74 背に回される手
日曜日のオフィスはがらんとしていて、全く別の空気が流れている。
むっとした空気を追い出そうと窓を開けると、さくらはネットで調べて書いた退職願を河野の机にそっと置いた。
会社を辞めると言ってもすぐに辞められるわけではないらしい。規定を読む限り、一ヶ月前に辞意を示さなければならないと書いてあった。
島田からはメールの返事は返って来なかった。バレたからには去る者は追わないのだろう。信じたいという願いは見事に粉々になってしまった。
(ほんと、見事に騙されちゃったよね)
デスクに置いてあった私物を片付けていると楽しかった一年を思い出してしまい、じわりと視界が緩むのを感じて慌てた。
と、そのとき、オフィスの戸が開けられて、さくらは思わず体を強ばらせる。島田かもしれないと思ったのだ。だが、そこにいたのは意外な人物だった。
「あー? 何でお前が居るんだよ」
「上原さんこそ」
そこにいたのは寝癖のついた髪に、Tシャツにジーンズ姿の上原だった。スーツ以外の姿を見るのははじめてで、若々しい印象に戸惑った。
「俺は休出」
何か気まずげにしている彼を不思議に思っていると、彼は目ざとくさくらの机の上にある大きな鞄と詰め込まれた荷物を見つけた。
「なんだ、お前。夜逃げでもする気かよ?」
冗談混じりに言われたが、さくらは顔を引きつらせ、黙り込む。
「まじか」
「すみません、上原さんにせっかく鍛えてもらったのに」
仕事は楽しかったから本当に惜しかった。思わず眉を寄せるさくらに、上原は少し考え込む。そしてじっとさくらの右手を見たあと、辞める理由ではなく、別の事を聞いた。
「――次の仕事って決めてんの。まだ失業保険出ねえだろ」
「決まってないです。急だったんで」
「どうすんだ。辞めたらマンションも出て行かないといけねえだろ」
言われてはじめて気が付いたさくらは、途方に暮れる。
(ああ、そっか。引っ越さないと家賃がとても払えない――)
それ以前に会社の借り上げなのだから、契約上問題があるだろう。
すぐに実家に帰るという選択肢が浮かび上がる。ようやく飛び出した籠。出してくれたのは島田だったことを思い出す。だが、
『一人で立つのは怖いかもしれない。でも勇気を出して。一歩ずつでいいから離れてみて。転びそうになったら、俺が支えるから』
あの言葉さえも偽りだったのだと考えると、何もかもどうでも良くなった。
「何とかなりますし。ひとまずバイトしながら次探しますよ」
自棄になりかけるさくらに、上原がぽつりと言う。
「俺、さ。実は山田に移らないかって誘われてんだけど」
「え? 山田って、あの山田ですか?」
「ああ。この間社長さんに会ったろ。引き抜きってやつ? まさか俺にそんな話が来るとか思いもしなかったけどよー、条件かなりいいから、正直迷ってる」
上原は気恥ずかしそうにしているが、さくらは頭を殴られたような衝撃を受けていた。
さくらに加えて上原がいなければ、SHIMADAは回らない。皆で必死で大きくしていたSHIMADAがバラバラになって行く。自分が最初に出て行こうとしていたのに、想像すると、どうしてか血の気が引いた。
「で、でも上原さんいなくなったら……SHIMADA、回らないですよね。河野さんが困ると思います」
「島田さんが、じゃないんだな」
上原は何もかも分かったような顔をしていた。
「社長なら心配ねえだろ。あの人も、島田美装の役員だし」
「――上原さんは知ってたんですね」
「俺、元々立ち上げの時に美装から引っ張られたんだよ」
「なんだ。じゃあ、私一人で馬鹿みたいですよねー」
笑ってみせるが、笑顔がすぐに崩れた。俯くと、目の前に影ができる。
「泣くな、阿呆」
妙に温かく響いた言葉と同時に背に手が回され、さくらは驚く。そして彼はさらに驚くような言葉をさくらにくれる。
「――お前も一緒に行くか? 山田社長は、お前も欲しがってた」
「え、でも」
背中の手に混乱するさくらが顔を上げると、上原の真剣な目に捕らえられる。
「仲良くやってるんなら言うつもりもなかったけどよ。島田さんがあんまりに不甲斐ないっつうか。なんつうか、俺、あの人にお前を任せられねえ」
まさかとさくらは目を見開いた。
「え、え――『お前に島田さんを任せられねえ』の間違いじゃ……上原さんって島田さんが好きだったんですよね!?」
とたん、上原が殺気立つ。
「お前さぁ、殺されてえの。なんなんだそのわけわからん妄想……これだから女子力ゼロは」
ぎろりと睨み下ろされるが、酷い言葉に反して背に回った手は全く緩まずにさくらは混乱した。
そして絶対ぷよぷよしていると思い込んでいた腹は意外にも引き締まっていて、クマはいつの間にか筋肉質なクマに変身している。気づくと彼を急激に男として意識してしまう。
(そういえば痩せたら変身するっていう定番の展開とかなんとか以前誰かが言ってたような――いや、上原に限ってそんな事は無いよ!)
