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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
三.清明のころ
52/91

51 不謹慎に緩む顔

「ちょっとスピード出すけど、酔ったらすぐ教えて」

 と運転に集中する島田の隣で、さくらは一人反省会を開いていた。

(ひっさびさにキレちゃったよ……)

 しかも島田に対して怒りをぶつけたのは初めてだ。不信を口に出してしまったときは、もうこれで終わったと思った。

 だがああやって決めつけられたのは我慢出来なかった。好きじゃなければ付き合うわけがないのに。

 しかしそう思っていたのは島田も一緒だったというオチだが。

 直前のやり取り思い返すと冷や汗が吹き出す。勢いで凄まじく失礼なことを言ってしまった気がする。どうして怒らないのか分からない。あの発言だけで破局してもおかしくないくらいなのに、彼が返したのは――


『好きだ』


 耳に蘇る甘ったるい声。その後に彼が見せた照れくさそうな表情に、さくらが直前まで抱いていた不信はポンと弾けてどこかに吹き飛んでしまった。自分でもお手軽だと思うし、それに何か忘れている気がしたが、最早細かい事はどうでもいい気分だった。

 頬が緩み切っている気がする。きっととんでもなくだらしない顔をしていると思うと、不謹慎過ぎて申し訳なさから車から飛び降りたくなる。

(うあああ、それどころじゃ無いって! 島田さん、お父さんが入院だよ。頭溶けてる場合じゃない!)

 切り替えが上手くいかない頭になんとか理性を呼び戻そうと、さくらは島田に気になった事を尋ねた。

「あの……お父様は何のご病気なんですか?」

「詳しい事は俺も教えて貰ってないんだけど……腹水だって。術後は薬だけでも経過は良かったんで、自宅で療養してたんだけど、また同じ症状がでたらしい。オヤジも歳だし、今回は様子見」

『ふくすい』とはどんな病気なのだろうとさくらが首を傾げると、島田は察したのかすぐに付け加えた。

「腹に水がたまる――そのままだけど」

「“また”っていうのは?」

 島田はハンドルを握ったまま肩をすくめた。

「クリスマスにさ、用事があるって言ったろ。あの日手術だったんだ」

 言われて思い当たることがあった。あの日島田のジャケットから微かに消毒液の匂いがしたのだ。

 島田は少し難しい顔をしたあと、ちらりとさくらを見た。

「あの時は余計な心配させたくなくて、黙ってた。ごめん」

「いえ」

 まだ付き合って半月くらいだったことを考えると、島田が躊躇う気持ちも分かる。

(私でも黙ってたかもなあ……)

 そんな事を考えていると、カーブを曲がったところで突如緑色だった視界が灰色に開ける。どうやら国道に出たらしく、久々に信号で車が停車した。騒音が一気に流れ込み、それと共に車内の空気が僅かに緩む。彼は心底ほっとした様子でさくらを見た。

「あー、それにしても酷い道だった。ナビには載ってないから油断した」

 めちゃくちゃ疲れたとぼやく島田に、彼もあのいかがわしい建物群に焦っていたのかと知って思わず笑いそうになる。

「本当にすみません、妙な誤解をしてしまって。島田さんがそんな事するわけないですよね」

 クリスマスにあんなことになったのにあっさり帰ったし、この間もさくらが拒絶すると無理強いしなかった。

 島田が紳士だと知っていたのに、勝手に怖がって申し訳ないし恥ずかしかった。きっとこういうのを自意識過剰というのだ。

 さくらが心から謝ると、「そんなに信用されるとちょっときつい」と島田は複雑そうに苦笑いをする。

 信号が青になり、左折すると都市高速のインター方向へと彼は車を進めた。

「で、ええと……これから病院に行くんだけど……」

 島田は東区にある総合病院の名を告げる。さくらの家とは反対方向だった。

 すまなそうな顔に、さくらは自分が邪魔なのだと察する。確かに突然の入院に部外者が居ては迷惑だろう。

 デートが終わるのは残念だが、仕方ない。すぐに気持ちを切り替えた。

「はい。大丈夫です。どこか適当に降ろしてもらえれば、一人で帰れます」

 最寄り駅はどこだろうとさくらがナビを見ると、彼は一瞬口ごもった後、思い切ったように口を開く。

「一緒に来てもらえる?」

「……え?」

 何を言われたのか分からず、さくらはぽかんと口を開けた。

 島田は前を見たまま続ける。

「なんでか知らないけど、出かけてるって言ったらデートってバレて、連れて来いって」

(え、それってつまり――)

『両親に紹介』――頭にポンと浮かんだシチュエーション。さくらは呆然と島田の横顔を凝視した。

 重大な決断を迫られるかもと心配していたさくらだったが、このような心配は全くしていなかった。万が一――というのもどういう状況か想像出来なかったのだが――に備えて例の下着を身に着けてはいたが、そんな準備は今、どう考えても全く役に立たない。

 服装だってドライブデートに相応しい――かどうかは知らないが、綿のアンサンブルにジーンズというカジュアルな恰好だった。

(こういう場合ってもうちょっと綺麗目なスカートとかの方が……あ、第一お見舞いだし、余計な事考え過ぎ? ……って花か何か持って行った方がいいよね――)

 突如懸案事項が洪水のように流れ込み、さくらはあたふたと落ち着きを失う。それをちらりと見る島田の顔はがっかりしているようでもあり、ほっとしているようでもあり、いまいち本音が読めない。

「無理にとは言わないけど……」

「いいえ、あの、突然だったので心の準備が出来てないだけで」

 そう言いながらさくらはぐっと腹に力を入れる。せっかく島田が自分の家の事を明かしてくれようとしているのだ。ずっと知りたかったことだ。この機会を逃すわけにはいかなかった。

「ご迷惑でなければ、ご一緒させて下さい」

 そう覚悟を決めると、島田は「討ち入りでもしそうな顔してる」と笑った。

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