67 これからが本番
湯布院に到着すると、三組は再度集まった。アリバイ作りの写真のためだ。
さくらは藤沢と広瀬と三人並んで大きな池の前で笑顔を作る。金鱗湖という池は一部温泉が湧いているらしく、冬は水温の差が霧と幻想的な風景を作るらしい。言われてみれば水面に湯気の上がっている箇所があり、冬に来てみたいなあとさくらは思う。
名所の前での写真の撮影者は田中。僅かに引きつった笑顔の写真を確認すると、すぐに母にメールで送ろうとするさくらだったが、寸でで待ったがかかる。
「だーかーらー、今送ったらさすがにわざとらしいって。帰って聞かれたら見せるくらいでちょうどいいの」
藤沢が呆れてため息をつき、「しばらくお母さんの事忘れて楽しみなよー」と広瀬は苦笑いをする。
そのまま揃って食べることになった昼食は、軽めのものになった。というのも、この後は街を散策する予定で、適度にお腹を空かせていた方が食べ歩きには都合がいいからだ。
地元産の蕎麦粉を使ったという蕎麦をすする。小麦粉などのつなぎが混ざっていないらしく、ぼそぼそとしていて、すぐに切れる。だがその分甘さと香りが強いような気がした。とにかく家でゆでる物とは別物レベルの味だった。とろりとした蕎麦湯までをじっくり堪能していたところ、突如、
「えー、私たち、実は結婚することになりました!」
と、耳に広瀬の爆弾発言が飛び込み、
「え!? マジで」
さくらは咽せて危うく鼻に蕎麦の一片が入りかける。辛うじて侵入を拒むと、まさか――とちらりと広瀬のお腹を見て言葉を飲み込んだ。
「別にデキてないよ!」
不満そうな広瀬に、さくらは去年の年末彼女が言っていた言葉を思い出す。
「じゃあ、斉藤君、転勤?」
「そうなんだよー。って言っても、O市だけどね」
広瀬は笑い、さくらは納得した。O市は県の南端。県北部にある広瀬の家からはおそらく二時間はかかる。
「遠いね。だからか」
「うん。二人の職場の中間辺りに家を借りるんだよ」
「まぁ、前から話は出てたしね、付き合いも長いし」
はにかむ広瀬と斉藤君に藤沢が少し羨ましそうだ。
さくらが「藤沢のところは?」と聞くと、
「うちは、あと二年は私が学生だからなー。下手したら五年か……うーん」
「まぁ、卒業したら――別に卒業しなくても良いけどさ、その気になったらすぐ貰ってやるから」
へらへらと笑う田中から飛び出した言葉に思わずさくらは目を見張る。そのまま藤沢に目をやると、彼女も目を丸くして珍しく真っ赤になっている。
「…………っな、なに、こんなところで……!」
そう言って絶句する藤沢に、思わず口元が緩ませながら広瀬を見ると、彼女は「ヒューヒュー」といやに古典的な冷やかしを始め、それが周囲の笑いを誘った。
サバサバしている藤沢が、周りのニヤニヤ笑いに耐えられる訳も無く、矛先は即座にさくらの方に向く。
「で、でも――――さ、さささくらのところの方がまだ現実的でしょーが!」
だが、話題の中心になるのは遠慮したい。そうはさせるかとさくらは冷静に否定する。
「って、振るのは止めてよ。まだ就職して四ヶ月だよ。私は仕事に燃えてるんですー。覚えなきゃいけない事たくさんあるのに、そんなんで結婚とか言ってたら『おまえ、腰掛けかよ』って先輩に殺されるって。それに――付き合い出して一年も経ってないのに。ねぇ島田さん」
同意を求めて島田を振り返ると、
「……まぁね」
彼は苦笑いをして頷いた。それを見て、藤沢はむうと口を尖らせる。
(あれ?)