必死で否定してさくらは上原の腕から逃れようともがく。
「いや、あの、あの、ええと、多分、上原さん今血迷ってるんで、とにかく離してもらえませんか……!?」
「やだね」
そう言って上原がにやりと笑った時だった。
「――さくらを離せ」
荒い息と怒鳴り声にさくらと上原が同時に目を向けると、目を吊り上げた島田が玄関からこちらを睨みつけていた。
縒れたスーツに曲がったネクタイ。襟元を緩めたシャツは昨日の朝さくらが畳んでおいたもので見覚えがある。
充血した赤い目は徹夜明けのようで、オフィスで見てきた清潔感のあふれる理知的な彼とは全く別人に思えた。
島田は上原に近づくと、さくらの体に回された腕を思い切り振り掴む。
そうして腕を解かせ、さくらを自分の背に庇おうとする。そうしながらも「昨日はどこにいた? どれだけ探したと思ってるんだ。――それから、上原には気をつけろってあれだけ言ってたのに」と、島田は一方的に憤りをさくらにぶつけた。
とたん腹の底の怒りに火が着くのが分かった。こういう理不尽さがさくらは一番嫌いだった。
「島田さんに片桐を非難する権利なんかないでしょーが」
上原もムッとした様子で怯む事無く島田を見下ろした。体格差は歴然。だが、島田は全く譲らずに睨み上げて言い放った。
「さくらは俺のものだ」
ドラマや小説ではヒロインがときめく台詞なのかもしれない。もし違う場面で言われていたら――彼の正体を知る前だったら、頬を染めて喜んだだろう。だがさくらにとっては今更な言葉。誠意の欠片も無い、薄っぺらい響きに押さえ込んでいた怒りが爆発した。
「……”もの”ってなんですか」
低く重く響いた声に島田がぎょっとして振り返った。
「私は誰のものでもないですし! 大体、そうやって怒る前に言うことがあるんじゃないんですか!?」
叫ぶように言うと、さくらは河野の机に向かい、置いていた退職願を掴む。そして島田の前に突きつけた。
「これ、受理して下さい。今すぐ」
「受け付けられない。さくら。話を聞いてくれ」
島田は首を振り、受け取ろうともしない。
(話? そんなのでもう誤摩化されないから!)
頭に血が上ったさくらは退職願を、それから既に外してポケットにいれていた指輪を島田に力一杯投げつけた。
「片桐です。気安く呼ばないで下さい!!」
自分でもどこにこんなエネルギーがあったんだろうと思う。普段省エネしているからなのか。溜まりに溜まったものが吹き出して、止めようが無かった。島田も上原も、髪を振り乱し金切り声をあげるさくらを口をぽかんと開けて見下ろしている。
呆然、といった様子の彼を見て、ようやく少しだけ胸が空いた。僅かに頭が冷え、余裕を取り戻す。
肩で息をして、さくらは零れ出しそうな激情を必死で押さえ込む。そうしてようやく次の言葉を絞り出した。
「私、有給消化でしばらく休ませてもらいます。その間に代わりの人、探しておいて下さいね。大会社の御曹司なら、簡単ですよね。名刺配ればよりどりみどりですし。一週間、それどころか一日でも十分でしょう?」
文句は言わせないとばかりにさくらは島田を睨む。そして上原に向かって「さっきの話、前向きに検討させて頂きます!」と言うと、唖然とした二人の男を残してオフィスを飛び出した。




