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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
四.芒種のころ
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55 雨音に混じって

 出勤に合わせたように雨脚が強まった。今朝のニュースでは沖縄が梅雨に入ったと言っていたが、この辺りももうそろそろなのかもしれないなどと憂鬱になる。

 傘を畳むと大粒の水滴がコンクリートの床に水玉模様を描いた。靴はたっぷり水を吸い、スーツの裾も濡れている。足元の悪さにげんなりしつつ顔を上げた島田は、オフィスの玄関に人影を見つけてぎょっとした。

「おはようございます」

 一瞬誰か分からなかったのは、肩下まであった髪がばっさり切られていたからだ。

「さ、」

 思わず出かかった言葉を飲み込むと、言い直す。

「片桐さん、髪……」

 そのまま絶句すると、さくらは微かに笑顔を浮かべて襟足を撫でた。

「ええと、気合い、入れようと思って」

(気合い?)

 島田は聞き間違いかと首を傾げかけたが、釘付けになったままの目から入る情報にすぐに意識を引き戻される。

 項が見えるほどの随分思い切ったショート。パーマが毛先に残っているのか、くせ毛風になっている。それが中性的な顔を華やかにしていてひどく似合っていた。

 その姿にもだが、正直驚いた。きっと今日は理由を付けて休むと思っていた。島田も休みたかったが、今日はカタログの入稿があったので渋々出て来たというのに。

(そういえば、こういう子だった)

 バイトの面接で、姉や島田の意地悪な対応にも屈しなかった。仕事も途中で放り出した事は一度もない。上原も最初から根性だけは誉めていた気がするし、島田も彼女のそういうところが好きだった。

 自分から別れを切り出したのに、未練は相当にあるようだった。手放した事を後悔しそうになり、島田は己の意思の弱さを叱咤する。

 さくらはけほんと小さく咳き込む。顔と目が赤い。熱がありそうな顔だ。思わず手を伸ばそうとして、その権利を放棄した事を自らに言い聞かせる。

「島田さん」

 さくらは思い切ったように切り出す。

「何?」

 覚悟を孕んだ声色に、言われることを予想して身構える。

「私、ここを辞めなくてもいいですか?」

「……」

 予想していた言葉と真逆の言葉。島田はあっけにとられた。もちろんこちらから辞めさせようなどと考えてはいないが、まさか自分からそう言って来るとは思わなかった。

「当然。プライベートは仕事には関係ないし――今辞められると困るよ」

 自分で振っておいて勝手かもしれないが、それは経営側としては本音だった。人手は足りないし、補充も難しい。すでに戦力であるさくらがいなければ仕事は回らない。

「良かった。就職難ですし、仕事がなくなったら路頭に迷ってしまうところでした」

 さくらは弱々しく笑う。実家に帰って、家の近くで再就職する――母の手を取るという選択はしないらしい。

(なぜだ?)

(それなら、なんで俺の手を取らなかった?)

 さくらの母親に罵られて島田は思った。自分が悪者になればいいと。そうすれば、さくらが抱いている、母親を裏切るという罪悪感を軽く出来ると思った。そして、時間をかけ、間に入って頑な母親を懐柔する事も出来るとも思ったのだ。

(もし俺の手を取ってくれれば、全力で守ったのに)

 詰め寄りたかったけれど、終わった事だ。今更言ってもしょうがない。

 彼女にとって島田は守ってもらうに値しない男なのだ。それが残酷な事実。

 胸の痛みをじっと堪えていると、さくらはぺこりと頭を下げた。

「――私、頑張ります。今まで以上に」

 何か決意をしたような目で真っ直ぐに見つめられ、島田は眩しさを感じて思わず目を逸らした。

「期待してる」

 そう言うとオフィスの鍵を開ける。

「だから、……………さい」

 雨音に混じって小さな声が聞こえた気がしたが、後ろを振り向いてもさくらは口を噤んだままだった。

 島田がオフィスに入るとさくらは二歩ほど遅れて部屋に入った。その距離感は彼女が最初にここに来た時と同じかもしれない。

 さくらがまだ学生だった頃、帰り際、何度もキスを繰り返した廊下。通り過ぎるときには、条件反射のように衝動が沸き上がる。手を握りしめ、目を瞑る。胸ポケットから眼鏡をとり出してモードの切り替えを図った。

(しばらく彼女の前では眼鏡を外せないな)

 完全に上司と部下に戻るまでは、これに頼るしかなさそうだった。



「ねぇねぇ、さくらちゃんの髪、何? あれ」

 定時になり、さくらが帰宅したあと、上原が買い物にいっている合間に姉が島田に尋ねた。

「ふわふわですごく可愛い。けど、随分思い切ってやっちゃったわよねぇ。けいちゃんが勧めたわけ?」

「…………いや、彼女とは別れた」

 いずれ言わなくてはならない事だ。渋々報告する島田に、姉は目を見開いた。

「なんでそういうことになるわけ? え、わけ分かんないんだけど!」

 動揺して声の大きくなる姉に、島田は黙れと口元に人差し指を立てたが、姉は無視してヒートアップする。

「あ、わかった! 親に紹介した勢いで押し倒して拒まれてキレたんだ!」

「ち・が・う!」

 と言ったものの、本当に違うか? と島田は思わず自問した。

 あの日さくらには珍しく隙があった。肌に触れさせてくれたし、部屋にもあげてもらえそうだった。部屋に入ってしまえば押し切る事も出来ると思っていたし、そのつもりだった。千載一遇のチャンスを邪魔されて平常心を失ったのは確か。

「じゃあ、なによ」

 島田は頭の中で理由を探った。

「……彼女の母親に敵わなかったってだけ」

「なに? あの強烈なお母さんに鉢合わせちゃったわけ? 相変わらず間が悪いなぁ、もう。で、娘はやらんとか言われて、それで引き下がったの?」

「……」

 細かいところは違うけれど、大筋は間違っていないので否定できない。というより、多分、先ほど姉が最初に言った理由との合わせ技にやられたのだ。

「ああ、情けなぁい。うちの旦那の方がまだ根性あるわー。そりゃ振られてもしょうがないわー」

 嘆く姉に向かって、一応訂正をする。

「振ったのは俺だって」

「うそ。さくらちゃんの方がよっぽどしゃんとしてるじゃない。気持ちもしっかり切り替えてるし……え、もしかして辞めちゃうとか言わないわよね!? けいちゃんに振られたくらいで辞めたら勿体ない」

 酷い言い様だが、一理ある。失恋で転職を繰り返せば、人生を投げるようなものだ。

「一応、辞めないって言ってた」

「そう……うーん、でも心配だなぁ」

 個別に事情聴取が必要かなぁ、姉は呟くと口を噤んで考え込んだ。

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