僅かに鈍い反応にさくらはきょとんとする。そのとき、食後のコーヒーが運ばれて来て、話は中断した。
「ねえ、アイス食べていい?」
「え、さくらまた食べる気!? さっきプリンとロールケーキ食べたばっかり――っていうか、今日はもうソフトクリーム食べてたじゃん!」
「別腹だって。ここでしか食べられないってのに弱いんだって。あの“柚子味”ってのがどうしても気になるんだよ。あー、ほら、あんみつもある! あれも食べたい。私、いっそここに住みたい」
「お腹壊すぞさすがに――あ、ジャムだー、美味しそう。私、研究室にお土産買って行くから、ちょっと待って」
「あ、私も買う!」
軽食をつまんだり土産物を選んだりしながら古民家が立ち並ぶ街道を歩く。そうしながらの会話は弾み、学生に戻ったような心地がした。
最初のカフェに付き合ってくれた男三人は、二軒目の間食であっさりギブアップした。島田が甘味には付き合えないのがわかっていたが、二人の彼もそう事情は変わらないらしい。だが、彼女に甘いのも変わらないらしく、女子のスイーツ食べ歩きの間、土産物店などで適当に暇をつぶしてくれていた。
一時間ほどの散策を終え、さくらたちは別々の宿へと向かうことになった。
藤沢はさくらたちの宿の名を聞くなり、ひたすら羨ましがった。宿は各自予約したのだが、島田が取ったのは露天風呂付きの離れがある高給宿らしかったのだ。
友人同士の旅行でさえ行った事が無く、情報に暗いさくらは全部彼に任せていたため言われるまで頓着しなかった。そして宿泊料も言われるままに用意したが、藤沢情報によるとさくらの用意した金額の二倍はするとのこと。冷や汗をかいて財布の中身を確認する。
妙にニヤニヤした二人に『長湯しすぎて湯中りしないようにねー』と注意されて別れた後、さくらは島田に真剣な顔で向き合った。
「島田さん。あの、宿泊料の事なんですけど、本当は私に言ったのの倍額なんですよね? 足りない分、後で払うんで、待っててもらえますか?」
「いや、大丈夫だよ、さくらに言った通りの額だから」
「ほんとですか? とか言って、実は島田さんが多く払ってるとかないですか」
最初さくらに払わなくていいと言っていた島田だ。あり得ない事はないと疑惑の目を向けると、島田はあっさり頷いた。
「実は、そう」
「え――駄目ですよ、そんなの。交通費だけでも結構助かってるのに」
「相変わらずだなぁ……。でも多く払ってるって言っても千円だけ。きりが悪いから払ってるだけだよ。そのくらいなら別におごらせてくれてもいいだろ?」
俺の方が給料高いんだし、と島田は不満そうだ。
「……千円? そんなもんですか? 本当に?」
「本当だって。優待割引使ったから安くなってるだけ」
「そうなんですかー。よ、よかった。じゃあ、その分はお願いします。ありがとうございますー」
情報誌のクーポン券のようなものを思い浮かべたさくらは、ひとまずほっとする。
駅前の駐車場に停めていた車に乗り込むと、島田は東に車を走らせた。傾きかけた太陽に染まる由布岳を窓から見上げていると、やがて車は坂道を登りはじめ、道路脇にあった駐車場に止まった。
「宿はここですか?」
目の前にある小さな小屋のような物を見てさくらは首を傾げる。どう見ても観光案内所か土産物屋なのだが、裏に建物があるのだろうか。
「いや、まだチェックインまで時間があったから。ここから街を見下ろせる」
助手席のドアを開けて手を差し伸べられる。誘われるままに降りたさくらのワンピースの裾を、足元を走る爽やかな風が大きく膨らませる。
風に押されるように手すりに近づくと、さくらは眼下に広がる景色に目を見開いた。
一面に広がるのはのどかな田園風景だった。田の早苗の緑の中にぽつぽつと民家が建ち並ぶ。山に目をやると、こんもりとしたビリジアンの草原の中にはまだら模様の牛まで見えた。緑は夕日に照らされて黄みを帯び、風景は暖かみを増していた。
ふ、と何気なく西を見ると視界全面が雄大な由布岳に占領され、ただただ圧倒される。
「…………わぁ!」
「さっきの湖はあれかな」
置いてある案内板を覗き込みながら島田が指差す。夕日に金色に染まった湖が見つかり、さくらは思わずため息をつく。
「綺麗ですねぇ。皆で来ればよかったかも」
「まあ、こういう場所は、二人で来た方がいいと思うけど」
苦笑いする島田の視線の先では他のカップルが寄り添って二人の世界を作っていた。そういえばグループデートはアリバイ作りだったと思い出したさくらは謝る。
「す、すみません。さっきは久々で楽しくってはしゃぎすぎました……ええと、ひょっとして怒ってますか」
「怒るわけない。俺も田中たちと話せて楽しかったし。それに――」
彼はにっといたずらっぽく笑うと「旅はこれからが本番だから」と耳元で囁く。
熱い息が耳たぶに触れたとたん、さくらの頬は夕日と同じ色に染まっていた。




