72 告げられた社名
翌日は朝からかんかん照りの空だった。残暑の厳しさに唸るエアコンの音に混じって、テレビでは景気がどうだとか官僚の汚職がどうだとか、コメンテーターがケチを付けている。普段あまりテレビを見ない島田が、ベッドの上にうつ伏せのまま釘付けになっていた。
珍しいなあと思いながら、さくらはバタバタと出かける準備を終えると、島田の前に冷えたペットボトルの水を置く。
そして
「じゃあ、ちょっと行ってきますね。戸締まりはお願いしますよ。出張気を付けて下さいね。来週末また会社で」
と思いつくままに言いおくと、いそいそと外に出た。
*
つ、と露になった首筋に指が刺さり、さくらは驚いて後ろを振り向く。
「さくらー、なんか首に痣ついてるけど――」
「え、うそっ」
思わず首筋を押さえてびくりと体を震わせるさくらに、指の持ち主、藤沢はしてやったりと顔を緩ませた。
「うそだよーん」
「――謀ったな!」
さくらは顔を真っ赤にして激高するが、藤沢は余計に面白がる。
「眠そうだし、ぼーっとしすぎてるし。何より食べてないし! 分かり易いんだよねぇ。昨日デートだったんでしょ? 確か島田さんの誕生日って言ってたもんな。なになに? もしかして朝から頑張って来たとかー?」
「お前もエロオヤジか!」
図星を指されさくらは思わず叫ぶが、「もってことは、島田さんもそうかー」と返されて墓穴を掘った事に気が付いた。
朝から行われたデートの埋め合わせで、さくらは疲れ果てていた。明るいのは嫌だと一応はっきりと拒んだのだが、結局は例のごとく流されてしまったのだ。
午後から予定があることは島田にも知らせていたのに、ギリギリまで離してもらえなかった。おかげで微妙に寝癖が残っている。化粧もいまいちのりが悪い。せっかく珍しく着飾っている――といってもシンプルなベージュのワンピースに、指輪のトルコ石に合わせた水色のコサージュをつけただけだが――というのに、なんだか残念な事になっている。
若い人はいいねえとニヤニヤする藤沢に「あんたは一体いくつだよ」と背を向けると、さくらは耳に蓋をし、無心になってオードブルをつまんだ。
さくらが島田とのデートを途中で切り上げてまで参加したのは、桑原教授の還暦祝いのパーティーである。助教の先生が発案人で、在校生と共に企画したそうだ。
慕われている教授である事から、企画が発表されてから一月ほどだというのに人の集まりが異常に良く、ホテルの会場を取るまでの規模になったのだ。学部が違う学生や卒業生もちらほらみかけ、人望が厚いなあとさくらは感心する。
広瀬もいるはずなんだがと辺りを見回したさくらは、何か見たくないものが見えた気がして、藤沢の方へくるりと方向転換した。
「なんだ? 語りたくなったか? まだ昼間だけど、まあいいよ。付き合おう」
「ちがう! 逃げよう、今すぐ逃げよう! ほら、例のあの――」
さくらが泡を食って藤沢を連れて逃げようとしたとき、さくらの背中に声がかかった。
「藤沢さんと片桐さんじゃない」
そこにいたのは獲物をしとめたような顔をした青山美砂だった。
学生の頃よりも多少落ち着いているものの、ブランドものだとすぐにわかる服で全身を固めていた。胸元は相変わらず盛っていて、少し露出が多い。
「え、なんで来てんの」
藤沢が遠慮も無しにこぼすが、さすがの彼女は全く気にせずにいけしゃあしゃあと言った。
「え、だってくわはらせんせー、サークルの顧問だったから」
「そうなの? え、何のサークル?」
さくらがきょとんとすると、ミサちゃんはイシシと笑う。
「マンドリンクラブー」
知らなかったとさくらは驚いた。というより、ミサちゃんがマンドリンを演奏しているのがなかなか想像できなかった。
そんな事はどうでも良いとばかりにミサちゃんは尋ねてくる。
「ねぇねぇ、ほら、例の彼。島田さんってまだフリー?」
(ほらやっぱりね! そう来たよ!)
