52 病室へ討ち入り
総合病院に着いたのは午後一時を回った頃だった。休日だというのに人の出入りが多い。ロータリーに停まる救急車の回転灯が物々しく光って、警告を放つ。まるでさくらを追い払うかのようで、回れ右をしたくなる。
落ち着きを無くすさくらは、それでも島田に促されて入り口の自動ドアをくぐった。
しかし、ずらりと長椅子の並んだロビーで、見た顔を見つけてほっとする。
「河野さん!」
「いらっしゃい、さくらちゃん」河野は家に招き入れるかのような柔らかい表情でそう微笑む。
だが、直後隣の島田を睨んで「――けいちゃん、おっそい。何やってんの、面会時間終わっちゃう」と凄んだ。
島田は彼女の顔を見て何か会得したように手を叩く。
「……ああ、そっか。姉ちゃんが母さんに教えたのか。また余計な世話焼きやがって」
すると河野は目を吊り上げた。
「あんたがいつまでもノロノロしてるからよ。何もかも内緒だったら、近いうちに振られるに決まってるって」
「まぁ、反省はしてるけど」
先ほどの喧嘩の事を思い出したのか、島田は苦笑いをしながら肩をすくめた。
「香苗姉ちゃんは?」
島田がもう一人の姉の事を尋ねると、河野は渋い顔をする。
「あの子は今日も仕事。どうしても抜けられないから、後から来るって」
「ああ、この間の受注の件か。……前工程が遅れてるからなぁ」
一気に仕事モードの二人にさくらはそわそわと着いて行く。手には病院の前の花屋で買ったガーベラとカーネーションで出来た淡い色のアレンジメントを持つが、本当に大したものではないので気後れしてしょうがない。というより、どうしても場違いな感じがして仕方が無いのだ。
河野に案内された病室は個室だった。入り口のプレートには『島田栄介』と書いてある。
島田がノックをする隣でじっと『介』の字に見入った。その行為にデジャヴを感じて、
(ん? なんか前にこんな事したような……)
さくらがちらと記憶を探ったところで、「どうぞ」と中から穏やかな声がかかった。
病室のベッドにはカーテンがかけられていた。その脇にある簡易式の応接セットには女性が一人腰掛けている。深緑のカーディガンにグレーの落ち着いたスカート。髪は肩までのストレートヘア。黒髪には艶があって若々しい。
(え、若……っ)
さくらは戸惑った。河野が三十六だとすると、若くても六十近くのはずなのに、目の前の女性は四十代にしか見えない。少なくとも母早百合より年下に見えた。島田のもう一人の姉と言ってもおかしくないくらいなのだが、一人で病室に付き添っている事を考えると、彼女の正体は島田母でしかない。
面影には見覚えがある。特に目の形はそのままだ。河野も島田も母親似なのだろうなと、さくらは思った。
「あれ? 父さんは? 寝てる?」
島田が問い、女性が答えた。
「……ええ」
女性が苦笑いをすると目元の涙袋が膨らんだ。その表情は島田のそれとよく似ていた。
さくらが挨拶をするタイミングを計っていると、島田が一歩前に出て、こちらを見た。
「ええと――こちら、片桐さくらさん」
「啓介の母です。啓介がいつもお世話になってます」
上品に頭を下げられ、さくらは慌てて頭を下げた。
「こ、こちらこそ、島田さんにはいつもお世話になってます!」
と勢い良く言ってしまって、しまった――とさくらは固まる。
「す、すみません! 病室なのに大声出してしまって――あ、あの、これつまらないものですけど……!」
半泣きで頭をさらに下げて花を差し出すと、島田母がふっと吹き出す。そして「ありがとう。綺麗ねぇ」と花を受け取り、ころころと笑った。
そしてカーテンに仕切られたベッドの方をちらりと見ると「そうね、ここじゃあゆっくり話せないわね。お昼は食べた?」と尋ねる。
「まだ」
島田が答えると、島田母は丁度良いと手を叩く。
