60 卵酒と粥と説教
家に帰ると、島田は半ば倒れるようにしてベッドに潜り込んだ。客人がいると考えれば失礼かもしれないが、さくらの母を客扱いするのはとうに止めていた。
さくらの母はそんな島田の態度を気にする事も無く勝手に上がり込み、さくらを探し始めた。
かと思ったらガタガタと浴室の方で何か物音が聞こえ、不審に思った直後、バサバサと布が頭上に落ちて来た。
「着替えとき。悪化するし、皺になるやろ」
布の塊の正体は脱衣所辺りに放置していたスウェットだった。スーツ姿で寝ていたのを気にしたらしい。
「…………」
複雑な心境で島田は布団の中でスーツを脱ぐと持って来てもらったスウェットに着替える。
(何やってんだろ、俺)
客人――いや、客人と見なさなくはなったものの――ほとんど初対面に近い人間の前で着替えて寝ている自分を客観的に見るとおかしい。
だが熱も手伝ってどうでも良くなっていたし、この人物の前で常識を語るのも馬鹿らしい。
さらにさくらの母はキッチンでなにか作業をしはじめる。電子レンジが唸りはじめ、島田は、今度は何だと布団の中で眉をしかめた。
「立派な家なのに、ろくなもんがないね。砂糖もないやないね」
ブツブツ文句を言うのが聞こえて来るが、相手をするのも億劫で島田は布団を頭まで被って無視を決め込んだ。
だが、電子レンジのピーという終了音のあと、布団がめくられて島田はぎょっとする。
「飲んどき。寒気が治まるけんね」
差し出されたのは湯のみに入った卵酒だった。クリーム色の液体から白い湯気が立ち上り、島田の鼻を温めた。
「…………あの」
まさか、この人は看病してくれているのだろうか。そう思ったが、次の瞬間島田は全力でそれを否定した。
(いや、むしろこれに毒でも入ってるんじゃ……)
怖々と器を覗き込み、匂いを嗅ぐが、怪しげな匂いはしなかった。それでも躊躇っていると、
「なんね。大人なんやけん、好かんとか言わんでちゃんと飲まんといかんよ」
真面目な顔で言い聞かされて、島田はひとまず湯のみに口をつける。毒などそう簡単に手には入らないし、目の前の飲み物は酷く美味しそうだった。
「……なんでもないです」
いただきます、と島田は卵酒を飲む。砂糖が入っていないため、島田でも飲める――むしろ美味だった。かっと体の芯が温まるのを感じ、島田はついついそれを飲み干す。
その間にさくらの母は島田の脱いだスーツをハンガーにかけて皺を伸ばしている。
(この人、何してるんだよ)
わけが分からないまま、島田はじっとそれを眺める。
彼女はキッチンに戻るとまた作業を始める。まるで自分の家のように振る舞っている。
「米が無くなっとるよ。買っとき」
そんな声が上がり、どこから探し出したのかざっざっと米を洗う音がする。これはさくらの捜索ではない――とさすがに島田は悟るが、どうしても腑に落ちなかった。
「お粥つくっとくけんね、起きれるようになったら食べんさい」
「あの」
「なんね?」
「そこまでしてもらわなくても――っていうか、なんでしてくれるんですか」
島田はさっきからずっと喉につっかかっていた問いをようやく口にする。
「は? 目の前で知り合いに倒れられたら当然やないね」
さくらの母にとっては島田の言う事の方があり得なかったらしい。
「……当然、ですかね」
どうやらこの人は本当に昔の日本からやってきたような独特な価値観を持っているようだ。現代では失われている近所付き合いみたいなものが普通だと思っているのだ。
さくらに対しての行き過ぎた干渉もその辺から来ているのだろうか。そんな事を思いながら島田がぼうっと見つめていると、
「お母さんには来てもらえんのやろ。お父さんが入院しとるって言っとったもんね。――さくらもおらんしね」
さくらの母は最後、さくらの名を出したところでふんと楽しげに鼻で笑った。親切なのかどうなのか、読めない人物だった。
「母を呼ぶまでもないです。ただの風邪ですし、いざとなったら近所に姉がいますし、平気です」
「そうね。でもこんな生活しとったら良くなるもんも良くならんよ。電話しとき。で、まともなもん食べさせてもらい」
そう言ってさくらの母はにかっと笑うと荷物を手に取った。
「じゃあ、私はさくらを探しに行くけんね」
「――待ってください」
島田は慌てた。無理に起き上がると引き止める。さくらの母は振り向かずに靴を履いていたが、後ろ姿に向かって懇願した。
「彼女に、仕事だけは残してやって下さい」
「なんね、今さら。別れたんやし、関係ないやろ、もう」
「確かに別れましたけど、それとこれは話が別です」
「あんた、やっぱりまだ切れてないんやないとね?」
胡散臭そうに睨まれるが、島田は怯まない。
「恋人ではなくても上司ですから」
「別れた女のことはさっさと忘れり。その方があんたのためやろ」
まったく取り合わない彼女だったが、島田はこれだけは言っておきたいと口を開く。
「――さくらは、絵を描きたいんですよ」
「…………」
ドアを開けようとしていた手が止まる。
「俺の家は『島田美装』って会社を経営してます。家族皆で大事にしている会社で、長男の俺は幼い頃から跡を継ぐ事が決まってた。そのために色んな事を我慢してきました。行きたい大学にも行けなかったし、当然、やりたい仕事にも就けなかった。……っていうより、親の敷いたレールの上を歩くだけならと、やりたい事は探さない事にしてたんです。――さくらにはそんなつまらない生き方をして欲しくない。せっかく才能があるし、生かせる仕事に就けたんだ。辞めて欲しくないんです」
おそらく卵酒のせいで酔いが回って言うつもりのないことまでもを言ってしまっている。なんだか今なら話が通じるのではないかと思ってしまったのだ。
(俺、何を必死に説得してるんだ……)
そう思ったとたん、羞恥で頭に血が上る。力尽きてその場に座り込むと、さくらの母は不可解そうな表情を浮かべていた。
「……あんた、なんでさくらと別れたとね?」
「別れさせたかったんじゃないんですか?」
意外に思って問うと彼女はにやりと笑う。
「『別れろ』とか一度も言った覚えはないけどね。順番は守れって“当たり前”の事を言っただけやないね」
「……どうして――」
言葉を選びかねてそこで黙り込むと、彼女は呆れ顔になる。
「『どうして駄目なんです?』って言いたいんね? じゃあなんね。あんた、嫁にもらいたいくらいの大事な女が傷物でも平気なんね?」
「…………」
今の世、そうでない方が珍しい。と思いつつも、島田はさくらが誰か他の男と――と想像しかけた。だが、途中で我慢できずに顔をしかめる。それを見てさくらの母は勝ち誇ったように笑った。
「私は帰るけん、あんたは暖かくしてちゃんと寝ときね。お粥も食べてお姉さんに電話しとくんよ?」
一方的に捲し立てると彼女は扉から出て行った。
キッチンからはぐつぐつと粥の煮える音、そして米の炊ける甘い香りが漂い始めていた。