予想通りの展開にさくらはくるりと回れ右をして無言のまま去ろうとした。だが、そうは問屋がおろさなかった。
あっという間に前に回り込まれてさくらは怯む。「何今更照れてんの」と藤沢に呆れたように促される。
「えーと、いろいろあってなぜか私の彼氏になりまして」
赤くなりつつ真面目に答えるさくらだが、ミサちゃんはまたまたまた、と相手にしない。
「はぁ? 付き合ってないとか言ってたくせに……冗談はやめて」
「あいにく、島田さんは見る目があるんだよ」
藤沢がざまあみろとでも付け加えそうな勢いで口を挟むと、ミサちゃんは目を見張った。
「え、ほんとにほんとなわけ? うわ、めっちゃ羨ましい! 玉の輿じゃん!」
「…………」
テンションの上がるミサちゃんに溜息が出る。さくらは誤解を解いておこうと、遠慮がちに切り出す。
「ええと、前から不思議だったんだけど。なんか青山さん、勘違いしてるよね? 島田さんは、確かに副社長だけど社員四人の小さな会社だから、そんなお給料貰ってないよ? 給与明細見たけど大したこと無かったし」
年下の子に言い聞かせるように言ったさくらだが、ミサちゃんは納得せずに、逆に出来の悪い子を憐れむような顔をした。
「片桐さんってバカ? っていうか情弱ってやつ?」
「はぁ!?」
隣でぶち切れる藤沢を相手にする事無く、ミサちゃんは言う。
「私さあ、実は彼の会社に知り合い居るんだけど、」
「上原さんのこと? あ、そうだ、合コンのこと、めっちゃ怒ってたよあの人――」
この際言っておこうとさくらは話を遮ろうとした。だが、ミサちゃんは黙らない。
「ちょっと黙って聞きなさいよ。上原とかあんな失礼なデブどうでもいいよ」
「デブとか失礼なのはどっちだよ」
さくらがムッとすると、ミサちゃんは「ああはいはいはいすみませんでした」と棒読みで謝って続けた。
「だから、私が言ってんのは、『島田美装』のこと。インテリア資材を取り扱ってて、資本金一億の上場企業で、東南アジアにも工場のある、大きな会社の事!」
「……しまだびそう……?」
「SHIMADAと島田製作所っていう子会社があって、お姉さん二人がそれぞれ任されてるけど、大元の島田美装は長男の島田さんが継ぐはずなのよ。あれだけ大きな会社の御曹司捕まえたんなら玉の輿って表現が妥当でしょ」
ミサちゃんが機関銃のようにしゃべる間、さくらの頭の中ではパチンパチンと何かが勢い良く繋がっていた。
間違っていた名刺のURLに始まり、ミサちゃんの異常なこだわり。
島田の前の勤務先。
就職に悩んださくらに島田がした質問と、渡そうとした茶封筒。
姉たちに任された二つの会社。
なかなか教えて貰えなかった家の事情と、会わせてもらえなかった両親。病室に張られた栄介という名前。
安月給に似合わない広いマンション。
この間の旅行の優待割引まで——
胸の内でもやもやと澱んでいたものが順に連なり、一気に収束し、一つの答えを指した。
助けを求めるように隣を見るが、藤沢も信じられないというように口に手を当てている。
ミサちゃんは、呆然としているさくらと藤沢を見て、ポンと手を打った。
「あ、でも知らされなかったって事はぁ……本気じゃなかったのかもねぇ? だって片桐さん社長夫人って柄じゃないしー全然釣り合い取れないしー」
あからさまに喧嘩を売るミサちゃんを見ても、さくらは戦闘意欲が湧いて来ない。
釣り合いが取れないという言葉があまりに的確過ぎて、反論する気にならなかったのだ。
ミサちゃんはとどめを刺すつもりなのか、さらに追い討ちをかける。
「知り合いによるとあの会社、代々役員は社内結婚するらしいよ。ってことは島田美装に転職とか勧められたんでしょ? いいなあ、上場企業にコネ入社」
さくらが黙っていると、ミサちゃんは勝ち誇ったように笑った。
「えー、もしかして、そんな話ないの? じゃあ、マジで遊びの疑い濃厚だよねー、かわいそー」
遊びという言葉に、昨日の男性の言葉が蘇る。
『その子、会社の子じゃないだろう』
『まあ、遊ぶのは程々にな』
島田は否定しなかったし、その事について聞かれるのを嫌がり、酔っぱらって誤摩化した。重大な隠しごとだけでも決定的なのに、補足までされては疑いようもない。
島田は『さくらのことは本気じゃない』。
藤沢が「遊び!? んなわけねーだろ! あんた昔してやられた事、根に持って嫌がらせしてるんでしょ。さくら、こいつでたらめ言ってるんだから、気にしなくていいから!」と周りも気にせずにがなり立てて、ミサちゃんを追い払ったが、彼女も疑いを晴らす決定的な根拠は持っていないようだった。




