50 はじめての喧嘩
島田はナビに向かって泣き言を言いたかった。近道をしようと抜け道を使ったのが間違いのもと。
(かんべんしてくれ。なんなんだ、このラブホの量は)
気まずいどころの騒ぎではない。先日あんな風に拒絶されたからといって、こんな安宿に連れ込もうなど髪の毛の先ほども思っていない。せっかく海辺の町へドライブという爽やかなデートでこの間の失敗を払拭しようと計画したというのに、この展開は全く予想外だった。
と言っても、仕事上、こういった業者からの受注が全くないわけではないので(看板類はSHIMADA、そして内装全般は島田美装の得意分野である)、頭の隅に知識は入っていた。
(風営法の立地規正、か)
この手の施設は建てられる場所が自治体の法令で決まっている。居住地域ではない空港や高速のインター付近に多いのは知っていたが、同じ理由で山間部にも多いのだった。
助手席のさくらが物問いたげにこちらに視線をよこしているのを感じるが、直視する勇気がない。軽蔑の眼差しでも向けられたら立ち直れない。
意識して頭を固定する。万が一にも話題に上らないように、運転に集中して看板など見えていないふりをする。
ナビでは目的地まであと四十分ほどとなっているが、それまでに後何軒のラブホが島田を苛むのだろうか。想像すると頭痛がした。
とにかく一刻も早くこのいかがわしい道を通り抜けて目的地にたどり着きたかった。
その一心で車を走らせた島田だが、十分ほど走ったところでさすがに目と肩に来た。
山道のせいで信号がないのだ。つまりずっと運転を休めない状況。それほど運転に慣れていない島田は酷い疲れを感じていた。
(コーヒーが飲みたいけど、コンビニはあったかな)
ナビを操作しようと島田は一度路肩に車を止める。
そこでふと助手席を見て、ぎょっと目を見開いた。
さくらが青い顔で震えていたのだ。
「……顔色悪いけど、もしかして気分悪い?」
「いえ」
「酔ったのかな……少し休憩する?」
「い、いいです! 大丈夫ですから!」
「でも」
熱でもないかと思わず手を伸ばすとさくらが後ろに後ずさった。
「いや!」
過剰な反応に驚くと、さくらは慌てたように言い繕う。
「あの、さすがにこういうところでは――」
「は?」
なんのことだと後ろを振り向くと彼女の視線の先には例の看板があった。看板には『ご休憩』の文字。どうやらすぐ先の路地を曲がるとあるらしい。視界にいれないように気を付けていたため、気づかなかった。
(やばい)
にわかに焦り「違うんだ」と否定しようとしたが、頑な表情をみたとたん腹の底から怒りが湧く。
(っていうかさ、俺、そこまで信用ないわけ?)
確かにこんな道を選んだ自分は迂闊だったと思うが、恋人との初めてをこんなところで強引にしようとするほど餓えていない。それくらいなら、この間マンションに強引に押し入ったし、そもそもクリスマスイブに訪ねた時にさっさと済ませてしまっていたと思う。
ああいった我慢の意味もまったく汲んでもらえていないのが悔しかった。
島田は怒りに後押しされるようにして、身を乗り出すと、さくらを助手席の座席に押し付ける。
「そんなに嫌なわけ?」
「ごめんなさい」
さくらは顔を思い切り背けたまま言った。
「それどういう意味? 何で謝るんだよ」
思わず語気が強くなると、
「…………私、降ります」
さくらは慌ただしくシートベルトを外し、車を降りようとする。
「どうしてそうなる? 話し合いも出来ないってこと?」
大体こんな猪さえ出そうな山道で降りてどうやって帰るつもりなのか。
降りさせたらここでさくらとは終わると島田には分かる。
(いくらなんでもそれはないだろ)
助手席のドアをロックして、下車を拒むとさくらははっとした様子で顔を上げた。青ざめた頬には涙の筋がある。怯え切った顔が島田の心の底の不安を言い当てているようだった。
思わず漏らす。
「つまり、さくらちゃんは、俺の事、好きじゃないんだ」
落胆はもう隠さなかった。するとさくらは急にムッとした顔をした。
「し、島田さんこそ……私の事好きなんですか?」
こういう不満げな顔は上原にはよく向けられている。だが自分に向けられるのは初めてだった。その顔と思いも寄らない言葉に島田は一瞬唖然とした。
何を今さら。島田は笑いたくなる。当たり前だ。そうじゃないと交際を申し込んだりしない。
言い返そうとしたそのとき、姉が言った『体目当ての上司』という言葉が急に耳に蘇った。
