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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
五.小暑のころ
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68 家族風呂前紛争

 さくらは用意された食事の前でしばし固まっていた。

(いち、に、さん……おかず十品もある! 前菜、お造りに、炙りもの、あれ豊後牛ってやつだよね! ご飯があり得ないほどつやつや!)

 豪勢なのは食事だけではない。

 さくらは簡単の溜息と共にぐるりと周りを見回した。

 畳が敷き詰められた部屋が二つ。一つは居間、一つは寝室らしい。古い家具や建具には味があり、落とした照明が何ともいえない上質な雰囲気を醸し出している。

 何より特徴的なのは、玄関・・だ。つまり、ここは離れなのだった。

 確かについていると藤沢は言っていたが、泊るのはてっきり本館だと思っていて、まさかその離れだとは思ってもいなかった。


 野菜の炙り方やたれの使い方などの簡単な説明をすると、「ごゆっくり」とにこやかに笑って仲居さんは部屋を出て行く。石畳を叩く下駄の音が遠ざかると、部屋には涼やかな水音だけが響いていた。

(やっぱりあの金額じゃあ、これ、あり得ないと思うんだけど……あとで明細見せてもらおう)

 さくらが島田の懐事情を心配しだすと、

「今日、めちゃくちゃ食べてたけど、……まだ食べられる?」

 島田はさくらの腹事情を心配している。

「食べます、ええ、意地でも」

 出て来たものを残してもお金は返って来ない。となると、しっかり味わわなければ勿体ない。しかし、結局島田に「無理したら駄目」と止められてすべては食べきれず、昼間の間食を深く後悔することになった。


(うう、ちょっとでも押したら出そう)

 そんな事を思いながら胃をさするさくらの前では、仲居さんが食事の後片付けをしている。その奥、薄暗い寝室に敷かれた二組の布団が妙に生々しく映って、さくらは気まずさから顔を伏せる。

 仲居さんが下がり、再び部屋に沈黙が落ちる。今日はなぜか島田があまり話さない事に気が付いた。

 浴衣姿の島田は、布団の上に一人移動して胡座をかいた。そして午後八時を差している置き時計を見ると、思い出したように問う。

「そういえばお母さんから電話は?」

 さくらは苦笑いする。

「さっきこっちからしました」

 以前島田に貰ったアドバイス通りに、かかって来て欲しくない場合は予めかけておく。さきほど電話しておいたのだ。

「大丈夫そう?」

「藤沢に替われってうるさく言ってましたけど、電池切れってことにしました。あとでメール送っておきます」

 そう言って電源を切っている電話を見せる。

「逞しくなったよなぁ」

 感慨深そうな島田に、さくらは微笑んだ。

「島田さんのおかげですよ」

 島田もくすりと笑う。そこで会話が途切れ、沈黙が落ちた。

 しばし見つめ合った後、島田は切り出した。

「おいで」

 熱の籠った目で見つめられ、心臓が跳ねる。

(うあああああ)

 実のところ、まだ今日で四回目である。慣れろというのが無理だと思った。

 座椅子にしがみついて固まっていると、島田がにやりと笑った。

「そっちでする? それも楽しそう」

「――行きますし!」

 噴火にも似た勢いで座椅子から飛び上がる。ぎこちない足取りで布団に辿り着いたさくらは、島田の隣に座り込む。

 部屋の雰囲気に合わせた茶色のシーツはしじら織りのようだ。それは夏の夜に相応しくひんやりとしていたが、さくらの火照った足にすぐに温められる。

「浴衣って、なんでこんなにそそるんだろ」

 島田はさくらを腕の中に囲うと啄むようなキスを落とす。そして浴衣の襟を少しだけ開けて、首筋に口付けた。

「汗の味がする」

 さくらは思わずぎゃっと叫ぶ。

「え、え――ちょっと待って下さい! ってか、さっきから言う事が悉くえろいですから!」

(そういえば、さっき大浴場行った後、暑い中歩いて帰って来たから――)

 本館の方に大きな露天風呂があったので、二人とも食事前ににすでに堪能している。だがこの暑い時期には早過ぎた。

 恥ずかしくて泣きそうになりながら、さくらは島田を止める。そして離れに付いている未使用の“豪華オプション”を思い出して縋るように言った。

「お、お風呂! お風呂もう一回入っていいですか!? ほら、入らないと勿体ないし!」

 叫んだ直後、島田が妙に嬉しそうに微笑んで、さくらは嫌な予感がした。

「うん。せっかくだから、一緒に入ろう」

 待ってましたとでも言いそうな笑顔に、さくらは嵌められたと思った。

「どうしてそういうことになるんです!? いやです」

「だってさくらって確か限定品・・・に弱いよね。ここ、予約取るの大変なんだけどなぁ」

「うう、私の貧乏性を利用するつもりですね。でも、だめです」

「あーあ、楽しみにしてたのに」

「次は泣き落としですか!? そうはいきませんから!」

「じゃあ、いい」

 と拗ねたように言うと島田はさくらを布団に押し倒す。

「ちょっと、お風呂は!?」

「入んなくてもいいよ別にもう」

 どうやら風呂に一緒に入るか、このまま続けるかの二択を迫るつもりのようだ。

「島田さん、卑怯ですよー!?」

「この際、卑怯でもエロでも何でもいいよ」

 どうやっても逃すつもりはないらしい。チャンスの神様を捕まえに行く島田は、こういうところでも必要以上に熱心だった。



 藤沢たちに心配された湯あたりはなんとか回避したものの、翌朝はしっかり寝坊した。チェックアウトの時間に追い立てられるように出発の準備を終えたせいで、豪勢な朝食は半分しか食べられなかった。


「ああ、勿体ない……お豆腐食べ損ねた」

 フロントでぶつぶつと嘆くさくらに、

「また来ればいいって」

 と島田が苦笑いで慰めを言うと、フロント係がくすくすと笑って提案した。

「秋に来られると、朝霧が綺麗ですよ。その頃にまたおいで下さいませ。秋の幸をご用意してお待ちしております」


 会計後、記念写真でもどうですかと勧められて島田が荷物を床に置く。メッセンジャーバッグに無造作に突っ込まれた明細書がちらりと見えて、さくらはそう言えばと思い出して思わず凝視した。

 金額を確認すると島田が言った金額と一緒だった。ほっとしつつも僅かな違和感にさくらはもう一度注視した。

(あれ?)

「さくら、撮るって。顔あげて」

 言われて作った笑顔は、頭を占領した疑問のせいで随分ぎこちないものになってしまった。

 目に焼き付いた明細書。そこには『提携企業優待』という文字があったのだ。


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