75 日曜までが勝負
島田は上原と二人でオフィスを飛び出したが、既にさくらの姿は見当たらない。
「電話しないんすか?」
尋ねられ、情けなくなりながらも首を振る。
「昨日落として壊した」
だからメールに返信もできず、アドレス帳に頼りっきりで番号を覚えていなかったため、電話もできなかった。同じ理由でさくらの連絡先を知っていそうな人間には連絡がつかず、唯一頼みの綱だった姉は父の病院に泊まり。手詰まりだった。だが、今朝になってようやく履歴書の事を思い出したのだ。
「悉く間が悪いっすね」
呆れたような上原が島田の代わりに電話をかけるが、不発に終わる。
「電源切ってます。……ホント、めんどくせー女」
島田は黙って上原を見上げた。
先ほどまで彼を殴ろうと握りしめていた手からは、いつの間にか力が抜けてしまっていた。上原もそうなのだろう。三角関係の修羅場が、『女が退場』という全く予想外の方向に進んでいて、対処方法がすぐには見当たらない。
審判がいなければ勝負ができないのだ。
「あんなの止めておいた方がいいんじゃないすか。もっと可愛い子も綺麗な子も島田さんの周りにはいっぱいいるじゃないっすか」
「まあね」
島田が頷くと、上原が片眉を上げた。
「けど、止めるのは無理」
期待させたくなくてすぐに否定する。可愛い子も綺麗な子もたくさんいるけど、名刺に釣られない女はいない。肩書きを除いた島田自身を好きになってくれる女はいないのだ。皮肉にも別れを突きつけられて、そのことを再確認してしまった。
「どう考えても諦められない」
宣言すると上原は鬱陶しそうに顔をしかめた。
「そうっすか。しつこいっすね」
「お前もな。ってか、上原、お前、めちゃくちゃ卑怯だろ。美味しいところ持って行き過ぎ」
「隙を作るのが悪いんすよ。島田さんてマジで肝心な時にてんで駄目っすねえ。特に、さっきのは最悪だった。空気読めないにもほどがありますよ。片桐は”もの”みたいに軽い扱いされて怒ってるのに、火に油注ぐんすから。あ、もしかしてわざとでした? 片桐を試してたとか?」
「んなわけない」
「でしょうねえ。それができるくらい器用だったら、こんなに拗れませんしねー。大体こんなのでいつまでも誤摩化してるから駄目なんすよ」
上原はそう言いながら、島田の頭上から無造作に何かを落とした。陽光が反射して島田の目を刺す。慌てて受け取ると、それはいつの間に拾ったのか、さくらの指輪だった。
胸の痛みに顔をしかめる島田を見て楽しげに笑ったあと、上原は真面目な顔で宣戦布告をする。
「片桐、貰って行きますね、って、もう島田さんのものじゃないみたいですけど」
「――何企んでる?」
「教えるわけないっすよ」
へらへらと笑って、上原は島田と別れ、地下鉄の駅へと向かった。
念のためと、さくらのマンションへと向かったが、予想通りさくらは居なかった。エントランスの植え込みに座り込むと、島田はじっと考え込む。
さくらの年次有給休暇は五日。土日もあわせれば、ちょうど一週間。
(つまり、今度の日曜までが勝負か)
彼女はその間、島田を避け続けるだろう。もちろん島田はそれまでじっと待っているつもりは無い。逃げるさくらの行動を読んで、先回りして捕まえる。
(じゃあ、この一週間、さくらならどこで何をする?)
