73 逆の嘘だったら
地下鉄で西区にある島田美装の本社へと向かいながら、島田はぎりと歯がみした。
苛立ちの原因は朝、テレビから流れたアナウンサーの言葉。
『K市の市役所新庁舎立て替えの入札で官製談合の疑いが強まり、地検特別刑事部は入札参加業者に事情聴取を行い、近々市長を始め関係者宅に強制捜査を行う模様です』
聞くなり島田はしばらく放心していた。さくらが行ってきますと言った声でようやく我に返った彼は、素早く身支度をすると、さくらのマンションを飛び出したのだ。
(まさか、今さらこんな馬鹿をやると思わなかった)
思い出すのは昨日の叔父の様子。仕事という言葉は全く信じていなかったが、別の事を疑うべきだったのかもしれない――いや、疑っていても既に手遅れだっただろうが。
叔父は昔から女癖が悪かったらしい。会社にいればそういった噂話は嫌でも聞こえて来た。だから例の遊びかと思っていたが、あの女性はおそらく、役所の人間。そして会合は入札を有利に進めるための”仕事”だったのだ。叔母を悲しませつづける不倫とどっちがましだろうと島田は唸る。
定期的に参加する島田美装での会議でもよく話題に上っていたから、今回のK市発注の公共事業については知っていた。大きな山で、入札業者も多いから大変だと叔父も愚痴を言っていて、その割に簡単に落札できたなと思っていた。蓋を開けてみれば裏があったというオチだ。
叔父の仕事は健康不安のある父の代行だ。
その彼が談合罪で逮捕される。執行猶予はつくだろうが、こんなことになっては今まで通り社長代行の業務を行わせるのは株主も社員も認めない。会社が独占禁止法で罰せられる責任も取らねばならない。
宙に浮いた社長業を、まさか八十を越える祖父にすべて任せるわけにもいかない。となると、島田の肩にも重責はのしかかって来る。
役員たちは確実に言うだろう。姉に全部任せてお前は戻れと。そうして築き上げてきた業績は全部ふいになる。なにより――
(俺がいないと、誰がSHIMADAを大きくする? さくらをどうやって皆に認めさせる?)
追いつめられた島田は、鞄の中で震える携帯に気付く事もなく、窓の外に延々と連なるトンネルの闇を見つめ続けていた。
午後三時のファミレスは昼食と夕食の合間という事もあり、閑散としていた。還暦祝いパーティーどころではなくなったさくらは、泣くでもなく、怒るでもなく、もちろん笑うでもなく。表情のない顔でただぼうっとテーブルを見つめていた。
目の前ではドリンクバーで取ってきたコーラが入ったコップが汗をかいていた。一口飲み込むと干上がった喉が泡の刺激でひりひりと痛んだ。
コップの向こう側には、広瀬と藤沢。広瀬は突然の事態になんと言っていいかわからないのだろう。悲痛な顔をして黙り込んでいて、隣では先ほど彼氏にすごい剣幕で電話で追求していた藤沢が、テーブルに頭をつけて凹んでいる。田中に電話をして、間違いだとはっきりさせようとしてくれたのに、却って裏付けを取ってしまって戸惑っているのだ。
鋭く追求したところ、田中は隠しきれないと思ったのかあっさり吐いた。
島田はやはり島田美装の社長の息子で、そして、彼は会社から伴侶を選ぶことになっている。そのせいで女性社員が御曹司の恋人になりたいがために、次から次に押し寄せて、彼は女性不信に陥ったとか。だからこそ身の上を隠して、彼の事を知らないさくらと付き合ったのだと思う――それが田中の言い分だった。
だが、社内で簡単に手に入る女には飽きて、毛色の変わったさくらと付き合ってみたかったという可能性もある。なかなか落ちないさくらを落とすのはさぞ楽しかっただろう――そんな意地悪な考えがさくらの心をじわじわと殺して行く。
そして、田中も知らなかった事が一つ。伴侶探しは島田美装内のみで、SHIMADAは対象外であるということだった。さくらがSHIMADAに入ったから、てっきり真剣に付き合っているのだと思い込んでいたらしく、ひどく動揺しているのが電話口から伝わってきた。そしてそれはさくらに確信を抱かせる。瀕死の恋心がとどめを刺された気がした。
