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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
四.芒種のころ
64/91

63 鍋と鍵と指輪と

 さくらが河野の家に着いたのは午後九時を少し回ったころの事だった。

「夜分遅くすみません」

 ドアホンを鳴らしたあと、河野はすぐに玄関に現れた。恐縮しつつ頭を下げたさくらの目の前に差し出されたのは、小さな鍋だった。

「これお裾分けなんだけど、三階に届けて欲しいの」

 ニコニコと言われて思わず「どうして私が?」と口に出かかる。

 だが、同時に手渡された鍵を見てすぐに察した。

(え? 鍵を持っているという事は――)

「風邪引いちゃって、高熱出してるみたいだから、少しお世話してもらえると助かるわ。私が行ってもいいんだけど、奈々を一人にさせられないから。――お願いねぇ」

 河野はあっさりと扉の向こうに姿を消す。

 さくらはしばし呆然としたあと、後ろを振り向いて階段を見つけた。そろそろと昇る。二階は空き家のようで、表札が出ていない。階段を一段上がる度に心拍数が上がるのが分かった。さくらの家も三階にあるし、毎日階段を昇っているのだからこの息切れは運動不足とは違う原因から起こっているのは間違いなかった。

 最後の段を昇り切ったところで目に入ったのは、河野の家と同じ扉と、『島田』という表札。よく見ると付箋紙のような紙に手書きされたものが適当に貼付けられているだけだった。

 チャイムを押す。だがいくら待っても応答がない。

(寝てるのかな)

 河野が言った『高熱』というフレーズ、そして手に握りしめたままの鍋と鍵がさくらに向かって「行け」と主張する。

 さくらは大きく息を吐いて気持ちを落ち着かせると、鍵穴に鍵を差し込んだ。



「お、おじゃまします……」

 小声で言いながらさくらはひそやかに入室した。返事は無く、やはり寝ているのだろうと思えた。

 まるで空き巣のように忍び足で廊下を進みつつ、観察する。

(広いなあ……)

 河野の家と間取りがまるで同じなのに、受ける印象はかなり違った。

 まず家具がなくがらんとしている。生活感がない。まるで使っていないのがあからさまな部屋があり、もったいなさに溜息が出そうになる。

 突き当たったところにガラスのはめ込まれた扉があり、そこから僅かに光が漏れている。

 河野の家ではここがリビングだった。途中の部屋はほぼ使われていないようだったから、きっとリビングとその隣の洋室を主に使っているのだろうと思った。

 そろりと扉を開ける。やはり物がなく、テレビと革張りのソファだけが置いてある。しんと静まったリビングには人気ひとけもない。

(隣かな)

 おそらく寝室だろうと思うと、口から心臓が飛び出そうだった。

(あぁ、これってもしかしなくてもストーカー行為?)

 河野()の許可を得ているものの、元カレの部屋に勝手に忍び込んでいる自分を思って余計に動悸が酷くなる。

 キッチンには使われた形跡がある。ワンカップの日本酒が空けられていて、こんなのを飲むんだと意外に思いながら鍋を置くと、洋室の僅かに開いた扉から覗き込む。

 まず微かな酒の匂いがした。落ち着いた濃色のカーテンの隙間から差し込んだ外灯が白く細い線を描くだけの薄暗い部屋。ベッドの上に人影が見つかり、どくんと心臓が波打った。

「しまだ、さん?」

 呼びかけると、ベッドの上の塊がのろのろと寝返りを打った。

「んー……?」

 聞き覚えのある声に勇気を得て、さくらは名乗った。

「あの、片桐です。ええと、河野さんに頼まれて……夜食持ってきました」

「ああ、そう。……あとで食べるから置いておいて」

 ぼそぼそと億劫そうな声が響いたあと、ぴたりと会話が途絶える。広がった冷たい沈黙に、さくらは直前まで膨らみ続けていた気持ちが萎むのが分かった。

(ああ、やっぱりいまさらだったかも)