(まさか――な)
楽観視しようとした島田だが、それはさくらの言葉であっさりと阻まれる。
「だって、島田さん『一緒にご飯を食べる理由が欲しい』って。それから『こういうことはメシともじゃ出来ない』って――つまり一緒にご飯食べて、え……えっちする相手が欲しいって意味にも取れますよね。別に好きじゃなくても付き合えます。そのくらい分かりますし、色々順序だてて考えてみるとどうしてもそう思えてきて」
「ちょっと待って。さくらちゃん、何言って――」
彼女の目に映る不誠実な自分の姿に混乱した島田は、一度遮ろうとしたが、さくらは何か堰が切れたように続けた。
「私、ずっと不思議で。だっておかしいですし。島田さんもてますし、現にあんな美人の元カノがいらっしゃるのに、どうしてわざわざ私なんですか。お手軽だからですか? 島田さんは何も言ってくれないから。何考えてるか――私、分からないです」
「……は? 元カノ?」
「相沢さんです。上原さんが言ってました」
「ウエハラ?」
(あ、あいつ! 陰で何吹き込んでやがる――)
人の良さそうな顔してやる事がえぐい。怒りで頭が煮えかけたが、今はそれどころでない。凄まじい誤解がいくつも横たわっているの知って、島田は焦りに焦った。
「相沢は元カノじゃないし」
「ってことは、今も付き合っていらっしゃるんですか?」
「違うって。彼女とはなんでもない」
どうしてそうなる。突如湧いた二股疑惑に島田は頭を抱える。
「それじゃあ、あのときどうして私を追い払ったんですか。二人きりで話さないといけない話って何ですか」
今度は浮気の疑惑である。どう言ってもどんどん大きくなる誤解に島田は頭がパンクしそうだった。これは姉の言う通り、知らないうちに相当不信感を抱かれている。遊び、二股、浮気の疑いまであれば拒まれるのも当然だった。
「島田さんは――、」
まだ何かを口にしそうな唇を島田は思わず自分の唇で塞ぐ。歯を食いしばるさくらに苛立ち、鼻を頬で塞ぐと、彼女は敢えなく陥落した。
そうやって文句を無理矢理封じ込めた後、島田は顔を引きはがす。真っ赤になって言葉を失う彼女に、間髪入れずに言った。
「好きだ」
言ってしまって気が付くが、女性にこういうシンプルな言葉を使うのは初めてだった。
全身にぶわっと広がる照れくささ。赤くなっている自分を自覚して、島田は自嘲する。
(ああ、中学生かよ――)
だけど、初心なさくらにはこのくらいで丁度いいのかもしれない。
むしろ、そこから始めないから失敗したのかもと思い直した。
さくらは島田をじいっと見つめ返す。キスのせいなのか、それとも島田の言葉のせいなのか。彼を見上げて来る潤んだ目が妙に艶かしい。
同じ上目遣いでもこうも違うのかと、一気に落ち着かない気持ちになりながら、島田は尋ねた。
「さくら」
呼び捨てにすると、彼女は一瞬ぎょっと目を見開いた後「は、はい」と背筋を伸ばした。
「俺の事、好きじゃない? 俺だって言ってもらわないと分からない」
とたんさくらはぼっと赤くなった。
「え、ええと――す、」
期待を込めて思わずごくりと喉を鳴らした時だった。島田の携帯が空気を読まずにブルリと震えた。
同時に間抜けに鳴り響く黒電話の着信音。
「――島田さん。電話鳴ってますけど」
一転、冷静な指摘にげんなりする。切り替えが早過ぎる。
「いいから」
切実な訴えにも、さくらは動じない。
「切れますよ? 続きは後で言いますから」
真面目な顔で諭されて島田はため息をつく。一度壊れた甘い雰囲気はもう元には戻りそうにない。
苛立ちながら携帯を出した島田だが、ディスプレイに現れた名前に顔色を変えた。母がわざわざ島田の携帯に電話をして来るその意味を考えると、背筋が泡立った。
「啓介だけど。――なに? 何かあった?」
返って来た言葉に島田は青くなる。「わかった」と電話を切ると、さくらに謝った。
「ごめん。急用が出来て……すぐに市内に戻らないと」
「お仕事ですか?」
頷いて誤摩化そうとしたが、さくらの眉が下がったのを見て、今自分が『啓介』と名乗った事を思い出す。嘘はすぐにバレると首を横に振った。
「……いや、プライベート」
「もしかして、あの、相沢さんですか?」
疑いの根は深い。これは姉の助言のように、ある程度は話さないと駄目だと観念する。
車をUターンさせながら、島田は言った。
「オヤジがちょっと調子悪くて、また入院したって――今のは母さんからだったんだ。すぐに行かないと」




