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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
五.小暑のころ
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66 いざ卒業旅行へ

 先週まで上空に巣食っていた梅雨前線は、太平洋高気圧に押し上げられて北へと去ってしまった。空は濃い青に染まり、雲一つない。まるで今日のこの日に合わせるかのような梅雨明けだ。


「あっつい、なんでこんなにあっついの」

「そりゃあ、フジサワサン、夏だから」

「でも湯布院って確か避暑地じゃないの。っていうか、こんな暑かったら温泉なんか入る気にならないー、くそー」

「ちゃんと避暑地だよー、っていうかまだ着いてないから。この辺盆地だからねえ、町と違って海風もないし、熱がこもるんだきっと。でも湯布院はもうちょっと涼しいんじゃない? あ、さくら! ソフトクリーム溶けてるよ!」

「あ、やばい! 勿体ない!」


 途中で立ち寄ったサービスエリアは旅行客で賑わっている。七月の太陽の光に熱せられたベンチに腰掛けて空を見上げると、さくらは破顔した。

 この何ともいえない“ゆるさ”が心底懐かしかった。

 さくらの両隣に腰掛ける藤沢と広瀬も、愚痴をこぼしながらも笑顔だ。三人は久々に集まり、卒業旅行を四ヶ月延期で決行中なのだった。

 そして喫煙所には男三人。ただ一人の喫煙者、田中を囲んでいる。島田はもちろん、久々に見る広瀬のロリコン彼氏、斉藤さいとう君も一緒だ。彼だけ年が下なので、微妙に遠慮がちなのが、その猫背姿から伝わってくる。


 きっかけは何気なく口にした『遠出したいですね』。そこから島田と旅を計画しはじめたのだが、すぐに頓挫した。

 というのも、さくらの母が相変わらずだからだ。それどころか、なぜか島田と寄りを戻した事を知っていて、そのせいで、以前懸念した通りに妨害がより念入りになってしまった。

 門限は変わらず、定期電話も止めないし、突撃もしてくる。週末にはマンションに立ち寄り、夜遅く帰って行く。どれだけ暇なのだと言いたかった。

 彼女はおそらく彼とさくらの関係を薄々察知しているはずだが、さくらとしても堂々とお泊まりなどしてわざわざ火に油を注ぐのはエネルギーの無駄遣いなので嫌だった。

 だから週末母が帰った後に島田を家に呼び出したり、平日に見張りがいないのを見計らって彼の家に行ったりと、芸能人でもないのにパパラッチを撒くくらいの厳戒態勢で、大人のお付き合いを続けていたのだった。

 そんな中で旅行など無理だと断念しかけた。だが、彼は諦めずに以前さくらが藤沢たちと立てたプラン――例の女同士の旅行をアリバイ作りに使うというものだ――を持ち出して来たのだ。話は既に彼らに通してあって、あとはさくらが頷くのを待つだけという用意周到ぶり。断る理由など何もなかった。


「そろそろ行こうか。あんまりエンジン切っておくと車が煮える」

 田中が煙草を灰皿に押し込むのと同時に、島田がさくらたちに声をかける。ソフトクリームを食べ終えたさくらたちもそれぞれの車に分乗する。現地では基本的に別行動なので、省エネではないが各自用意したのだ。

 久々の島田の愛車は相変わらず可愛らしく、良く手入れされている。だが乗り込むとダッシュボードからものすごい熱気が漂って来た。

「あっつー……今からこれじゃ、八月が怖い」

 呻く島田は、今日はTシャツにジーンズという恰好。先ほどまで上からシャツを羽織っていたが、あまりの熱気に脱いでしまっていた。

 短い袖から覗く腕から思わず目を逸らす。島田は普段スーツを着ているため明るいところではお目にかかれないのだ。肘の辺りだけがっしりしていて骨張っている。筋骨隆々までは行かない、でもしっかり引き締まったさくら好みの綺麗なライン。まじまじと見たいけれど、どうしても暗いところで見た腕を思い出してどぎまぎする。

 さくらは下ろしたての白のワンピースの上で手の中の汗を握る。夏らしい爽やかなリネン素材でボーナスを注ぎ込んだのだ。汗で汚してしまえない。初めての賞与はまだ月給に毛が生えたくらいのもので、この旅行の準備費用でかなり飛んでしまっていた。

 新しい服だけでなく、奮発して下着も新しく買いそろえた。張り切り過ぎかもしれないが、こんな時のための省エネである。節約した気力エネルギーとお金を使うポイントは多分間違っていない。


「ソフトクリーム、美味しかった?」

 島田が車のハンドルを熱そうに握り、窓を開けてこもった熱気を追い出しながら尋ねる。

 濃厚なクリームを思い出しながらさくらは頷く。あの素朴さが好きで、あらゆる場所で食べているが、先ほどの物は気温が手伝ったとしてもレベルが高かった。

「はい。今日は暑いから丁度良かったです。島田さんも食べたら良いのに」

 そう言って無糖のコーヒー缶を睨む。

「甘いの駄目なんだって。特にクリーム系は胸焼けする」

「それ不思議でしょうがないんですよね……」

 外食の際、デザート担当になるさくらには理解できなかった。ケーキバイキングなどへの同行はきっと却下だろう。

「だから島田さんは太らないんでしょうね」

「さくらは食べても太らないけどね。痩せの大食いってやつ」

「上原さんによく文句言われます」

 なんだかこの頃風当たりの強い先輩社員を思い浮かべて、さくらは顔をしかめる。島田との交際が河野によって勝手に発表されたせいだ(その上顔に出過ぎてると文句を言われた)。過去の言動を思い出すに、島田が誑かされたと思っているのかもしれない。それか、もしかしたら——

(うわぁ……島田さんに気があったらマジでどうしよう。ライバルはクマとか……勘弁)

 あれやこれやと嫌な想像をして渋い顔をするさくらの視界に、藤沢たちの車が発車するのが映った。

「――うえはら、ねぇ」

 彼も思うところがあるのか、顔をしかめながら車を出した。温い風が大量に流れ込み、首筋に浮いた汗をさらった。

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