「うちの彼もぐるだったとか……。ショック大き過ぎ――ごめん。今度しばいとくから」
「藤沢たちが喧嘩する事ないよ。うちらの問題だし、田中氏、ほんとに知らなかったんだろうし」
「でも……島田さん紹介したの、私だし」
小さく首を横に振る。選んだのはさくらで、藤沢には責任はなかった。
少しの沈黙のあと、さくらはぽつりと呟いた。
「なんかさ。全く逆の嘘だったらこんなに傷つかなかったと思うんだよね」
「逆って?」
「島田さんが実は無職とか、バイトだったほうが良かった。で、副社長だって偽ってる方が良かった。だって、それだったら、少なくとも私の気を引くために嘘吐いたことになるよね? 島田さんは、自分が本気じゃないだけでなく、私にも本気になって欲しくなかったんだよ。だって大会社の御曹司だったらさ、誰だって手放したくなくて必死になるよね。私なんかに執着なんかして欲しくなかったんだよ。気軽に付き合いたくて、私が、丁度良かったんだと思う。ほら、貧乏だしさ、ちょっとご飯食べさせてもらったらすぐ懐くしさ、すごく安上がりだよね」
さくらは事実のみを淡々と言う。心が渇いてしまって涙はなぜか出て来ない。
頭の中では楽しかった日々が陣地を譲るまいと反抗している。だけど、いくら信じたくても島田の不実さを証明する答えばかりが出て来る。好きだと言ってくれたのは昨日の事だけど、それさえ、さくらを誤摩化すための言葉なのではないかと思えてしまう。
(だって、私たち、結局何の約束もしてないし)
何度か出た結婚という言葉も、頑なさくらを落とすために散らつかせた餌なのだろう。思い返せば、釣ったあとには、出て来る事もなかったではないか。
そんな人じゃない、と思いたかった。けれど、どこまで信じていいのかさくらにはもうわからない。
何もかもひっくり返されてしまった。
それだけ、彼の吐いていた嘘はさくらにとって重かった。
「あーあ。御曹司って知ってたら、最初から付き合わなかったのにさ」
そうであれば、不相応だとすぐにわかったし、さくらの方から対象外にしてしまったのに。
心配させたくなくて軽く言ったつもりなのに、藤沢は涙ぐんでいた。まるでさくらの代わりに泣いてくれているようだった。
「さくら……今日はうちに泊まれ。帰りに大量に酒買って、とにかく飲もう」
広瀬も慰めるように優しく言った。
「明日は日曜だしさ、全部吐き出してしまえばいいよ」
渇き切った胸にじわりと優しさが染み込んで、さくらはようやく目が潤むのを感じた。
「……ありがと。あんたたちが友達で良かったよ」
さくらが藤沢の家に外泊したその日、島田はさくらのマンションを再び訪ねていた。延々と続いた会議のあと、病院に寄った帰りだった。もう夜は遅かったが、どうしても顔を見て話さなければならないことがあったのだ。
だが、チャイムを鳴らしても出て来ない。仕方なく合鍵を使って入った部屋は暗く静まり返っていて、帰って来た形跡もない。時計を見ると、午後十一時。
(こんな時間にまだ帰っていないって、どういうことだ?)
慌てて携帯を鞄から取り出すが、電池切れだった。
昨日充電したばかりなのにこれだからスマホは――と苛立ちながら、島田はひとまず電源を求めて自宅に帰る。
コードをつけると端末が震え、やがて液晶に光が戻る。大量の留守電にぎょっとしているうちに、続けざまにメールが二件届く。着信順に開かれたメールは田中のもの。
『さくらちゃんに正体バレた。かなりヤバい。電話待ってる』
メールを見るなり島田は全身から血の気が引くのがわかった。あっという間に冷たくなった指で恐る恐る開いた次のメールはさくらからのもの。
『会社辞めます。いままでありがとうございました 片桐』
読んだとたん、スマフォが床に落ち、ガツンと痛々しい音を立てる。拾い上げたそれは、液晶が暗転し破損を訴える。
だが短いメールは瞼の裏に焼き付いていた。島田はそこに込められている想いをすべてを悟って、天を仰いだ。




