71 手料理と悪酔い
展示会は盛況のうちに終わり、片付けを済ませたさくらと島田は二人連れ添って会場を後にした。臨時バスが出ているらしく、バス停に向かう人の波に巻き込まれながら、さくらは隣の島田を見上げた。
「本当にうちで手料理で良いんですか?」
念を押すさくらに島田は頷く。
「手料理がいい――って、さくらが面倒なら外食で全然構わないけど」
さくらは眉尻を下げる。外で美味しいものを食べたかったが、島田を喜ばせるような店をさくらは知らなかった。雑誌でお勧めされているような店より、美味しい店を彼は自分の足で探して来るのだから。
それに週末の夜に、予約なしで店に入れるとも思えない。
「……あんまり大したもの作れませんよ」
「家庭料理って、外ではどうしても食べれないんだって」
「わかりました。じゃあ頑張ります」
時計を見ると十九時だった。何時に終わるか予想がつかなかったので、特別な準備はいらないと言われたのだ。さくらは冷凍庫と冷蔵庫の中身を思い出しながら献立を考えた。時間がかからず、簡単で、失敗しないもの。
(葱と豆腐と豚ミンチがあったから……麻婆豆腐だな)
メインを決めるが、ふと片栗粉が切れていた事に気が付く。
「スーパー寄って良いですか? 足りないものがあって」
頷く島田と地下鉄の駅に向かう。と、隣で島田が急に止まった。
「どうしたんですか?」
島田の視線を追うと、一組のカップルがいた。中年の男性と、若い女性だ。男は五十くらいだろうか。中肉中背で一目見ただけで高価だとわかる上品なスーツを着ている。女性は外見は若々しいが、しっかり落ち着いた雰囲気があり、島田と同じくらいの年齢かもしれないとさくらは予想した。
男性の方も島田に気づいたらしく、ぎょっとした顔をした後、ごまかし笑いを浮かべて近づいて来た。
へらへらと笑う男にも島田は硬い表情を崩さないまま言った。
「おばさんに言いますよ?」
「無粋なことを言うな。これも仕事だよ」
「こんなところでですか」
島田は後ろを振り向く。その先には港と、展示会の終わった会場。それから隣にあったシティホテルだ。日が暮れた後に利用できそうなのは、ホテルの一択に思えた。
(おばさんに言う? って、まさか)
さくらは島田と男の関係が即座に予想できたが、同時に男と女の関係にも思い当たってしまい、結局何も口にできずに黙り込んだ。
「お前だって人のことを言えないだろう? その子、会社の子じゃないだろう」
男はさくらをちらりと見ていやらしい笑いを浮かべている。
「彼女はそういうんじゃない。あなたと一緒にしないで下さい」
島田は目を吊り上げて言う。その様子に男はなにか合点したようだった。
「なるほどねえ。そういうことなら、俺は敵に回さない方がいいと思うけどねぇ。あの人の説得が余計に難しくなるだろう?」
「……」
苦しげに顔を歪めた島田の肩を、男はすれ違い様にポンと叩く。そして「まあ、遊ぶのは程々にな」と意味ありげに笑って去って行く。
「あの――」
「行こう」
島田はさくらの問いをあからさまに遮った。人に知られたくない事情だと察して、さくらはすぐに問いを引っ込める。
だが押さえ付けても燻ったままの問いは、ふとしたひょうしに飛び出しそうだった。島田もそれに気づいているのか、その日、二人の間にはどこか気まずさが漂ったままだった。
「あれ?」
夕食を食べ終わった頃、さくらはふと島田の目元が妙に赤くなっているのに気づいた。
珍しい――と床を見ると、空のビール缶が四本。思わずぎょっと目を見開く。
スーパーで買った六本入りのビールはもうあと一本になっていた。さくらは一杯飲んだだけ。つまりあとは島田が全部飲んでいる。
「島田さん、飲み過ぎじゃないですか?」
「いいの。今日は暑かったし、明日は久しぶりの休みだし。あー、それにしてもさくらの手料理、美味かったな。あとはデザートにさくらを頂きます」
さくらはがくりと項垂れる。どうも彼は酒を飲むと発言が怪しくなる。お酒を買うんじゃなかったと後悔した。
「酔ってますね?」
「酔ってないよ。もし酔ってても大丈夫」
何が大丈夫なのだろうかとため息をつくと、一人で歩けると言い張る島田をなだめながらベッドに連れて行く。辿り着くなり彼はさくらの上にのしかかった。
「お酒臭いっすよ!」
「そんなつれないこと言わない。ほらほら、さくらちゃんの可愛い声が聞きたいなー」
「もしかしてかなり悪酔いしてますね!? お願いですからエロオヤジ化しないで下さいー! 顔に似合わないです!」
さくらは島田の残念化を阻止しようと真剣に訴える。
「どうせもう二十八だし、童顔だし」
「似合わないから、拗ねないで下さい! ほら、しっかりして――」
さくらが島田の頭を押しやろうとすると、彼は突然ものすごい力でさくらを抱きすくめた。
「――さくら」
肩に顔を埋めた彼は絞り出すように名を呼ぶ。突如深刻になった声に、さくらはぎょっとして、息を呑む。
「好きだ」
切羽詰まったように告げられて、さくらは突っ張っていた手をそっと島田の背に回した。子供に縋り付かれているような気にさえなったのだ。そのまま何度も好きだと繰り返す島田に、
「私も、好きですよ」
そう返すが、とたん、体をまさぐっていた手が止まる。どうしたのだろうと思ってじっとしていると、やがて寝息が聞こえて来た。驚いて身を起こすと、彼は安心し切った顔ですやすやと眠っている。
(あ――! ここでやめますか! 全然大丈夫じゃない——!)
せっかくの誕生日だというのに。しかもまたしばらくデートが出来ないと言うのに何たる事。半泣きになりながらも、起こすのが可哀相で、さくらは島田の下から這い出した。
腐りながら床に座り込む。足元に転がった最後の一本のビール缶を手に取る。やけ酒でもしようかと思いつくが、室温に放置しっぱなしのビールはぬるくてもう飲めたものではなさそうだ。
「あーあ、どうしたんだろ……」
そう呟いてみるものの、恋人のいつにない荒れっぷりの原因には、心当たりがありすぎる。
きっと夕方の男のせいなのだろう。そしてこんな風に酔っぱらったのはきっとわざと。さくらに問わせないためなのだ。
これまでにもこんな事は何度かあったと思う。気にはなったけど一歩踏み込めなかった。彼が追求を避けている事を肌で感じていたからだ。
だからこそ、聞いてしまったら、何か取り返しのつかないことになりそうな予感もしていた。
『真面目な話してねえんじゃねえの?』
上原の言葉が急に耳に蘇ってさくらはぎょっとする。
付き合い出して半年が過ぎ、出会ってからはもう一年。体を合わせてすべて知った気がしていたのに、実は彼の事を何も知らない気がして来て、さくらは心細くなった。
(聞かないと、駄目なのかな)
島田と付き合っていて、今が最高に楽しいと思う。この時間を失いたくないというのが多分本音だ。真面目な話から逃げているのは島田だけではない、さくらもなのだ。
しかし、めまぐるしく変わる環境が、立ち止まるのを許してくれない。変化に気づかないふりはもう無理なのかもしれない。
タオルケットを島田の背に掛けながら、さくらは深いため息を吐いた。




