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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
三.清明のころ
55/91

54 月曜日に、また

「誰ね、その人」

 害虫を見る目つきで母早百合は言い放った。

 島田はさりげなく繋いでいた手を離していた。暗かったので見えなかったようだが、見られていたかと思うと冷や汗がどっと吹き出した。

「こちら、会社の上司で、島田さん」

 失礼やろ、そんな態度とらんでよ――と小声で訴えるが、聞こえなかったかのように母は島田を睨みつけている。

「はじめまして、島田です。お嬢さんにはいつもお世話になってます」

 彼はどこからか取り出した眼鏡をかけていて、綺麗に頭を下げた。営業用の顔だ。

 だが母は硬い態度を解かない。

「会社の上司が、どうして土曜日にここにおるんね?」

「きゅ、休日出勤で、遅くなったけん、送ってもらったんよ」

 上ずりそうになる声を必死で抑えてさくらは言う。その際、ぐっと握った右手に硬い感触を感じさくらは密かに指輪を外す。母と会う時には見せないようにしていたのだ。

「休日出勤……ねぇ。その割にラフな恰好しとるやないね」

 母はさくらの頭からつま先までをじろじろと観察する。

(ああああ、そんなに見られたら、ブラが外れてるのバレる……!)

 泣きそうになりながらさりげなく胸の辺りをバッグでカバーした。とにかく話題を変えないとと尋ねる。

「で、なんでこんなところにおるん?」

「こっちが訊きたいんよ。なんで携帯切っとうとね。いつまでたっても出らんけん、心配したんよ」

「あ」

 そういえば、病院で携帯の電源を切った事を思い出す。ポケットから携帯を取り出して復活させると、着信履歴と留守電の山だった。だが腑に落ちない。母が昼間に電話をかけて来る事は滅多になかった。

「なんか用事やったん?」

「あんたカーネーション贈ってくれたやろ。今日の昼届いたけん、お礼言おうと思ったら……」

 すっかり忘れていた。――明日は母の日だ。

 一月前くらいに忘れないようにと花を注文していたのに、色々あり過ぎて注文していた事を忘れていたのだ。覚えていたら、電話がかかって来る事を予想して待機していたのに。

(うわぁ……やっちゃった)

 窮地に追い込まれて、さくらは言い訳を探る。だがどうしても電話を切っていた理由が思い浮かばない。

 と、

「実は僕の父が入院したので、病院に付いて来てもらっていました」

 島田がさらりと言い、さくらは何を言い出すのだと目を丸くした。

「なんでです」

 案の定母は怪訝そうな顔だ。

「僕とさくらさんはお付き合いをしていますから」

 さくらと母は同時にぽかんとした。

「なんて?」

「島田さん……、何言って」

 あわあわとさくらは爆弾発現を否定しようととするが、

「いい機会だろ。きちんと話をするべきだ」

 と島田は譲らない。

「ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」

 礼儀正しく島田は頭を下げるが、母は逆に反り返った。さくらは嫌でも思い出す。このポーズは、高校二年のあの夏と同じ。

「――まさかうちの娘に手を出したりしとらんやろうね?」

 案の定、地を這うような声が響いた。

「なにもしてません」

 無礼な質問にも島田は淡々と答える。眼鏡の奥の表情は読めなかった。

「ほんとかね。こんな夜遅くまで連れ回して、今までなにしよったんね」

「遅くないやろ、まだ九時前やん」

 島田を庇って突っ込むと、

「あんたは黙っとき。大体、門限は八時って言ってなかったかね」

 母はぎろっと睨みつけてさくらを黙らせると、再び島田に向き直った。

「島田さんとか言ったかね。嘘はいかんね――口紅がついとるよ」

 島田は僅かに眉を寄せ、口元に手をやった。だが、暗いのにそんな事が分かるわけがない。卑劣な誘導だ。

 彼の仕草を見て何か確信を抱いたのか、母は凶悪な顔でさくらの手を引くとエントランスの外へと引きずった。

「そんな事やと思った。さくら、帰るよ。すぐにここ引き払って、実家に帰るけんね。仕事も辞めさせてもらい」

「ちょっと――いやだって!」

「待って下さい。話を聞いてもらえませんか」

 島田が追って来るが、母は立ち止まらずに言った。

「卒業したての世間知らずの娘をこんな風に騙して。あんたやろ、悪知恵授けて、ここに引っ越させたのは。どうせ都合よく囲うつもりなんやろ」

「何言いようとって!」

 やめてと叫ぶように言うが、母の放言は止まらない。

「手をつけるだけつけて責任とらん男なんかいっぱいおる。適当に遊ぶつもりなんやろ」

「島田さんはそんなんやないよ」

「さくらさんとは真剣にお付き合いさせて頂いてます。結婚もきちんと考えてます」

 島田が真剣に訴えるが、母は鼻で笑った。

「結婚? そんな口約束には騙されんよ! それやったらなんでさっさと結婚せんのね。なんでこんな風にこそこそする必要があるとね? 二人とも立派に社会人なんやし、何の問題もないのにどうしてね?」

