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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
四.芒種のころ
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59 尾行者被尾行者

 結局仕事の残りは家でやると姉に言い置くと、島田はさくらの母を追うようにしてオフィスを出た。

 階段を下りたところで、辺りの様子を伺う。

 雨は未だ降っていて、前の道は人通りもまばらだった。

(居ないな)

 だが、まだ近くにいるはずだと島田はひとまず駅の方へと足を進める。

(今日こそはさくらを見つけるまでは帰らないはずだ)

 そう予想したのだ。

 そして悪天候が島田の味方をした。大雨のため足止めにあったのだろう。さくらの母は意外にすぐ見つかった。

 見覚えのある後ろ姿がカフェに入るのを見て、島田は眼鏡を外し、上着を脱ぐ。そして整えていた髪をわざと乱すと、印象を変え、数メートルの距離を開けて入店した。

 オフィスからは少しの距離だというのに、既にスーツの裾は重たく湿っていた。靴下まで雨が染みていて寒気がする。温かいコーヒーを注文すると、島田は空調を気にして風の当たらない場所を探した。

 中央に置いてある鉢植えの傍に陣取ると、さくらの母親の様子を探りつつ、ノートパソコンを開き、店内のWi-Fiでネットに接続するとメールを確認する。

(……無いか)

 小さくため息をつき、がっくりと肩を落とすと椅子の背もたれに体を預けた。

 朝に送ったメールに返信はない。返事がなくとも読んでくれていたらいいけれど、そう願う。

 島田はちらりと植木の葉の隙間からさくらの母の様子を窺った。通りに面した席に腰掛けた彼女は、店に置いてあった雑誌に目を落としつつ、ちらちらと表に目をやっている。何をしているのかはまるで分からないが、今度は上原にでも目を付けている可能性は十分にあった。見当違い――と島田は信じているが――もいいところだが。

 しかし、さくらの母が何を企んでいようと、彼女がさくらに接触する前に取り押さえられれば、最悪の事態は防げるだろうと思った。今日は島田がさくらの母を尾行するつもりだった。


 だが、さくらの母はそれから一時間経っても席を立とうとしなかった。

 ただでさえ熱を出して朦朧としていた島田は、冷えた足元から上ってくる寒気に、とうとう震え始めていた。梅雨時の店内は除湿だけではなく冷房までもが効いていて、温かいコーヒーも焼け石に水。寒さに勝てず、こっそりとスーツの上着を羽織り直すが、夏物のスーツはそれほど役に立たない。いっそ毛布が欲しいと思うくらいだった。

 島田はくしゃみを一つする。続けて何度も出そうになって慌てる。尾行に気づかれたくない。目立ってしまうのは避けたかった。

(あー……やばいかも)

 気づかれていないかが気になって、視線をやるが、彼女は相変わらず外を気にして、どこか苛立った様子で雨をねめつけていた。 

 と、表を見た顔が通り過ぎた。上原だ。

 さすがに動きがあるかと思い、パソコンを慌てて仕舞って立ち上がりかけたが、さくらの母は相変わらず席で外を眺めているだけ。

(あれ? どうなってる……?)

 再び腰を下ろそうとした島田に一つの声がかかった。

「あ、そこの席空きますか?」

 若い女性が二人、にこやかに話しかけていた。ふと見るといつの間にか周りは満席。席が空くのを待っていたらしい。座る気満々で荷物を前の座席に置いている。

 女性たちは微笑んではいるが『混雑時にいつまでも占領すんなよな』とでも言いそうな顔をしてテーブルの空のカップを睨んでいる。

「……どうぞ」

 今さら腰を下ろし辛く、島田は新しく空席が出るのを待つしかないかと諦めて立ち上がる。

 ――と、そのとき、

 ぐらり。島田の足がふらついた。思わず手をテーブルについて体を支えるが、膝が折れてすぐに立ち上がれない。

「だ、だいじょうぶですか!?」

 島田の前にいた女性が予想外に大声を上げ、一気に視線が集まる。

(やば……!)

 慌ててさくらの母の席を見ると、既に空っぽだった。

(逃げられた――――!?)

 よろつきながら島田は店の出口へ急ぐ。外を見ても姿を見つけられず、島田は落胆と熱のダメージでその場にかがみ込んだ。

 だが、その直後、

「こんなところでなんしようとね」

 頭上から雨音に混じった意外な声が降り、ぎょっとしながら頭を上げる。

「お母さん――どうしてここに」

「それはこっちの台詞やろ。ずっと探しよったんよ?」

 そこでは、さくらの母が島田を見下ろして呆れた顔をしていた。



「運転手さん、イデアール赤坂一号館までお願いね」

 さくらの母はふらつく島田を強引にタクシーに乗せた。家まで距離は一キロに満たないものの、この体調で雨の中を徒歩で帰れば、間違いなく途中でぶっ倒れていたと思う。心底感謝して、彼女の事を『実はいい人かも』と思った瞬間、

「それにしても、あの子は相変わらず面食いなんやね……趣味が変わったかと思ったら、全然変わってないやないね。ほんと、誰に似たんかね」

 何かぶつぶつと言いながら、彼女はなぜか自分もタクシーに乗り込んだ。

「あの。一人で帰れますけど」

 嫌な予感が悪寒になる。島田が同乗を断ると、

「なん言いよるとね。あんたを尾行つけとったのに。ここで見失ったら意味ないやないね」

 と驚くべきことを言った。

「今日さくらに休めって言ったのはあんたやろ。私が会社に行くってこと、あんたしか知らんかったんやし、怪しすぎるやろ。やけん、あんたの周りで張っとったら絶対さくらは出て来ると思うんよ」

 続けて勝手で酷く迷惑な憶測を披露する彼女に、

(『しばらく出勤するな』とはメールしたけどね……それは休んだのを知った後だ)

 と心の中で呟いて、島田はため息をついた。もちろん『強烈な母』という認識は『実はいい人』には変わらない。変わるはずもない。

 どうやら彼女は『彼女を見張っていた島田』をあのカフェでずっと待っていたらしい。自分が見張られているのに気づかなかったのは、まさかあんなに早く島田が仕事を切り上げると思わなかったからだろう。

 あれだけの捜索をしておいてまだ疑いが晴れていないのにもだが、あまりの馬鹿らしいすれ違いに島田は渇いた笑いを漏らす。だが、それはすぐに咳に代わった。

 咳の止まらない島田を見て、さくらの母は一瞬眉をしかめたあと、コンビニの前で一度タクシーを止める。そしてなにやら買い物を済ませて来た。

 島田の意思に関係なく、そのまま自宅までタクシーは進む。強引に乗せられたタクシーの代金は島田持ちだったが、結果、随分助けられた。あとは階段を上れば、布団で眠れる。

「送って頂いてありがとうございました」

 マンションのエントランスで、島田は素直に礼を言う。だが、彼女にとってはあくまでさくらの捜索が第一だったらしい。

「上まで送って行くけんね」

「…………」

 既に反抗する力など無い。島田は二度目の家宅捜索を覚悟し、さくらの母を引き連れたまま、よろよろとマンションの階段を上った。


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