45 母限定の便利さ
それから一ヶ月、さくらは新人研修に追われた。挨拶に始まり、名刺の受け渡しや電話の取り方、敬語の使い方などのビジネスマナーの基本を改めて叩き込まれた。
仕事のやり方についてはバイト中にほぼ教えて貰っていたのだけれども、それに加え、今まで曖昧にしか分かっていなかった、発注の方法やそれに伴う商品の流れなども詳しく教わる事となった。
SHIMADAは商品の販売部門を受け持つ会社だと考えればいいらしい。企業に営業をかけて、注文を受けると、その注文は別の工場へと向かう。工場はSHIMADAの商品専門の製造会社で島田製作所という名だそうだ。島田の二番目のお姉さん夫妻が経営しているらしく、そちらも規模は小さいという事だ。
だが、そういったグループ企業があると聞くと零細企業だと思っていたSHIMADAの見え方が少し変わり、さくらは若干の違和感を感じていた。
(一番上のお姉さんがSHIMADAを経営して、二番目のお姉さんが島田製作所? じゃあ、島田さんは?)
何か記憶の片隅に引っかかるものがあるのだが、どうしても思い出せない。いつか訊こうと思いながらも、そのきっかけが無く、さくらは流されるままに日々を過ごしていた。
そして、いつの間にかハナミズキの時期も終わり、世間はゴールデンウィーク一色。
新人研修も一段落して、休み明けには本格的な仕事が始まる。
その前に一休みと行きたいところだが、さくらは汚れた雑巾を手にがらんとしたアパートの一室に居た。家具がすべて運び出されたあとの部屋は春真っ盛りというのに寒々しい。
ぽつんと残されたのは人と掃除道具だけ。部屋を引き払うのを待っている間に掃除をする事にしたのだ。四年近くお世話になった部屋だ。窓のサッシまで念入りに拭き上げた。
さくらの隣では箒を手に持った母が予想どおりに渋い顔をしていた。手伝いに来てくれたのは助かるし感謝しているが、朝から文句ばっかり言っているのにはさすがに疲れてきた。特に何度も繰り返す話題は、ほとんどが新居の電話についてだ。
「さっき言いよったけど、あれホントね? 今度の家、電話を引かんって? なんでね?」
「固定なくても今は携帯で済ませる人も多いらしいしさ。連絡は携帯で十分やろ? 二重に払うのって無駄やもん」
問われる度に頭の中で一生懸命島田の助言を思い出す。前日のデートの最中に行ったのは、こう問われたらこう答えるというレクチャーで、なんだか面接の練習に似ていた。
「払ってやるけん、そのくらい」
母が拳でどんと胸を叩くが、さくらは首を横に振った。
「もう社会人やけんね、頼るわけにいかんよ。それに今って携帯の方が通話料安かったりするやろ? プラン変更したら家族間はタダになるって。やったらそっちに統一した方がいいやん」
さくらは淡々と説明する。両親が納得せざるをえない理由を島田は無理無く揃えてきたので、変に感情的にならず済んだ。
一方母はなんとか電話を引かせたくて必死のようだ。
「でもねえ――……そうそう、そうやった。お父さんが言いよったけど、ほら、インターネットとかって確か固定電話がないと駄目なんやろ」
普段そういった手続きは全部父任せにしているくせに、妙に勉強熱心である。さくらは苦笑いしてポケットから新しい携帯を取り出す。
この間の休日、初めてもらった給料でスマートフォンを買ってきたのだ。ちなみに島田と同じ機種にして、操作方法を教えて貰った。
「もともと今までもネット使ってないし。それにスマートフォンにしたけん、通信はこれで纏めてすませるつもりなんよ」
ほら、とブラウザを開いてみせると、母は物珍しそうに覗き込んだ。一通り検索してみたりすると、さすがにそれ以上固定電話にこだわる理由を思いつかなかったのか、彼女は唸った。
『ちゃんと家におるのを確認したいんよ』というのが本音のはずだが、さすがに娘への嫌疑をはっきり口にするのは躊躇うのだろうか。さくらからしてみれば今更なんだとは思うけれど。
「……ふぅん」
となんだか納得いかなそうな母だったが、世の中便利になったよねえと笑って、さくらはひとまず話を打ち切る。
その後大家さんが来て鍵を返し、転居先に移動したが、部屋に辿り着く前から母は不満顔だった。
「なんか気に入らんとよね。前の道狭すぎんね」
「そう?」
「これじゃあ車で来れんやないね。駐車場も馬鹿高いし。二十分百円ってなんね。びっくりしたよ。うちの近所やったら一日でも五百円なのに。ぼったくりにもほどがあるよ」
「田舎と違って土地が高いんやけん、しょうがないって」
母は近所――といってもマンションから歩いて五分ほどある――のパーキングの料金を見て驚いていた。商業地が近いためなのか、それでも安い方だった。そのため母は新居にもちょっと立ち寄ったらすぐ帰る事に決めていた。
さくらが無駄遣いが嫌いなのは、この母あってこそだった。
「なら、電車で来ればいいやん」
さくらは提案してみるが、予想どおりの答えが返って来る。
「電車は高いけんね。それに駅から十五分以上あるやろ、ここ。面倒くさい」
「会社からは近いんよ。徒歩十分やし」
「……なんか、ここ、好かんね」
嫌な臭いを嗅いだかのような顔。母が何か嗅ぎ付けたのではないかと、ぎくりとする。
「なんで。いいとこやん。広いし、しかも会社の借り上げだから安いんよ?」
「綺麗でもなんででも、好かんもんは好かん。オートロックとか、なんか澄ましとって感じが悪いし、前のとこの方が便利やった。車ですぐ来れたし、時間潰すところもあった」
その便利さは母限定の便利さだ。
「すぐ慣れるって。住めば都って言うやん?」
さくらは苦笑いしつつ、「もうそろそろ二十分経つよ」と母を送り出す。
パーキングから出てきた古ぼけた車を見送っていると、母が窓を開けて訊いた。
「あんた、……家に帰って来んとね?」
寂しそうな響きに胸が詰まった。『もう二度とうちに戻って来んとね?』――そんな風に聞こえたのだ。
「――夏休みには帰るけん」
答えやすいように言葉をわざと取り違えてはぐらかすと、母は泣きそうな顔をする。
しゅんとした母が妙に小さく見えて、どきりとした。
自分も泣きたくなっているのを誤摩化したくて、さくらは去り行く車にそっと手を振った。