*
ゴーゴーという風の音、ゴロゴロと床を何かが転がる音、時折ガツンと何かがぶつかり合う音が近づいて来て、さくらはうっすらと目を開ける。
田舎の家に多い天然木の天井は、マンションとは違って高いところにあった。和室に合わせた四角い照明がぶら下がり、豆電球が点いている。
(あー、消し忘れ。勿体ないなー)
そんなことを考えるさくらの耳に、母の声が届いた。
「邪魔よ。退きんしゃい。あとはここだけなんやけんね」
「んー……まだ掃除してんの? 昼からずっとやない?」
畳の上で芋虫のように動かないさくらを、母早百合は掃除機の先で突く。
Tシャツの裾が容赦なく吸込まれ、ごぼぼぼとすごい音をたてた。
「やめー! 縒れるやん!」
慌てて服を引っ張り掃除機から救う。だが母は攻撃を止めなかった。
「どうせ一枚三百円くらいの安もんやろ」
「五倍以上するよ! ってか、そんな値段のTシャツとか今時売ってないって」
「そうね? お母さん、この間駅前で三枚千円の見つけたけどね。買おうかと思ったけどサイズが無かったんよ」
母は再びさくらの服を吸込もうと掃除機を近づける。
仕方なくさくらは立ち上がると、掃除機をかけ終わった居間のソファに移動した。
扇風機がくるくると回ってさくらの髪をなびかせる。先ほど庭に打ち水をしたらしく、全開の窓から水分を含んだ冷たい風が吹き込んでいて心地よい。残暑は厳しいが、街中と違って田舎の家ではクーラーというものがあまり必要ない。エコでいいなあとさくらは思う。
「あんたもね、一日中ゴロゴロしとかんで、次の就職先でも探したらいいやないね」
「うーん……」
さくらが気の無い返事をすると、母はため息をついた。
「惜しかったね、田中さんとこの事務。ああいういい仕事は女の子に人気やけんね。さっさ探さんと、また余所の子に取られるよ」
母の言う『いい仕事』とは実家から通えて、定時で帰れて、あまり難しくなくて、そこそこお給料がもらえて、いつ寿退社しても問題の無い仕事だ。楽かもしれないけれど、いまいち魅力的に思えず、乗り気になれない。
「いちおう当てはあるんよ」
上原からはあのあとメールが届いていた。山田社長の出した条件が書かれていて、それは確かにSHIMADAより少しだけ良かった。返事は来週までにくれればいいと書いてあって、さくらはずっと悩んでいる。
上原とさくらが移ると、SHIMADAは潰れる。山田社長は自分の客をSHIMADAに取られた腹いせをする気なのかもしれないなとさくらは思った。島田とのことを考えると未だに悔しくて悲しいけれど、就職難に苦しむさくらを救ってくれたSHIMADAにそんな風に迷惑をかけるのだけは嫌だった。楽しかった仕事まで否定したいわけではないのだ。
母が掃除機をかけ終わると、蜩が出番だとばかりにカナカナと鳴きはじめた。母は窓から入る西日に目を細めるとエプロンを外す。
「じゃあ、ちょっと夕食の買い物行ってくるよ。今日はあんたの好きなコロッケにしてやるけん。米洗って、それから洗濯物畳んどって」
「……はーい」
さくらは返事をすると、座敷に移動して、夕焼けで赤く染まった畳の上に再び転がった。
退職騒ぎから二日が経った。あの日、家に帰らなかったさくらは、ネットカフェでいつもの定期電話を受けた。さくらの沈んだ声を聞いた母は、狙ったように「戻ってこんとね」とエサを撒いた。一人で鬱々としていたさくらは思わず食いついてしまったのだ。
その代わりに両親への説明は必須だった。根掘り葉掘り聞かれ、ほれみたことかと呆れられる覚悟をして「仕事を辞める」と告げると、意外にも母は何も聞かず、単純に「やっと戻ってくるんね? そりゃあよかった」と歓迎してくれた。
だがさくらは、いつも通り傍若無人に振る舞う母が、島田のことだけには全く触れないことに気づいていた。母は全部分かって、尻尾を巻いて逃げ帰ったさくらを、丸ごと受け入れてくれていた。そのことに気づくとただただ、母という存在がありがたかった。
(確かK大落ちた時もこんな感じだったかもなー。受けるまではぎゃんぎゃんうるさかったけど、落ちてしまえば静かになったもんな)
第一志望の大学に落ちた時のことを思い出してしんみりしていると、表で車の音がした。
財布でも忘れたか? と仰向けに寝転んだまま玄関の方を見やると、開け放たれたままの引き戸の向こうにあり得ない人影があった。さくらは反射的に飛び起き、居住まいを正す。
「な――、なんでここ判ったんです!? 履歴書にも書いてませんよね!?」
寝惚けているのか、それとも見間違えか。だが、何度さくらが目を擦っても、夕日を背負って立っているのは、確かに島田だった。




