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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
三.清明のころ
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47 足元に落ちた影

『さっきの、もしかしたら島田さんの元カノかもなあ。さすがレベルたけぇ』

 きっと上原にとっては何気ない言葉だったのだろうけれど、さくらの胸には結構な傷がついてしまっていた。

 十分にあり得ると思ったからだ。

 突然島田を訪ねてきた相沢という名の女性は、とても綺麗な人だった。その上、どう考えても彼女は島田に気があった。それなのに、彼女を選ばずにどうして自分を選ぶのだろうと。

 自分を卑下するつもりもないが、不思議だった。

 そして島田の過去に想いを馳せていると、実は彼の事を何も知らないことに気が付いた。

 最初に尋ねたのはSHIMADAの前にどこで働いていたのかということだったと思う。あの時はさりげなくはぐらかされた。

 さくらの誕生日にも質問を躱された。就職の話をして茶封筒を出したときだ。あの中身は何だったのか、たまに思い出すと胸が騒ぐ。重要な事が書かれていたような気がしてならないのだ。

 本当は他にも色々と訊きたいことがあった。オフィスの近所とは知っているがどこに住んでいるのかとか、実家はどこなのかとか、両親は何をしているのかとか。だが、そういった話になると、さりげなく話題を変えられてしまうのだ。

 姉である河野に訊くという方法もあるが、自分の知らないところで嗅ぎ回られるのはさくらでも気分が悪い。

 大体、普通は訊かれずとも自分から教えてくれる類いの事だと思う。真剣に交際するつもりならば、なおさらだ。だからじっと待っているというのに、付き合い出して五ヶ月が経っても、いつまでもその時は訪れない。

(どうして何も教えてくれないのかなぁ……)

 遊びで付き合うような人ではないと思うけれど、それならばその証が欲しいと思うのは贅沢なのだろうか。

(私、欲張ってる?)

 薬指の指輪を親指で撫でつつ、上の空で夜道を歩いていると、「危ない!」と島田がさくらの二の腕を掴んで引き寄せた。ぼんやりしていたせいで路側帯をはみ出して車道に出ていたのだ。

 白いヘッドライトが目に入ってようやく我に返る。彼は自分が車道側に移動すると、心配そうにさくらを覗き込んだ。

「ぼうっとしてる。どうした? ――あんまり食べなかっただろ、今日」

「ええと、単に、お腹いっぱいで」

 残業もせずに誘ってくれた島田には悪いが、夕食はほとんど入らなかった。昼間にやけ食いしてしまったせいだ。相手は上原だからと遠慮なく食べたらかなり気が紛れたのだが、その後島田が機嫌を悪くしてしまったのでまた少し気分が沈んでしまった。思いのほか楽しんでしまって悪かったとは思っているが、あんな風に女性に――しかも美人に言いよられているのを見ればさくらだって良い気はしない。その上、上原の事で一方的に責められれば腹だって立つのだ。上原は単なる先輩社員だと彼だって分かっているはずなのに。

 なにより、ドタキャンした上に、二人で行けと言ったのは島田だった。まるで都合が悪くて追い払うかのようにも思えた。気のせいだと思いたいが、上原の言った『元カノ』ならば、辻褄が合うと考えてしまうのが嫌だった。

(あぁ、やだなあ。すごくモヤモヤする)

 いつだっただろうか。前にこんな気分になったのは。

 河野が姉だと知らない時に、こんな風に腹を立てた。怒る理由も権利もないくせに。

 しかし今、さくらは島田の彼女なのだ。怒る権利はある。だが、彼には怒られる事はあれど、怒った事がない。恋人同士というのは対等なはずだけれど、リードするのは島田と決まっている。五ヶ月付き合ったけれど、オフでも上司と部下の上下関係を保っているのだ。だからこそ同じ目線でぶつかって、今の居心地のいい関係を変えるのはなんだか怖かった。



 マンションに辿り着いたのは二十時を少し過ぎた頃だった。既にエントランスには煌煌とオレンジ色の灯りが点いていた。入り口の自動ドアをちらりと見た島田は、マンションと隣のビルの間の細い路地に向かう。路地にはマンションの駐輪場があるが、蛍光灯が一本だけ青白く灯っている。エントランスの灯りに比べると寂しい限りだ。

 彼が人気のない場所に移動するのは決まってキスの誘いだ。いつもは胸が躍るのに、今日はなんだか気乗りしなかった。

 さくらがもたついていると、彼は手首を引いて物陰に引き寄せ、強引に口付けて来る。

 力強く抱きしめられ、唇を割られる。貪るように性急に求められても心は冷めたまま。彼の態度が、何かを誤摩化しているように思えて、集中出来ない。

 そしてそういう感情は顕著に伝わるらしい。島田はキスを止めると不安そうにさくらを覗き込む。

「嫌?」

「……」

 首を横に振る事も出来ない。のど元まで出かかっている質問のせいだ。『昼間のあの人は誰ですか?』『どうして私と付き合ってくれるんですか?』『私の事、本当に好きなんですか?』そんな不信だらけの言葉。

 藤沢ならきっとストレートに怒るだろう。広瀬なら可愛く拗ねてみせるだろう。だが、さくらは自分が口にするとそれが酷く醜い言葉になるような気がしてならない。

 さくらが答えないと、島田は困惑顔で質問を変える。

「この頃元気がないけど、どうかした?」

 ぎくりとしたが、すぐに誤摩化す。

「なんでもないです。ちょっと疲れてるだけで」

 本当は寂しくてたまらない。一人でいると、去り際の母の寂しそうな顔が浮かんでしょうがない。心にぽかんと空いてしまった穴をどうやって埋めればいいのか分からなくて、引っ越した事さえ後悔している。そんなこと、転居を勧めてくれた島田には言えるわけがない。

 彼に縋り付いて甘えるのが正しいのかもしれない――そう思いながら、さくらは足元に落ちた影をじっと見つめた。心細い光を受けて長く薄く伸びる二人の影の間には細い隙間が空いている。一歩近づけば影は重なる。だがさくらはその一歩がどうしても踏み出せない。得体の知れない不安が邪魔をする。

 口を噤んだままのさくらに島田は焦躁を滲ませた。少し躊躇った後、彼は口を開く。

「俺、今日、家に行ってもいい?」

 彼は念を押すように付け加える。

「今度はコーヒーを飲むだけじゃないけど」

 引っ越したのだからそのうち来るだろうと思っていた誘いだ。案外早かったかもとさくらは妙に冷静に受け止めた。でも頷けない。何か、違う。今一線を越えると後悔する気がしてならない。猶予が欲しかった。

「まだ、部屋が片付いてないんです。荷解きが全然終わってなくて」

 すみません、また今度。とぺこりと頭を下げると、

「……そっか」

 すぐに引き下がって微笑んだが、島田の頬は僅かに強ばっていた。


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