添わない結婚してるから」

「河野さん、ですか?」

 どちらかと言うと応援してくれていたと思って、首を傾げるさくらに、島田は首を力なく横に振る。

「いや、そっちは仲良くやってるし、あの人、何だかんだで俺に甘いからいいんだけど、問題は……」

 さくらはそこで口を噤んだ島田の言葉尻を拾った。河野でなければ、もう一人の姉だ。確か名前だけ聞いたことがある。島田製作所を任されている――

「……二番目のお姉さんですか?」

「ああ。多分、香苗をなんとかすれば、じいちゃんは頷くと思う」



 その後、島田は「明日、病院について来て欲しいんだ。親と一緒に話したいことがあって」と言い難そうに告げて、

「おやすみ」

 と、あっさりと就寝しようとした。もう少し話していたかったさくらは、彼を引き止める。

「もう寝ちゃうんですか? まだ十時ですけど」

「うん、明日早いし……っていうか、さくら、あのさ、状況わかってる? お父さんとお母さんが隣にいるんだけど、わかってないだろ?」

「いえ、わかってますけど。でも、いくら母でも、さすがに話しているくらいで、文句は言わないですよ」

 首を捻ると、

「いーや、わかってない」

 と島田は全力で否定した。

 大体、その恰好も大概酷いしと、急に苛立ったように睨むと、彼はさくらを置いて客間へ移る。

 全開の窓から秋めいた爽やかな風が滑り込んで、さくらのむき出しの手足を冷やした。

(……さすがに、気、抜きすぎてたか? でもこれ以外だと高校のジャージくらいしかないしなあ)

 自身を見下ろして、タンクトップに短パンという真夏仕様の服を反省すると、さくらは自室に戻って布団の上に転がった。

 目線を上げると紺碧の夜空が窓の向こうに見える。虫の声が響くだけの、静かな夜だった。

 家の中で眠る、すべての人の息づかいさえ聞こえそうだと思う。父と母、それから島田のも。

 襖を隔ててすぐ右隣には、島田の休む客間がある。そう思うと、襖を開けて隣に移動したい気もした。左隣の部屋にいる両親にバレたら、揉めるのがわかっているのでやらないが。

(あーあ。せめてキスくらいしたかったなぁ)

 そんなことを考えているうちに、さくらは久々の安眠に誘われていた。

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