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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
五.小暑のころ
71/91

69 カラメルよりも

(SHIMADAの提携先のホテルってこと?)

 そう思い込もうとするが、どうしても納得いかない。社員四人の小さな会社にあの手の高級福利厚生施設があるとは考え難いのだ。就職活動ではその辺を重視していなかったのではっきりとは言えないけれど、大抵大手の企業でしかあんなオプションは期待できないはずだった。

 他の可能性を考え始めるさくらに、運転席の島田が「ちょっと休憩するから」と声をかけた。

 島田越しに窓の外を見ると、『道の駅』という看板がある。高速に乗っても早く着きすぎるからと、帰りは下道を通ってのんびり帰っているところだった。

「島田さん、うちの会社って、提携企業ってあるんですか?」

「ん? あるけど? すぐ上の姉ちゃんの会社。それがどうした?」

 島田は駐車のために真剣な顔で後ろを確認している。耳半分と言った様子だ。

「ああ、いえ、別に」

 盗み見てしまったため、何となく問い難い。

(じゃあ、島田製作所の方の提携なのかな)

 家に帰って調べてみようかななどと考えている間に、木陰になった駐車スペースに車が止まる。島田は眼鏡を外すと、さくらに問う。

「えーと……楽しくなかった?」

 思いも寄らない問いかけにさくらは飛び上がりそうになった。

(やばい、いらない事考えすぎてて感じ悪くなってたかも……!)

 慌てたさくらは疑問を脳内から放り投げて、否定する。

「いいえ。もちろん、楽しかったです!」

「よかった。なんか、さっきから元気ないから」

「まさか。ちょっと疲れただけですよ」

「あー、昨日のがまずかったかな」

 島田が楽しげに笑って、横目で見る。さくらは、ぶわっと沸き上がる羞恥心のせいで、手汗をかいた。抗議を込めて頬を膨らますが、島田は反省の色をまったく見せない。

「そこでしか味わえない事を味わわないと、勿体ないだろ。さくらの柚子味アイスと何にも変わらないと思うけど」

「……まぁ、星空はすごく綺麗でしたけど」

 昨夜、結局押し切られて二人で入ったのは露天風呂。

 満天の星空が水面に映り、浴槽に体を浮かせれば、まるで星の中に浮いているよう。うっとりするようなシチュエーションだった。

(でも星なんか――全然、ゆっくり見れなかったし!)

 つまり、さくらが風呂と聞いて一番に思い出すのは星空ではない。だが、島田は顔を赤くして黙り込むさくらに無邪気に笑いかける。

「一緒に見れるのなら、一緒に見た方がいいだろ? 一人で見るより、ずっと楽しい。俺、めちゃくちゃ楽しかったから」

 力一杯そう告げられると、いつまでもぐじぐじと言えなくなる。あれを楽しかったと認めてしまうのはものすごく恥ずかしいのだが、そうするのがきっと正しい。

(だって、こんな顔されちゃなあ……)

 子供のように顔を輝かせる彼に、さくらがいつしか見とれていると、

「俺は、これから先も、さくらと色んなところに行きたい。綺麗なものや、美味しいものを一緒に味わいたい。全部、共有したいんだ。だから――」

「島田さん?」

 なんだか真剣な光を湛えた島田の目の中に、きょとんとした顔が映っている。

 突然どうしたのだろうと目をしばたたかせると、島田は僅かに苦しげに息を吐いたあと、顔に差した影を振り払うように笑った。

「――いや、また一緒に旅行に行ってくれる?」

「は、はい、よろこんで」

 なぜか別の言葉を言われる気がしていたさくらは少し拍子抜けする。

(あ、私、今何か期待してたかも)

