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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
六.処暑のころ
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77 意外過ぎる障害

「まぁ、そんなに急がんでいいんやないね? とりあえず、せっかく来たんやけん、今日のところは、夕食でも食べて行きなさい。母さん、ビール冷えとったかね」

 頭を下げ続ける島田に向かって、のらりくらりと鈍い反応を返したのは、ここに来てはじめて存在感を示した父だった。

「いっぱい冷えとるよ」との言葉に目線を向けると、母は隣で満足そうに笑っている。

 頭を上げた島田は、僅かに唇を引き結び、表情を引き締めている。話の腰を折られた形になって、次にどう反応するべきか考えているようだった。

 気まずい沈黙が流れる。さくらは話題を探し、はっと気が付く。

「あ! 米洗うの忘れてた」

 さくらが慌てると、母が「そんな事やろうと思っとった」と手に持っていた寿司桶を持ち上げる。

「じゃあ、夕飯作るけん。こんな暗いところにおらんで、居間でゆっくりしときんしゃい」

 母がにこにこと案内するが、島田は、

「……ええと、その前に、ちょっといいですか。まだ挨拶してなかったので」

 と断って、後ろを振り向き、壁に向き合ってかがみ込んだ。何をしているのかと問おうとして気が付いた。そこには、見慣れた風景に溶け込んでいた、小さな仏壇があった。

 仏壇には祖父と祖母の位牌がある。本家にはもっと立派な仏壇があるが、位牌分けしてもらっているのだ。

「お祖父さんとお祖母さん?」

 さくらが隣に座り込むと、ろうそくに火をつけていた島田が小声で尋ねる。

「はい……あの、例の、寅さんが好きな」

「さくらの名付け親か」

 祖父はさくらが中学生の時に他界し、祖母は高校生の時に他界した。

 父が五人兄弟の末っ子で、歳を取ってからの子ということもあり、祖父祖母とも九十までと、それなりに長生きした方だと思う。大往生と言っていいくらいに。

 葬式にも出たし、こうして仏壇に手を合わせているのに、なぜか実感が湧かない。本家に遊びに行ったら、今でも「よう来た」と出迎えてくれそうな気がしている。だから、尋ねた時に、迎えてくれない事に気づいた瞬間が一番寂しい。

 鴨居に飾られている二人の写真をさくらが見つめていると、島田が線香に火をつけて、お香の香りが辺りに漂った。手を合わせて目を瞑る島田を見て、さくらは、

(あー……この人、やっぱりすごく好きだ)

 としみじみと思った。

 さくらが大事にしているものを、何も言わないのにわかってくれるのだ。これまでもだったし、きっとこれからも。

 胸が熱くなりながら、顔を上げると、ガラス窓に写る母が目に入った。島田を見る目が柔らかなものに変わっていて、内心笑いが出る。今のは、年長者の好感度を上げる行動でもあったようだった。



「ほら、手が止まっとるよ。なんね、そんな大きいの、衣が剥げて爆発するよ」

 さくらは言われてはっとする。手の中には拳大の丸いジャガイモの塊があった。炒めた豚のミンチとタマネギ、人参とピーマンが混ぜ込んである、母特製の野菜コロッケだった。具が大きくて、食べ応えがある、さくらの大好物だ。

 母が、泡立つ黄金色の油の中に、さくらが衣を着けたコロッケを次々に投入して行く。パチパチと小気味のいい音が響くキッチンから、さくらは今の様子をこっそり窺った。

 磨かれたテーブルの上には、母が先ほど買って来たヒラメの刺身と寿司が並べられている。客人(島田)が来るのは、知っていたのだろう。掃除が念入りだったのもそのせいかと、さくらは小さくため息をついた。

 テーブルを挟んで向かい合い、父は無言で島田のコップにビールを注いでいる。島田は黙って父の相手をしていて、さくらは、酒に弱い二人の男を覗き見てハラハラした。

(あー……変なところに障害があったなあ。まさかお母さんじゃなくて、お父さんとは)

