56 元カレとしては
それから一週間ほど経ったころ、季節は島田が一年で一番嫌いな梅雨に突入した。外回りに自転車は使えず、足元は悪く、せっかくの靴が台無しになる。休日も外に出かけられない。――出かけるとしても相手はもう居ないが。
(もし付き合ってたら、紫陽花でも見に行ったんだけど。あの神社の近くの焼き餅、美味いんだよな……)
何を見ても目を輝かせ、何を食べても美味しそうにするさくらの顔が思い浮かぶ度に、楽しかったなと感傷に浸る。これからも季節ごとに色んな場所に連れて行って、一緒に色んなものを楽しみたかった。だけど、自分でその楽しい時間を手放した。
今まで、別れた後にこんな気分になる事はなかった。寂しくはあったけれど、合わなかったんだな、と納得できたのに。
日が経つに連れ、早まったかもとじわじわとした後悔が彼を苛む。体の関係の有無など本当にちっぽけな事に思えて来る。
(馬鹿か。俺は。これじゃ、どっちが振られたのか分からない)
昼休みにランチに出ていた島田は、ラーメンをすすりながらそんな事を考えてぼうっとしていた。
とにかく仕事中、さくらが視界に入ると落ち着かないのだ。外に出る機会を見つけては逃げるように出て来ている。そんな彼に、一緒に出て来ていた上原がさらに落ち込ませる話題を振った。
「なんか、片桐って、この頃急に変わりましたよね。めっちゃ可愛くなった気がしません?」
思わず箸を止める。
「髪切って来たのも驚きましたけど、昨日から化粧も変えてますよね。それに香水つけてんのか知らないっすけど、なんかいい匂いがする」
「そうか?」
よく観察している。疎ましく思いながらも島田は興味のない振りをする。ラーメンの汁が眼鏡に飛ぶが、表情を読ませたくなくて、拭くのを躊躇った。
「――男、ですかねぇ」
上原は嫌な方向へと話の舵を切った。ぎくりと体が強ばる。
自分との事がバレていたのだろうかと思って警戒すると、上原はにやっと笑って替え玉を頼む。待っている間もおしゃべりな口は閉じない。
「付き合ってる男で女って随分変わりますし、片桐は元々かなり分かりやすいっすよね。前も誰かと付き合ってたみたいっすけど、なんつうか真面目で押しの弱い、女の扱い下手な男なんだろうなって思ってました。で、今回は結構派手で軽い男かも」
さくらから判断された自分の評価にムカムカと怒りが沸き上がる。島田は苛立ちをぐっと押さえ込んで、冷静に返した。
「…………片桐さんは、そう簡単に男を変えるタイプじゃない気がするけど」
(あのさくらが別れて数日で他の男と付き合ったりするかよ)
島田はラーメンの汁を飲み干す。
「わかんないっすよ。ああいう真面目なタイプこそ、振られて自棄になって、全く別のタイプの男と付き合ってみたりとかしそうじゃないっすか」
全くないとは言い切れない可能性。島田は思わず咽せそうになり、咳払いで誤摩化す。
水を飲んで落ち着こうとした島田に、さらに上原は追い討ちをかけた。
「でも元カレとしては悔しいっすよね、別れたとたんに彼女が可愛くなったら。自分じゃそこまで変えられなかったって思い知らされますもんねぇ」
ごほごほと咳の止まらない島田に、上原は妙に楽しげに尋ねた。
「あれー? 島田さん、大丈夫っすか?」
無視して店主に頼む。
「――水、もう一杯下さい」
お前全部分かってて喧嘩売ってんだろ――島田はのど元まで出かかった言葉を水でなんとか流しこんだ。
定時少し前になって、さくらは急に落ち着きを無くし河野の席へと向かう。そして小声で何かを相談した後、いそいそと帰宅した。
なんだろうと気にしていると、上原が先に質問する。
「片桐は何か用事ですかー?」
「さあ。私用で少し早めに上がらせて下さいって。今日は暇だし別にいいでしょ」
「まあ、いいっすけど」
上原は少し不満そうに口を尖らせる。
島田も顔には出さないが気になった。さくらにしては珍しい行動だったし、何より、仕事を早めに切り上げてまでする用事というのが、これまでの彼女の行動からは思いつかなかった。
妙な胸騒ぎを抱えたまま、島田はいつも通り仕事を終える。オフィスの鍵を閉めて外に出ると、土砂降りの雨。階段を下り、大きくため息をついたところで、黒い人影を見つけて目を見開いた。
「――さくらはどこね」
雨音に混じって地を這うような声がエントランスに響き渡った。さくらの母親が仁王像のような顔で立っていたのだ。
「もうとっくに帰宅しましたけど」
「あんたやろ? あんたの家におるんやろ?」
「は?」
何の事か分からず目を白黒させると、さくらの母は泣きそうな顔で島田に詰め寄り、驚くべき事を訴えた。
「あの子、もう二日もマンションに帰って来てないんよ。勝手に電話番号も変えて繋がらんし。――あんたが隠したんやろ? さくらをどこにやったんね!?」
混乱した様子のさくらの母の説明によると、さくらは家に帰らないだけでなく、電話番号を変えたらしい。試しに島田が電話をかけてみたが、本当に繋がらなかった。
母親は昼間はパートに出ているが、先週――例のあの日から島田を警戒して仕事が終わってから毎日マンションに通っていたそうだ。ところが昨日、突然さくらが帰って来なかった。残業でもあるのかと思っていたが、今日になって電話が繋がらずパニックに陥った。捜索願を出そうとしたところを父親に諭されて、まずは会社まで出向いて来たというわけ……らしい。
(そりゃ、それだけやれば嫌気がさして逃げたくもなるだろう……)
ぐったりしつつさくらの行き先を思い浮かべる。彼女の友人はそう多くない。
「藤沢さんとか、広瀬さんとかのお家にお邪魔してるとか。――電話かけてみましょうか?」
田中に聞けば連絡先は分かるだろうと、田中の番号を呼び出そうとしたところで、案はあっけなく却下された。
「もう電話をかけたけど、おらんって。逆に驚かれたんよ」
さすがにこういう事に関しては行動が早いらしい。
(口裏合わせてるだけじゃないのか?)
そう疑ったが、母親はぎろりと島田を睨む。
「ご両親にも代わってもらって確認したけんね、間違いないよ」
「…………」
(……うざい……)
思わず口にしそうになるが、辛うじて島田は飲み込んだ。
「やけん、絶対あんたの家やと思って。尾行するために定時に間に合うよう来たんやけど、一足遅かった。こんな事なら仕事休んで乗り込んどけば良かった」
母親は地団駄を踏む。
(尾行するって――)
なんなんだこの母親は。改めて強烈さを実感しながらも、さくらが慌てて会社を出た理由が分かって納得する島田を、さくらの母は睨み上げる。
「本当にあんたやないんね?」
「この間、目の前で見てたでしょう。もう別れましたし」
主にあなたのせいで。そう付け加えたいと島田は真剣に思う。
「私を騙すための演技やないとね?」
さすがに失礼過ぎる態度に島田の堪忍袋の尾が切れそうになる。
「……お疑いなら、家の中、見てもらっても構いませんけど」
自棄糞でそう言うと、驚くべき事に母親は「そうさせてもらおうかね」と話に乗って来た。
(嘘だろ。普通は遠慮するだろ……)
そういえば普通じゃなかったと後悔しつつも、元々彼女はそのつもりでやって来ていると悟る。疑いを晴らさないと解放してもらえなそうだ。
島田は大きな荷物を後ろに従え、大きくため息をつくと、土砂降りの雨に向かって傘をさした。




