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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
三.清明のころ
54/91

53 釣り上がる要求

 自動ドアが人の気配を捉えて静かに開いた。斜めに差し込んだ夕日が足元の影を延ばす。

「オヤジ、とうとう起きなかったな」

 病院の玄関を出たところで、島田がぼそりと呟く。

 和やかな昼食の後、一度病室に戻ったが、島田の父親は未だに眠ったままだったのだ。

 送ってくれた島田母がそこで「ごめんなさいねぇ、さくらさん、せっかく来て下さったのに」と口を開く。

「いえ、突然お邪魔したのはこちらですし!」

 頭を下げると、島田母はくすくすと笑う。

「ちがうのよ。あの人、会うのが照れくさかったみたいで――実は、狸寝入りしてたの」

「はぁ!? なんで?」

 島田が顔をしかめる隣で、一緒に送りに出て来ていた河野がポンと手を打つ。

「あー、そういえば。お父さん、私がはじめて彼を連れて行った時も逃げたわよねえ」

「そうそう。困った人でごめんなさいねぇ」

 しょうがないなあとぼやいた後に島田は笑う。

「退院したら会ってもらうって言っておいて」

 じゃあ、行こうかと島田が促し、さくらは島田の母にしっかりと向き直って頭を下げる。

「お邪魔しました。お大事にとお伝えください」

「ええ、しっかり伝えておくわ。また気軽に来てちょうだいね」

 穏やかな島田母の微笑みを背にさくらと島田は駐車場へと向かった。



 マンションの近くの駐車場に着いた時にはもう日が暮れていた。車の時計を見ると二十時を少し過ぎたところだった。

「さくら」

 車を停めるなり島田は待ちきれないと言った様子でさくらをシートに押し付け、キスを迫った。

 唇が重なる感触は、昼間は怖くてたまらなかったのに、今は酷く心地よく感じた。力を抜いて身を委ねると島田はさくらを抱き寄せる。だが、運転席と助手席の間にあるサイドブレーキが邪魔で、肩が触れ合うだけに留まる。

 狭い車内だからか余計に大きな障害に感じて、さくらはそんな風に感じる自分に戸惑った。

 好きだという言葉をもらって心の垣根が一つ取れたからだろうか。それか島田の事を一つ知って、安心したのかもしれない。父親には会えなかったけれど、母親には歓迎されているようだった。それが嬉しかった。

 それは島田も同じなのか、昼よりも情熱的な気がした。

「ん――」

 いつもより長い口づけに、さくらが息をあげると、アンサンブルの裾から島田の手が中へと滑り込んだ。さくらはびくりと体を固まらせ、彼の手首を掴んだ。

「少しだけ。だめ?」

 島田が唇を浮かして尋ねるが、いいとも駄目とも答えられない。恥ずかし過ぎて。

 躊躇いを是ととったのか、島田の手はキャミソールを潜りさくらの素肌に触れる。

 口から飛び出すのではないかという勢いで、心臓が凄まじい音を立てる。

(どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう)

 泣きたくなりながらも拒絶出来ない。怖いけれど、この先に興味があったのも事実。

(す、少しだけって言ってるし)

 徐々になら、適応出来るかもしれない。そんな希望的観測でさくらが手を離して拒絶を止めると、島田の手はとたん大胆になる。背に回った手は頼りない金具を外し、服の中で動きはじめた。

(いきなりじかですか! って、これ、ぜんぜん少しじゃないよ!)

 認識の違いに仰天しながら、

「し、島田さん!」

 がっつりと不埒な手を掴み直す。首を振ってキスを中断すると、ロックされる前にと素早く車を降りる。固定されていない胸が心細いけれど、構っていられない。

 島田はさくらに続いて車を降りると困ったように顔を歪める。そして静まり返った駐車場に爆弾を落とした。

「やっぱり……マンション寄ったら駄目?」

 さくらは反射的に答えた。

「だ、駄目ですっ」

「片付いてなくても、全然気にしない」

「い、いえ……そういう事じゃなくって」

「……ちょっと寄るだけだけど」

 それは違うとさすがに分かった。余裕も遠慮も無く叫ぶ。

「嘘! 『えっちしたい』って顔に書いてあります!」

「あ、そう?」

 島田はバレてしまっては仕方が無いと全く悪びれない。

(開き直ったよ、この人!)

 となると別の反撃が必要だ。さくらは必死で理由をひねり出す。ぱっと目に入ったのは黄色の看板に書かれた二十分百円の文字。思わず指差して叫ぶ。

「あ、ほら、どんどん駐車料金が上がってますし! もう帰った方が――」

 そう言って追い返そうとしたが、

「駐車料金は夜間なら、ほら――一泊で八百円。逆に安いよ」

 島田は隣の看板を指差す。さくらの反撃を逆手に取ってにっと笑った。

(一泊って言ったよ、この人!)

 釣り上がる要求に、さくらはこれは逃げるが勝ちとマンションに向かって早足で歩き始める。

 島田が大股で追って来る。白い街灯に作られた影が隣に並ぶ。

「なにがだめ? どうしてだめ?」

「それは――ええと」

 さくらは自分の中でも答えが出ない事を問われて混乱した。

「責任ならとるよ。なんなら今から指輪を買って来てもいい」

 そう言って彼はさくらの左手に指を絡める。

「お店開いてませんし! じゃなくって――お願いですから早まらないで下さい! こういう大事な事はもっとゆっくり落ち着いて考えた方が――」

 半泣きで訴えるが、島田は引き下がらない。

「俺は落ち着いてる」

「何も今日じゃなくても」

「今日がいい」

 マンションのエントランスが見えたところで、島田は真剣な声で告げた。

「親に紹介したの、はじめてなんだ。そのくらい本気。分かってもらえない?」

「で、でも」

 心の準備が――と項垂れると、島田は苦しげに妥協案を出した。

「今日はもう少しだけ一緒にいたいんだ。さくらが駄目って思ったところで止めるから」

「ホントですか」

 信用ならないと上目遣いで睨むと、島田は苦笑いをした。

「…………いざとなったら警察呼んでもらってもいい」

 騙されてるような気がしてしょうがないが、島田があまりに熱心なので、さくらはこれ以上拒絶出来なかった。


 島田が一歩先を歩き、さくらの手を引く。重い足を引きずるようにしてマンションへと向かう。

 だが、エントランスのオレンジ色の明かりが顔を照らし出したとき、島田がふいに足を止める。


「――さくら!」


 大声で呼ばれて顔を上げたさくらが目にしたのは、植え込みのところで仁王立ちになる、母早百合の姿だった。

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