 どうやら父は田舎の流儀で島田を試している。だが、酒を使ってというのはいただけない。共倒れになるのが目に見えている。

 だが、ビール瓶が二本空になった頃だった。揚がったばかりのコロッケをさくらが食卓に運ぶと、「さくらもそこに座りなさい」と父が言った。そして、島田に向かって問うた。

「今、あんたの会社、大変なことになっとるんやろ。どうする気ね」

 さくらはドキリとする。山田社長が上原を引き抜こうとしている事が知れたのかもしれないと思ったのだ。だが、島田はさくらの思ってもみない返事をした。

「その事は、ご両親に一緒にお話しておこうと思っていました。あんなことがあったので、会社は混乱していて……近いうちに、僕も島田美装に戻る事になりそうです」

「え? なんで!?」

 驚愕するさくらに、父が「やっぱり知らんかったんか」と呆れたように、新聞の切り抜きを差し出した。そこには『K市官製談合』と見出しがあり、蛍光ペンで島田美装にマークがしてあった。

「この間会ったろう? あれは叔父なんだけど、彼が市役所の担当から情報貰ってたらしくて」

 島田が説明をくれて、さくらは事の重大さに目を見開いたあと、羞恥で赤くなった。地元の、しかも自分の働く業界のニュースなのに、今の今まで知らなかったというのは、社会人としてはあまりに恥ずかしい。それに、そんな大事なことがあっていたならば、さくらどころではなかっただろう。タイミングが悪かったとはいえ、あんな風に彼を困らせてしまったのが、あまりに申し訳なかった。

(っていうか、新聞読んでたら、もっと早く島田さんの正体にも気づいたろうしな……あー……いろいろ残念過ぎる)

「すみません、私――」

 反省し尽くすさくらが謝ると、

「いいんだ。言ってなかった俺が悪いし。とにかく……心配しなくても大丈夫。ペナルティはあるけど、ちゃんと立て直す」

 決意を込めて言われて、さくらははっとした。島田が島田美装に戻るということは。

「え、じゃあSHIMADAは?」

 島田は痛みをこらえるような顔をしていた。

「もともと勉強のために居させてもらってたんだ。だから姉に任せるよ。営業に人を追加して、引き継ぎしたら、できるだけ早く戻らないと。覚えないといけない事が山とある」

「そんな急に?」

「うん」

 急激に胸に広がる喪失感に、さくらは足元が崩れて行くような感覚に陥る。

 島田は表情を翳らせるさくらを励ますように言った。

「だから、急ぎたくて」

 さくらが見つめ返すと、島田は僅かに目元を赤くしたあと、正座をして、父に向き合った。

「あの、先ほどは先走ってしまいましたが、僕は本気です。さくらさんと結婚させて下さい」

 だが、頭を再度下げる島田にも、父は心動かされる事はなかった。

「あんたのご両親はなんていいようとね?」

 鋭い父の切り返しに、島田は一瞬詰まった。

「父と母には話してますが、家族内の約束があって、それさえクリアすれば反対する理由はないそうです」

「約束?」

 父が不可解そうに首をかしげたが、さくらは島田の先ほどの話から、両親が何を言ったのか、ピンときた。

「つまり、私が仕事(SHIMADA)を辞めればいいんですよね?」

「……うん。だけど、そっちに逃げたくないなと思ってるから、説得中」

 島田が眉尻を僅かに下げる。それを見た父は、小さくため息をつくと、

「じゃあ、その辺りの問題が解決してから、また来なさい」

 とすげなく出直しを言い渡し、島田は返す言葉を失った。苦しげな島田を見てさくらは困惑した。

「でも、お父さん、島田さん、今大変な時やし、ただでさえ忙しいんよ」

 だが父は頑固に首を横に振った。

「大事な一人娘やけんね、軽々しく返事はできんよ」

「ねぇ、お母さんも!」

 助けを求めて母を見るが、母は肩をすくめて「お父さんの言う通りやろ」と味方はしてくれなかった。


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