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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
三.清明のころ
49/91

48 不釣り合いな家

「俺、何焦ってんだか」

 マンションのエントランスの奥に消えるさくらを見送りながら、自嘲気味に笑うと島田は呟く。部屋に明かりが灯るのを見届けると、踵を返して自宅へ向かって歩きはじめた。

 会社の前の路地を通り過ぎ、三本西側の通りに入る。しばらく進むとイデアール赤坂一号館という古い建物があった。

 オフィスと同じ様式のデザイナーズマンション。一号館から四号館まである建物は、二号館までが島田の父親名義の不動産だ。元々は祖父が子供家族の住処として建てたものだった。両親や伯父叔母は子供が巣立った後、各々郊外に一軒家を購入したため、今は賃貸物件になったり、子供たちの住処やオフィスとして活用されている。

 多少古くはあるが、ワンフロア一世帯、3LDKの広く小洒落たマンションは二十七歳の若造が一人で住むには不釣り合いだ。

 さくらのアパートが駄目ならいっそ自分の家に連れ込めばと思った事は何度もあったが、出来なかったのはそのせいでもあった。

 子供に甘くはない両親は、子供たちにそれなりの家賃をしっかり払わせている。そのため、別途アパートを借りて出て行ってもいいのだが、住まないと家が傷むと親が渋い顔をするし、なにより、この場所ほど職場に近くて交通の便が良い便利なところは島田の給料では借りるのが大変なのだ。

 事情を全部話してしまえるようになったら、さくらをここに連れて来てもいいと思っている。だが、今日の彼女の様子を見ていると、いつになるか分からない気がしてきた。

 島田は溜息を漏らす。

 二度目の拒絶はさすがに堪えた。距離は縮まるどころか開いているかもしれない。その原因に思い当たるとどうしても憂鬱になる。

「さくらちゃんは――俺の事、そんなに好きじゃないのかも、な」

 とぼとぼとエントランスを横切りながら、呟いた時だった。

「あら? 今日こそは泊まって来るかと思ったのに」

 足音を聞きつけたのか突如扉が開いた。玄関の脇の表札には『河野』。中から現れたのは、姉、真由美の顔。

(でたな)

 妖怪にでも出会った気分。島田はうんざりと眉を寄せる。

 これが、さくらを連れて来れない最大の理由だった。

 イデアール赤坂一号館は三階建てのマンションで、一階は長女真由美の家。二階は次女香苗が住んでいたが、彼女は結婚と同時に職場の近くに家を購入したため今は空き家となっている。残った最上階を島田は気に入っていたが、さくらの『最上階は暑い』という言葉で、なぜ残りものだったのかを理解した。

 姉は私生活では滅多に島田に干渉しない。だがこのところデートの時だけは喜んでからかいに来るのだ。

「通算何連敗だっけ?」

「数えんなよ」

 傷に塩を塗られ、ムッとして文句を言うと、姉は訳知り顔でにやりと笑った。

「さてはがっつき過ぎて振られた?」

 まさに今猛省中の事に触れられた。あまりの鋭さにぎくりとする。

「縁起の悪い事を言うな」

 思わず凄んだところで、タタタっと軽い足音と共にどんぐり眼の可愛らしい少女が顔を出す。

「なあに? けいすけにいちゃん、また・・ふられたん?」

 姪っ子の奈々は今年小学校に上がったばかりだ。ようやく手がかからなくなったと姉は言うが、別の意味で手がかかり始めたと島田は思う。母親譲りで口が達者。昔は天使のように可愛かったのに――と悲しみながら話題をそらす。

「……奈々はもう寝る時間だろ」

「まだいいんやもん。パパが九時までに寝ればいいって。ねぇねぇ、『がっつきすぎ』ってどういうこと? じしょにのってる?」

 そう言うと奈々は腕に抱えていた子供用の事典をパラパラめくった。だがまだひらがなを完全に覚えていないらしく、見当違いのページを開いている。

 どう間違っても載ってないと思いながら、島田は嘆息する。

「…………お子さまは早く寝てくれ」

「お子さまやないもん。もう一年生やもん。教えてくれたっていいやん。にいちゃんのけちー」

 ぷうと頬を膨らませると奈々は家の奥へと駆けていく。

「どういう教育してんだ。子供の前で変な事言うなよ」

 忠告するが、姉はにやにやと笑うだけ。反省の色は見られない。

「なにー? けいちゃん、図星なの?」

「うるさい。がっついてないし、振られてもねえよ」

 まだ。と弱気な言葉がついて出そうになり、島田は慌てて飲み込んだ。

(んなわけない。拒まれたけど、あれはまだ部屋が片付いてないからで……!)