 何を都合のいい夢を見ていたのだろう。

 さくらは右手の薬指を撫でる。奇跡のように戻って来た“これ”の力を借りてやり直そうと思っていた。だけど、願掛けは願掛けでしかなかった。返って来たのは好意でも敵意でもない、無関心。島田にとってさくらはもう過去の事で、なんら心を揺さぶる事はないのだ。

「キッチンの方に置いてますので、あとで温めて食べて下さいね」

 告白し直そうという決意も瞬く間に砕け、さくらは涙ぐみながら部屋を出ようとした。

 だが直後、

「は? ――え!? 片桐って、さくら!? なんで――」

 と言う声と共にどすんと大きな音がした。振り返ると島田がベッドから転がり落ちて呻いている。

「ってぇ」

「だ、大丈夫ですか!?」

 さくらは慌てて駆け寄ると彼を抱き起こす。掴んだ腕が酷く熱く、ぎょっとしてベッドに寄りかからせる。だが、すぐに彼の腕の中に囚われて目を丸くした。

「俺、寝惚けてる? ――ねえちゃんじゃ、ないよな?」

 熱っぽい瞳で至近距離で覗き込まれ、恐る恐るのように頬を撫でられて、さくらはぼうっとなる。思わず別れる前に戻ったようだと勘違いしそうになる。

「あ、あ、あの、島田さん、ええと」

 さくらが戸惑った声をあげると、島田は「ごめん!」と慌てたようにさくらを解放した。

「ど、どうしてここに? そうだ、それから、この数日どこに泊まってた?」

 真剣な顔で尋ねられ、

「え? あの」

 どうしてその事を知っているのだろうと首を傾げる。そんなさくらを島田はさらに驚かせた。

「家出したって、お母さんがここまで探しに来た」

「ええええ、うそ――!」

 一番迷惑をかけたくなかった人に、最悪な形で迷惑をかけていた事を知ってさくらは卒倒しそうになった。

(っていうか、それじゃあ何のために別れることになったかわからないし!)

「申し訳ありませんでした!」

 思わず床に頭を着けて土下座するさくらを、島田は苦笑いをしながら「大丈夫だって」と止める。

「実はお母さんがさっきまでここに居たんだ。俺が熱出して外で倒れたら、家まで送ってくれて、卵酒作ってもらった」

「……はぁ……? あの母がですか?」

 天変地異ではないかとさくらは耳を疑った。

「アルコールがあんまり飛んでなかったみたいで酔っちゃったけど、寒気が治まって、随分助かったよ。――で、ええと、なんでここにいるわけ?」

 改めて質問を繰り返され、さくらは簡単に答えた。

「あの、ここ数日河野さんのお家でお世話になっていて、それで、あの、お使いを頼まれたんです……」

 とたん島田は呻くように呟く。

「…………あいつ、何もかも裏で操作して俺で遊んでたな……」

 腐る島田に対して、さくらは一応フォローを入れる。

「いえ、心配されてましたけど」

 だが島田ははぁあと大きなため息をつくばかり。

「なんだかんだで、随分気に入られているんだな。あぁ……つまり、だからか」

 何か一人で会得したあと、くしゃくしゃと髪を掻き回した島田は、ふとさくらの手に視線を落として目を見開いた。

 そこではさくらが返し、島田が側溝に捨てたはずの指輪が、外灯の光を受けてきらきらと輝いていた。

「それ――」

「あ、あの、あの時からずっと探してて。そしたら母が拾ってくれてたみたいで……」

 未練がましいと思われるだろうかとさくらは俯いた。

「でも、どうして……そこにつけてる?」

 答えるまでもない質問だとさくらは思った。

 さくらはあの夜をやり直したかった。島田の手を取りたかったのだ。

 島田は信じられないとでも言いそうな顔でさくらを見つめている。もうもたもたしていられないと大きく息を吸う。

「…………私、島田さんが、好きです。だからこれ、」

 持っていたら駄目ですか――と最後まで口にする前に、唇が塞がれた。島田はさくらの手に指を絡めて、そのままベッドに押しつける。

「お母さんには悪いけど――限界かも」

 確認するように目を覗き込まれ、母の言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡った。

 だが恐怖と罪悪感を生唾と共に飲み込んだあと、さくらは彼の背中にそっと手を回していた。


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