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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
四.芒種のころ
67/91

65 季節外れの装い

「その恰好暑くねえ?」

 目の前の席からかけられた上原の言葉に、びくりとさくらの肩が震える。

 ハイネックの長袖カットソー。しかも黒。梅雨時には似つかわしくない恰好だと自覚はある。

「寒いんです」

 モゴモゴとそう言い訳したが、実のところ蒸れて暑い。

 ハイネックの理由は、首筋についていた小さな痣のせいだ。家に帰って見つけたさくらは恥ずかしさと照れくささで倒れそうになった。髪が短くなっているため妙に目立った。シャツでは微妙に隠れない位置。手持ちの中で隠せるのはこの暑苦しい服だけだった。

 そして、

「マスクまでして、風邪かー? 島田さんもそれで休みなんだろ。流行ってんのかね? 俺に移すなよ」

 上原が怪訝そうに続けるが、さくらは咳払いをしながら俯いて顔が赤らむのを誤摩化す。

 『島田』と聞くと、いくら堪えても口元が緩む。そして会社の名前は『SHIMADA』であり、皆が口にして、耳に入る。だからこそ、さくらは引いてもいない風邪を理由にマスクを着用することにしたのだ。スギ花粉の時期も過ぎ、風邪が大流行という訳でもない時期のマスクはどことなく浮いていたが、緩んだ顔に言及されたら言い訳し辛い。

 そして一番追求されたくない人物は――

「あの、河野さん。これ、ありがとうございました」

 さくらは河野が電話を置いたのを見計らうと、デスクに行って小さな声と共に鍋を差し出した。

 実は朝降りていった時に家に届けようと思ったのだが、チャイムを鳴らす直前になって、その行為が島田宅からの朝帰りを知らせる事に気が付いた。ものすごい気恥ずかしさに襲われて届けられなかった。持ち帰った鍋は結局さくらと一緒に出社して来たのだ。

「あら、急がなくても良かったのに」

「えっと夕食の準備に間に合うようにと思って……」

 と、そこでさくらは気が付いた。

「あ! でも荷物になりますよね! すみません、気が付かなくて!」

 どうも頭が全然働いていない。恥ずかしさで頭が煮える。鍋を引っ込めて言い訳を考えるさくらに河野は笑いかける。

「どうせ今日も寄るんでしょ? その時で良いわよー」

 彼女はニヤニヤ笑いが堪えられないらしい。もう昨夜の事はお見通しなのだろう。

 河野はさらに笑みを深め、上原に聞こえないような小声で言う。

「鍋も皿も見事に何も無かったでしょ。今まで女の子連れて帰って来た事無いの。さくらちゃんが初めて」

「そ、そうですか」

 なんと言っていいものかと目を逸らすと、河野はさくらの顔――特に口元のマスクをじっと見て、「風邪移されちゃった? なら一緒に休んじゃっても良かったのに」とからかう。

(あああ、そう取られるのかー!)

 どこかを繕えば、別の場所が綻ぶらしい。思い当たったさくらはぼっと赤くなった。

 からかいの眼差しはその後も続く。少しのミスでも上がる河野の忍び笑いに、つい色々と穿ってしまうさくらは

(や、休めば良かった)

 と、ひたすらディスプレイの陰に隠れて小さくなって一日を過ごした。 



 その日、さくらは定時で上がっていそいそとオフィスを出た。河野が後ろ姿をにやにやと目で追っていると、上原がぐいと背もたれに寄りかかって伸びをしたあと、はーと大きくため息をつく。

「なんつうか、ものすごくわかりやすいっすね。周りに蝶でも飛んでそうな感じっす」

「ごめんねぇ」

 河野は二人の代わりに謝る。

 まるで弟が童貞を脱したのを偶然知らされたかのようで気まずいと言えば気まずいのだが、さくらを見ているとどうも弟の様子が思い浮かんで笑いがとまらない。

 さすがにあの歳になって初めてというのは無いとは思うが、(あの間の悪さを考えると、あり得ない事でもないと思っていたりもする)、同じくらい感慨深かったであろうと簡単に想像できてしまうのだ。それを思うと赤飯でも炊いてやろうかという気分にもなった。赤飯を目にした時の反応が想像するだけで美味しい。——弟のもだが、さくらも。

「さくらちゃん、びっくりするくらい可愛くなっちゃったもんねぇ」

「…………そうっすね。女子力はやっと三十くらいにはなったんじゃないっすか」

 吐く毒がいつもより鈍っている上原を見て、河野は眉を上げたが、あえて触れずに断った。

「あれだけわかりやすかったら、いっそ公にしちゃった方が、いいわよね?」

「まあ、そうっすね。……っていうか、もう随分前から知ってましたけどー」

 どっちも異常にわかりやすいんすよ。と椅子を軋ませて上原はくるりと河野に背を向ける。

 大きな背中がいつの間にか引き締まっている。初めて気が付いて目を見張った。

(前は椅子が壊れそうだと心配していたんだけど)

 別の心配をしなければならないかも――微かな不安がおめでたい雰囲気に水を差す。首を振って振り払うが、それどころでない大きな不安が別のところから沸き上がって来た。

 十年前、彼女の前に立ちふさがった壁。反抗を繰り返しても結局打ち破る事は出来ず、乗り越える事を諦め、彼女は身近な幸せを選んだのだ。その頑な壁は未だに健在だ。

(でも、あの手強いお母さん説得できれば、あとはそう難しくないはずよねぇ。コネ使って転職させればいいだけの話だし。まぁ、勿体ないと言えば勿体ないけど……)

 弟が行いそうな壁の回避方法をいくつか思いついた河野は、ほっと安堵の息をつく。

「新しいデザイナー、募集しといた方がいいかしら」

 そしてぼそりと呟くと、残りの作業に取りかかった。


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