「私もまだなのよ。ここのレストラン、ホテルと提携してるらしくて割と評判がいいらしいの。一緒に行きましょうか」
「さくらさんはどちらの部署の方なのかしら?」
島田母は軽やかな足取りで、病棟の広い廊下を歩いた。
彼女の背はそれほど高くなく、さくらより拳二つほど小さい。姿勢がよいので、座っている時よりさらに若く見えた。
さくらは意識して背筋を伸ばしながら聞き返す。
「ぶ、部署、ですか?」
まずどうしてそんな事を問われるのか。そしてどうして社内恋愛だと分かっているのか。あの小さいSHIMADAに部署などあっただろうか――とさくらが戸惑うと、
「あ、――ええと、デザインの方を手伝ってもらってる」
島田がやや慌てた様子でさくらの代わりに答えた。
島田母はじっとさくらを見つめた後、首を傾げる。
「もしかして新人さん?」
「はい。今年度採用して頂きました」
怪訝そうに問われ、居心地が悪く思いながら答えると、島田母は目を丸くする。
「でもまだ五月よ? 出会って一月でお付き合いしてるって……のんびりしてる啓介にしては珍しいわね」
すると黙って付いて来ていた河野がニヤニヤと笑いながら口を挟んだ。
「それが、母さん、違うのよぉ。片桐さんは入社したのは四月だけど、八月からうちにバイトに来てもらってるの」
河野が説明すると、島田母は何か得心したように頷いた。
「ああ、そういうことね。そっちの新人さんなの。八月? ……なるほど、じゃあいつもの啓介じゃない」
「そうそう。いつものけいちゃん」
女二人は意味ありげに笑い合い、島田が「余計なことを言うなよ」とムッとした顔になる。
島田の不機嫌さを気にする事も無く、河野は楽しそうに続けた。
「しかも、今回はけいちゃん自分から合コンで勧誘して来たのよぉ。身近に居ないなら連れて来たらって言ったら、本気にするんだから笑っちゃった。素直よねぇ」
「あらあら。それは本当に珍しいわね」
島田母も驚いている様子だったが、これにはさくらだって驚いた。
(え、サインの仕事してたからじゃないわけ?)
予想もしなかった話に思わずさくらが島田を見ると、彼は顔を赤くして慌てた様子で遮る。
「もういいだろ。――ってわけで、美奈子叔母さんに言っておいてくれ。彼女はいるから世話は要らないって」
「ああ、美奈さんは随分張り切っていたもの。残念がるでしょうねえ……あら、でも」
島田母はそこで一旦口を噤んだ。
「これからどうするの? 美奈さんもだけれど、うるさい人達がたくさんいるわよ」
「……いろいろ、考えては、いるけど」
島田が唸るとほのぼのしていた空気が一気に重くなった。不安そうな視線を一身に集めているのを感じてさくらは目を白黒させる。
(どういうこと?)
さっきから何かオブラートに包んだような言い回しが多い気がする。部外者という自覚があるから黙ってはいるけれど、自分の事と分かるとやはり気になった。
「あの――」
思い切って訊こうかと思ったところで、島田の携帯が鳴る。
「いい大人なんだから、病院では携帯は切っておきなさいよ」
母の呆れたような言葉を受けて、島田は「やべ、忘れてた」と苦笑いをした。河野も続き、さくらも大慌ててポケットを探ると携帯の電源を手探りで切る。
ほっとしながら目を上げると、目の前に食堂の入り口が現れていた。
「――あ、結構美味そう」
島田が最初に声をあげ、
「本当。メニューも豊富ね」
「今日のランチは?」
様々なメニューの並ぶショーウィンドウを前に次々に声が上がる。
(わー、すごい)
カレーにシチュー、カツ丼にハンバーグといった定番料理に加え、エビチリ、麻婆豆腐、石焼ビビンバなどの料理まである。しかもお得なケーキセットもあって、さくらも目を見張る。
同時に漂って来た美味しそうな匂いにさくらは無粋な質問を諦める。というよりは、空腹時の昼食以上の興味を持てなかったのだ。