 あまりに心細そうなさくらを放っておけなかった。もっと近くで慰めて、励ましてやりたかった。ただ、それだけ。確かに上原の横槍のせいで少し急ぎ過ぎた気もするけれど、付き合って半年。そろそろ求めてもおかしくないし、がっついてない――はず。それにすぐに引いたから嫌われてもない、はずだ。

(っていうか、好きな子が欲しいのは当たり前だし、別に責められるような事じゃないし)

 そう自分に言い聞かせていると、姉が鋭く切り込んだ。

それ・・のために引っ越させたようなもんなのにねぇ。狙いが外れちゃったよねぇ」

 ぎくりと顔が強ばった。

「違う。何言ってんだよ、失礼な」

 後ろめたさが湧き上がり、思わず弱々しい反論になると、姉は島田の弱点を見破ったかのように鋭く攻め込んだ。

「でもぉ、はたから見たらまるで愛人囲ってるみたいなんだけどー。五つも年下の若い子侍らせていいご身分よねぇ。美装あっちじゃそんな勝手も出来ないだろうから、戻るの嫌がるのも分かるわー」

「…………」

 姉の言葉に島田は呆然とする。まさかそんな風に見られるなど思いもしなかったのだ。だが、よくよく考えると、そうとられてもおかしくない。自分に都合の良い部屋に強引に転居させて、それから一週間も経たずに部屋を訪ねようとした。

「さくらちゃんもよくぞ断ったわよねぇ。体目当て・・・・上司・・に首切られるかもしれないのに」

 さすが根性あるわー、ますます気に入ったわーと感心したように姉は言う。

「体目当て? ふざけんな。んなことするかよ」

 無遠慮過ぎる言葉に、馬鹿馬鹿しいと島田は上階への階段へ足をかけた。だが、「啓介、待ちなさい。話は終わってないわ」と背中に鋭い声が突き刺さる。振り返って彼は思わず息を呑んだ。

 先ほどまで笑っていたはずの姉は、今は島田を睨みつけていた。

「さっきのは単なるたとえ話。私だってさくらちゃんだってそこまであんたが鬼畜だと思ってないわよ。でも――けいちゃんがどういうつもりかは知らないけど、何もかも説明しないままじゃあね、どんな風に思われてもしょうがないってことが言いたいの。本気・・なら、分かるように誠意を見せなさいよ。――そういうところ、父さんにそっくりでいやになっちゃう」

 言うだけ言って姉は扉を閉める。階段にぽつんと残された島田は、久々の感覚に妙な懐かしさを感じ、記憶を探った。

(ああ、そっか)

 やがて懐かしさの原因に思い当たり、苦笑いをする。歳を取ると似て来るとは聞いたことがあったが、目の当たりにして驚く。

「いつの間にか……母さんっぽくなってるな」

 部屋に戻ると電話を取り出す。多少緊張しながらさくらの番号を呼び出す。だがツーツーと言う通話中を示す音に肩が落ちる。

 きっと恒例の母親からの電話だろう。

 しかし、その後十分経っても三十分経っても通話中の電話にめげそうになる。立ちはだかる障壁が存在感を主張する。

 一時間が経っても通話中の電話に、痺れを切らした島田はメールで妥協した。

 散々悩んで『今日は、突然無理言ってごめん。今週末は少し遠出したいんだけど、いいかな』という短いメールを送ったが、『お返事遅くなってすみません。了解しました』と事務的な短い返事が返って来たのは深夜の事だった。

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