58 家出と体調不良
乾いた咳をしながら島田はオフィスへと階段を上る。昨晩長時間雨に打たれたせいか、おそらく熱も出ている。本気で休みたかったが、さくらの事が気になって結局出て来てしまった。
なんといってもあの母親の突撃予告がある。いくらさくらに口を出すなと言われたとしても、自分の縄張りを荒らされるのは勘弁して欲しい――という名目で追い払ってやる事くらいは出来ると思った。
昨夜からの雨はまだ降り続いていた。雨が窓を打つ音だけが響くオフィスで、島田はじっと待った。
始業十分前、姉が姿を現してレインコートを脱ぐ。五分前になって上原がスーツの雨を払いながら入室して来た。
だが、始業時間になってもさくらが現れない。無遅刻無欠席のさくらにしては珍しいと姉のデスクの傍に寄る。
「今日、片桐さんは?」
「ああ、今日はお休みもらうって連絡もらってるわよ」
「休み?」
「体調不良だって」
一気に落ち着かない気分になる島田を、姉は鋭く睨みつける。
「先週は気を張って無理してたみたいだし、今週になって疲れが出たのかもねぇ」
含まれるものに気づかない島田ではないが、反論しない。家出中で体調不良。言い争っている場合ではない。
「彼女、家出中らしいんだけど……居場所とか話してなかった?」
「家出?」
姉は「なにそれ」と目をすがめる。それはそうだろう。普通社会人になってからの外泊にそんな言葉は使わない。
「マンションに帰ってないって――母親が昨日ここの入り口で待ち伏せしてた」
ひそひそと昨夜の事件を手短に話すと、姉は「そんなことがあったの」と眉をひそめた。
「今日もお母さんが会社に来るって宣言してたんだけど。連絡先とか聞いてない?」
「――あれ? もしかして電話番号変えられちゃったの?」
こころなしか姉の顔がニヤニヤしている気がして、ムッとしながら促す。
「今日の欠勤の連絡は?」
「メールよ」
開きっぱなしのメールボックスを姉は指差す。
短い欠勤の連絡は会社で用意したアドレスから送信されている。WEB経由で送信できるから、そうしたのだろう。
電話連絡ではないのは新しい電話番号は知られたくないということだろうか。非通知にすればいい話だから、島田が出ると考えたからかもしれない。どちらにせよがっかりする。思わずため息が出るが、全く連絡が取れないわけではない事に気が付いて少しだけほっとした。
自席に戻るとPCを開く。そして用件のみの短いメールを送ると、無機質な天井を仰いだ。
午後五時、未だやまない雨の中、宣言どおりにさくらの母親はオフィスの玄関をくぐった。
だが、彼女は昨夜のような無礼な真似はしなかった。手みやげをぶら下げ『近くまで来たので、娘がお世話になっている会社へのご挨拶』という形をとったのだ。誰かに――おそらくは父親だろうが――アドバイスでももらったのかもしれない。一応娘の今後の社会人生活を考えるだけの理性は残っているようだ。自分に対してもその位の配慮が欲しかったと島田は思う。
「ところで、さくらはどこでしょうか」
玄関で一通り常識的な挨拶を交わした後、さくらの母はきょろきょろとオフィスを見回す。そして、狭く、全てが見渡せるオフィスに娘の姿がない事を知ると尋ねた。応対していた姉があえて不思議そうな顔で答える。
「あいにく本日は体調不良で欠勤しておりまして」
「欠勤?」
聞いたとたん、穏やかに取り繕っていた顔が急に険しくなる。
「ご存じなかったのですか? ――前もってお電話でも頂ければ、不在をお知らせしたのですが」
申し訳なさそうな顔をしつつ、姉は暗に『せめてアポイントくらいとっとけ』と込める。だがさくらの母はそれには気づかず、オフィスを覗き込んで島田を見つけるとぎろりと睨んだ。
踏み込んできそうな気配を感じたが、姉がさりげなく入り口を塞いでいるので、まごつき、結局は入室を諦める。
『あんたが逃がしたんね?』
そんな悪意の籠った視線を感じたが、島田は無視して仕事に集中している振りをする。原因の大半は島田にある。ややこしくなるから引っ込んでろと姉に言われたのだ。
「本人から連絡がありましたら、家に電話しろと言ってもらえますか。電話に出ないので心配していて」
さすがに事情は語りたくないのだろう。気まずそうにさくらの母は言う。
「……分かりました。伝えておきます」
姉は深く問う事はせず、あくまで丁寧に、柔らかく対応している。
「よろしくお願いします」
そう言って大人しくさくらの母は引き下がったかに見えた。
だが、その目は島田を睨んだまま。悪寒を感じつつも、彼は最後まで目を合わせる事はしなかった。
「あれは、まだ何か企んでる顔してたわよねぇ」
嵐が去った玄関で、姉がため息をつきつつドアを閉める。だが、さくらの母が持って来た土産を覗いて一気に破顔した。
「上原君、お土産よー! 美味しそうなケーキ! お茶にしよう」
大人しく見守っていた上原がへらりと笑いながら、お茶を淹れに行く。
「島田さんも、どうっすかー?」
声をかけられて島田は顔を上げる。
「……え? ああ、遠慮しとく。二人で分けて」
「けいちゃんは甘い物全く駄目だもんねぇ」
姉の嬉しそうな言葉に頷く。甘い物が苦手なのもあるが、どうも食欲が全くなかった。しかもさくらの母が帰っても悪寒がまるで治まらないどころか、ひどくなっていた。
「じゃあ、遠慮なく。あ、四つあるけど、上原君二つ食べるー?」
「ダイエット中でーす。あ、三つならご家族で食べられたらいいんじゃないっすか」
そんなのんきなやり取りが妙に遠くに感じる。耳が遠くなるのは熱が上がっているときだと経験上知っていた。
悪い傾向だと思いつつ、島田は熱の籠ったような頭を必死で働かせ、残った仕事を片付ける。どうしてもさくらが気になって仕方がない。母親より先に見つけて保護してやらないと取り返しがつかないことになりそうな気がしてならなかった。