「それは」

 島田が言葉に詰まると、母はそれ見た事かと勝ち誇った顔をする。

「さくら。こんな妙な男に引っかかって、後で泣いて後悔しても誰も助けてくれんとよ!」

 申し訳なくて死にそうだった。彼の言葉はきっと精一杯の誠意だったろうに、母にはまるで届かない。

 絶望的な気分で島田を見る。

 彼の苦々しい表情が高校の時の彼と重なる。

『ごめん、無理』――そんな声が耳に響いた気がしたとき、


「さくら。選んで」


 島田が真剣な面持ちで手を差し出した。

「俺とマンションに戻るか。お母さんと家に戻るか」

 彼の言葉を受けて、母も挑戦的な顔で手を差し出した。二人とも譲る気がないのが分かる。

 島田の手を取りたかったけれど、取れば、母との関係は完全に壊れるだろう。そのとき母の攻撃の矢面に立つのは島田だ。今以上の非難の言葉を彼が受けると考えただけでぞっとした。

 だからと言って母の手を取れば、島田はきっと離れていく。

 どちらの選択も最善とは思えなかった。

(選べない)

 ただでさえさくらの心は、母の言葉でこれ以上ないくらいに萎縮していた。今の判断力でどんな選択をしても後で後悔しそうだった。

 出来る事ならば、時間を巻き戻したい。

 あのとき病院で電話の電源を切らなければ? それともカーネーションを贈らなければよかったのか。

 そんな後悔と共に、どうしてただの上司だと誤摩化してくれなかったのか。こんな残酷な選択を迫るのかというような、島田に対しての恨めしい気持ちも湧いて来る。

 様々な感情がさくらの中でどろどろと渦巻く。

「無理です。選べない」

 さくらが音を上げると島田は酷く傷ついた顔になる。

 しばしの沈黙。やがて彼はぽつんと言った。

「俺――今、聞きたい」

 何の事だろうとさくらが瞬くと、

「約束しただろ? 今日の昼、後で言うって」

 思い当たってさくらは目を見開いた。でも、今、母の前でそれを言うのは彼の手を取る事と同義だった。

「…………明日じゃ、駄目なんですよね?」

 ずるいと分かっていたがさくらがそう言うと、島田は寂しげに目を伏せた。

「そっか。分かった」

 島田はさくらの手に目をやると、もう一度手を差し出す。

「それ、もう要らないだろ? 人前で堂々と着けられないようなものだしさ」

 彼の視線がさくらの右手の薬指に止まっていた。何のことを言われているか分かって、それがどういう事かも分かって、涙がこぼれる。

「ごめんなさい」

 引き止めたかった。だが、もう島田は決めている。さっきのが最後のチャンスだったのだと今さらながら気が付いた。

 彼の手の上にずっと握りしめていた指輪を置く。島田はふっと小さく息を吐くと、営業用の笑顔を浮かべた。とても綺麗な笑顔だった。

「じゃあ片桐さん・・・・、さよなら。――月曜日に、また」

 彼はそう言うとエントランスの光の中から出る。

 全身が闇に染まったとたん、彼は側溝へ向かって手を振り下ろした。一筋の金の煌めきが線を描いたか思うと、小さな金属音が辺りに響き渡った。

 それが島田の嘆きに聞こえて、さくらはその場に崩れ落ちた。




 どのくらいそうしていたか分からない。さくらはエントランスの隅で膝を抱えていた。

 強引に家に連れ帰ろうとする母をさくらは全身全霊で拒絶した。失恋の痛手は大きかったけれど、だからと言って母の手を取る気にはならなかった。おそらく生まれて初めて本気で母に抵抗した。島田がさくらの何にがっかりしたか分かったから。

「もう二度とお母さんの言いなりにはならない。自分の生き方は、自分で決める」

 何度もそう言った。母に向かっても、自分に向かっても。

 さくらを無事に取り返したつもりでいたのだろう。思わぬ抵抗に根負けした母はとうとう言った。

「お母さんは帰るけん。あんたも家に入り」

 無言で立ち上がると、さくらは一人マンションへと入った。

 部屋は酷く殺風景で寒々しかった。万が一を予想して必死で片付けていたけれど、連れて来る覚悟がないのでは意味がない。見せる勇気がない下着と同じ。

 さくらはどうしても最後の一歩を踏み出せなかった。

「馬鹿みたい」

 頑に守ったものと引き換えに失った物があまりにも大き過ぎた。

 今更気づいても遅い。自らの愚かさをひとしきり笑った後、子供のように泣いてベッドに倒れ込んだ。

 疲れ果てていたが、全く眠れない。

 どうやったら島田を取り戻せるだろう、その事ばかりが頭の中を駆け巡った。いくら自分に無駄だと言い聞かせても諦めがつかなかった。


 空が白々と明けはじめた頃、さくらは一つのひらめきと共にジャージに着替えて外に出る。

 重たい側溝の蓋を開けると素手で冷たい泥を探る。一つ一つ丁寧に泥をさらい、蓋をし直す。胡散臭そうに通行人が泥だらけのさくらを見下ろすが、構っていられなかった。

 夕方になり、植え込みのサツキの赤い花を雨が濡らしはじめても、さくらは捜索を止めなかった。雨空で流れ星を探すようなものとは分かっていたけれど、もし見つかったら――と縋るような気持ちだったのだ。

 だが、人生はそんなに甘くない。

(やっぱりチャンスの神様には後ろ髪はないみたい)

 その日。暗くなるまでどぶさらいをしてもさくらの探し物はとうとう見つからなかった。


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