 無意識に右手の指輪を撫でていた自分に気が付き、さくらはぎょっとする。あれだけしっかり否定したくせに、藤沢に言われた事を意識していたのかもしれない。

 恥じるさくらに、島田は少し慌てたように付け加えた。

「ほら、食べ損ねたものもあるし。デザート丸ごと残すとか、さくらからするとあり得ない」

 そういえばと残したプリンを思い出して、

「今度は間食しすぎないように気を付けます」

 宣言すると同時にお腹が空気を読まずに『ぐう』と反応した。

「わ」

 慌てて腹を抑えるが、島田にはしっかり聞こえていたようで、思い切り吹き出される。

「そういや、朝飯食べ損ねたって言ってたもんな」

 ちょっと待ってて、と島田は店内へと歩いて行く。すぐに戻って来た彼の手にはプリンと無糖コーヒー。

「昼メシにはちょっと早いから、おやつ」

「わぁ」

 程よく冷えた硝子の器を頬につけられて、さくらは目を見開く。

 甘いバニラとカラメルの香りに頬が緩みっぱなし。じっくり食べようと思っていたのに、空腹も手伝いあっという間に食べ終わった。

 満足感に横を向くと、コーヒーを飲み終わった島田と目が合い、彼はそのまま顔を近づける。

 そしてカラメルの甘みが残るさくらの唇に、「甘いな」と文句を言った。

「こっちは苦いです」

 さくらが照れ隠しに膨れる。だが島田は「甘いの苦手だけど、この甘さだけは好きかも」とカラメルよりも甘い目をして笑った。


 *


 ふらふらと寄り道をしながらでも、否応なく旅の終わりはやってくる。マンションの前に車を止めた島田は、ハザードランプをつけると大きく伸びをする。

「あーあ、楽しい休暇は終わり。明日からは出張か……」

 島田は明日の早朝から東京お台場で行われる展示会に出かけることになっている。朝一番の飛行機だから、マンションにも寄る余裕がない。

(それだけでも、悪いと思ってるんだけど)

 小さく息を吐くと、言わねばと思っていた事を告げる。

「えっと、さくら」

「なんですか?」

「これから徐々に仕事が増える――いや、増やすから、オフィスを空ける事が多くなる。会える日も減ると思う」

 だからこそ、この旅行は絶対に行きたかったし、多少無理をしても良い宿を取りたかった。次の旅行を餌に、自分を励ますためにも。

「そうですか。でもたくさん稼がないといけませんしね! 目標、年商一億、でしたっけ」

 さくらは張り切った声を出したが、僅かに眉尻が下がっている。無理して気丈に振る舞っているのが分かって、いじらしかった。

 島田が頷くと、さくらは笑顔で彼の手を取った。

「明日、気を付けて頑張って来て下さいね」

「ああ。さくらも」

「任せて下さい。島田さんがいなくても、さぼらず、しっかり頑張りますから」

「……わかってないなぁ」

 もともと彼女に仕事の姿勢について教える事はない。

 心配なのは部下としての彼女ではなく、恋人としての彼女。だが、それは理解されないようだった。

「上原に気を付けて」

「苛められないようにですか?」

 苦笑いしながら、怪訝そうにするさくらにキスをすると、車から降ろす。エントランスをくぐる彼女を見送りながら、今後の事についてじっと考えた。


 さくらと結婚したいという想いは、島田の中でどんどん大きくなっていた。

 彼女は二十二でまだ結婚するには若いけれど、島田は八月には二十八になる。親戚で顔を合わせる度に結婚の話をするような歳だった。特に『社内に彼女がいない』ことが知れている彼には、皆遠慮がない。

 先日の役員会議でもそうだった。叔母は相変わらず目を付けた女性社員を勧めてくるし、叔父も、もうそろそろ遊ぶのは止めて身を固めろなど勝手な事を耳打ちしてくる。

 何気なく社外の人間との結婚を打診してみたが、即、却下された。

『私、好きでもない人と結婚したのよ?』と叔母は憤慨し、

『俺も、恋人と別れさせられた』と叔父も眉を寄せた。

 最後に、

『皆そうしてきたのに、お前だけを特別扱いには出来ない。甘やかされた三代目というレッテルを貼られて困るのは、お前だ。跡継ぎのお前だけは普通より厳しくするくらいで丁度いい』

 と意見をまとめたのは祖父だが、彼は会社を立ち上げ、自由な発想を武器に大きくして来た人だ。伝統は変わる事を知っている。社内の人間との結婚を推奨するのには別の理由があるのだろうし、島田には心当たりがあった。

 島田には二つの方法が選べる。

 一つ目はさくらを転職させる事。明日にでもやろうと思えばやれる事だし、近いうちに話し合ってみようかと思っていた。だが、このところのさくらの言動を見ると、とても言い出せない。

(さくらは、俺ではなくて、仕事を選ぶかもしれない)

 予感が島田の口を固まらせる。そして、それでこそ島田が好きになったさくらなのだ。

 だから島田にはもう一つの方法しか残されていない。さくらがこのままSHIMADAで仕事を続けながら、島田と一緒になれる方法だ。つまり、反対する人間を納得させるだけの理由を作る。

(俺に出来るのは、SHIMADAを大きくすることだけだ)

 いつ島田美装から切り離されるか分からない小さな会社だが、実績が上がれば、島田の意見も通り易くなるだろう。そして、さくらの貢献度が目に見えれば、彼女から仕事を取り上げなくていいかもしれない。その可能性に賭けたかった。


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