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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
四.芒種のころ
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62 止んだ雨と星空

 夕食をご馳走になったあと、さくらは礼を言って河野家を出た。別れ際奈々に泣きつかれ、後ろ髪を引かれつつ家路に着くと、マンションのエントランスに見慣れた人影を見つけてどきりとする。

 母は雨の中、傘をさしてマンションのさくらの部屋をぼうっと見上げていた。

 もしかしたらさくらが居ない間、毎日こうして待っていたのかもしれない。そう思うと罪悪感で胸がキリキリと痛んだ。

 だが、もうここで逃げては全てが水の泡。気合いを入れて足を踏みしめるようにして彼女に近づいた。

「どこ行っとったんね?」

 張り手の一発くらいは覚悟していたさくらに、意外にも落ち着いた声がかかった。

「知り合いの家」

 拍子抜けしながらも半ば言い捨てるようにしてさくらはエントランスをくぐった。

 着いて来ようとする母にさくらは向き合うと、「家には入れんけん、もう帰って」と息巻いた。

「この間言ったやろ。もう、お母さんの言いなりにはならんけんね。また監視みたいなことしたら、いつでもこうやって同じ事するけん。もう、私も大人なんよ。自分の事くらい自分で決める。いつまでも子供みたいに構わんで」

 一気にそう言って、ぎり、と睨みつけるが、

「そうね」

 やはり静かな声で母は言う。自分だけがむきになっているようで、まるであしらわれているみたいだと頭に血が上った。

(なんで? これじゃあペースが崩れる)

 作戦の一つだろうか。ならば相手にしないのが一番かもしれない。さくらは母に背を向けると自動ドアの解錠をしようとした。だが、鍵を差し込む直前、背中に声がかかる。

「少しだけでいいけん、お母さんの話を聞き」

「…………」

 さくらは鍵を構えた姿勢で固まった。どうせいつもの『あんたのために言っとるんやけんね』という定型文の説教だろう――ならばさらりと受け流せば良いと思った。

 だが、母の言葉はさくらが予想していたものと違っていた。

「あんたが馬鹿な事したら悲しむのはあんたの将来の旦那さんやけんね。そこだけはよく考えて行動し」

「……は?」

 意外な言葉に思わずさくらは頑さを解いて振り向いた。

「いくら隠してもね、過去は消せんとよ。時代が変わっても、男ん人はそういうの気にするもんなんよ。そのことで傷つくんはあんたもなんやけんね。『皆しとるやん』とか言って、回りに流されて簡単に考えるのはやめとき。いつか出会う大事な人のために、ちゃんと取っとかんと勿体ないやろ。やけん、焦っても結婚までは待っとき」

 主張は同じ。だがいつもとは違う切り口に呆然とするさくらに、母は一歩近づくと手を差し出した。

 そしてさくらの手を取ると、小さくて硬い物を握らせる。

「……これ」

 何だろうと手のひらを開き、さくらはますます目を見開く。

「あの島田って子、顔だけかと思ったけど、割とまともな男やった。あれ、末っ子やろ。少し頼りないところとか、甘ったれとるところとか、お酒弱いところとか――お父さんに似とる」

 母は何かを思い出したかのようにふふと笑った。

「お母さん?」

 空耳だろうか。今島田を認めるような発言がその口から漏れたような。

 どういう心境の変化だろうとさくらが眉をひそめていると、母はくるりと後ろを向いて一歩踏み出した。

「あんた、この間夏に帰って来るって言いよったろ? 一回家に連れてきんしゃい。あれだけ言ってまだついて来るくらいなら、見込みもあるやろ」

 彼女が去り際にぽつりとこぼした言葉に、さくらはぽかんと口を開け、思わず手の中の物を取り落としそうになる。

「え、――でも」

 連れて来いも何も、振られたし――さくらがそう漏らす頃には母の姿はマンションの影で見えなくなっていた。母が一体何を言っているのかわからず、さくらは見開いた目をしばたたかせるだけだった。



 マンションに帰るなり、さくらはすぐさま電話をかける。だが相手は出ない。河野のアドバイス通りに電話番号を変えた事を思い出し、その事を僅かに後悔しつつ、ならばと新たに登録した番号をプッシュする。

『もしもし? 河野ですけど』

「あ、片桐です。先ほどはごちそうさまでした。それから長々とお世話になって、本当にありがとうございました。さっき家につきました」

『無事について良かったわー。わざわざ電話ありがとうね』

 のんびり返答されるが、さくらは待ちきれずに本題を切り出す。

「あ、あの。ところで、島田さんの家って分かります……か?」

 そう口にしつつ、みるみるうちにさくらは赤面した。少し親しくなったとたんになりふり構わない自分が恥ずかしい。まるで河野を利用しているかのように思われるかもしれない。

 だが島田の言葉がさくらを急かすのだ。

 ――チャンスは自分で捕まえにいかないとなかなか捕まらないと俺は思ってる――

 この機会を逃したら、後は無い気がして仕方がない。動くなら今夜だとさくらの直感が言っていた。

『わかるけど、どうかしたの?』

 電話口にいる河野がなぜかにやにやと笑っているように思えた。ますます顔を赤くしつつ、さくらは思い切って言う。

「島田さんとどうしてもお話ししたいことがあって。でも、電話に出てもらえないので……」

 そこで耐えきれないと言ったように、くすくすと笑い声が聞こえる。河野は『予定通り三羽目が落とせそうねぇ』と意味深なことを言ったあと、

『とりあえずもう一回うちまでいらっしゃい。ちょうど頼みたい事もできたから、ついでにお願いしたいのよー』

 と答えて、電話を切る。肝心の住所を手に入れられず肩を落とすものの、

(そういえば、奈々ちゃんが近いって言ってたっけ)

 そう思い出し、さくらは急いで準備をすませると、マンションを飛び出す。

 少し前まで降っていた雨は止み、雲間から星空が覗いていた。

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