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リケジョの取扱説明書  作者: 碧檎
三.清明のころ
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44 店員の居ぬ間に

 四月の最初の日曜日。さくらが社会人になって初めてのデートだ。入社してから一週間はさくらも島田も色々忙しく、まともに話が出来なかった。

 新人のさくらは今のところ定時の六時退社となっているが、島田は相変わらず九時頃に退社している。そのため帰りも重ならないのだ。

 久々のデートに心も浮き立つ。さくらは手持ちの服を引っ張り出して念入りに選んだ。まだ給料は貰えていないので、買いそろえるまではいかなかったのだが、少しでも綺麗に見えるようにと努力した。

 駅を飛び出すと、公園の桜の花びらが散りはじめていた。道の隅には落ちた花びらが集まって白い筋を描いている。桜が散り去り、ハナミズキが咲き始める頃には、世間に漂う入学・入社モードも終わりを告げるだろう。

 公園からは花見を楽しむ人々の声が時折風に混じって流れて来る。出店も出ているようで、時折香ばしい醤油の匂いが漂った。

 今日の島田はシャツとジーンズとスニーカーというラフな恰好にも関わらず、眼鏡を着用していた。そのためか仕事モードの彼に見えてさくらまで態度が硬くなった。自然と背筋が伸びてしまう。

(一体、それどういうつもりですか)

 なんとなく問いにくい雰囲気だったので、代わりに別の質問を投げた。

「今日は花見をするんですか?」

 自分たちも当然公園に入るのだろうと思っていたさくらだが、それは裏切られる。公園の入り口を過ぎても島田は歩みを止めず、ようやく止まったのは西通りにある一軒の店の前。

「ちょ、ちょっと島田さん、どこ行ってるんですかー!?」

 看板を見上げ、さくらは思わず素っ頓狂な声を上げていた。

「不動産屋だけど」

 当たり前のように言われるが、そんなのは見たら分かる。聞きたいのはもっと別の事だ。思わず足を固めると、島田はさくらの手を引いて店内へと連れ込む。


「お待ちしておりました、どうぞ」

 店員に案内された椅子に腰掛けながらさくらは悩む。

(確か言ったよね? すぐに引っ越すつもりはないって)

 何度かの話し合いの末、そういう風に話はついているはずだった。様子を見て、頃合いにそういう話を出す方が賢明だと説得したのに。

「あの、引越しの話は無くなったんじゃなかったですっけ?」

「無くなった?」

 微妙に島田の声が尖る。

「あ、いえ、ええと、チャンスが来るのを待つみたいな話になった覚えがあるんですけど」

「チャンスは自分で捕まえにいかないとなかなか捕まらないと俺は思ってる」

「ああ、チャンスの神様には前髪しかないから、やって来たらすぐに掴めとか言うお話ですか」

 確かギリシア神話に出て来る神様だ。それならよく聞くとさくらは頷く。だが島田はにこりともせずに首を横に振る。

「最近は老化して掴む髪が無いかもしれないだろ。俺だったら、髪を掴まれるなら逃げる。だから自分から向かっていく事にした」

 眼鏡があるため、真面目な話に聞こえるのが不思議だが、どこまで本気でしゃべっているのかさくらには分からない。何となく罰当たりな感じがするのは気のせいだろうか。

「……はあ。神様が老化ではげ……それは、掴むのが申し訳ない感じですね」

 そもそも何の話をしていたのか忘れかけた頃、資料を抱えた担当店員が顔を見せた。

「こちらが問い合わせをいただいていた物件です。鍵は用意していますが、すぐに内覧されますか?」

「お願いします」

(問い合わせ? 妙に手際がいいんだけど)

 そんな事を考えているうちに、さくらは島田ともに不動産屋の車に詰め込まれた。

 

 五件ほど物件を回ったが、どこも基本的な条件は同じようだった。オートロック付きの鉄筋コンクリートのマンションで、二階以上。会社から徒歩十分以内で、商業地にも徒歩で行けるという好立地。

 つまりその条件だけで考えても家賃が高いはずなのだ。

 その上、部屋はかなりきれいだ。水回りも設備が新しく、なんと温水洗浄便座という贅沢品まで備えてあって、さくらは思わず黄色い声を上げそうになった。

「あと、管理費は家賃に込みになっておりますし、駐車場もご希望でしたら近隣で探せます。――当店のイチオシですよ」

 がらんと広い部屋で店員から一通り説明を聞き終わると、さくらは遠慮がちに口を出した。

「あのー……たくさん探してもらってありがたいんですけど、こんなところ、私借りれませんよ」

「大丈夫」

 だが島田は聞き入れない。というか店員と仕事モードで話を進めているので、何となく割り込めない雰囲気があった。

「キッチンとか広めがいい? 他に希望は?」

 島田は希望を聞いて来るが、基本的な条件に耳を貸さないくらいなのだ。応えてくれるかどうか謎だった。

「はぁ、ええと、広めがいいですけど、このくらいで十分です。あとはプロパンは高いので都市ガスで。南向きの部屋がよくて、出来れば三面採光。最上階は避けたいです」

 半ば自棄糞で訴えると島田は不思議そうな顔をした。

「最上階? なんで?」

「夏が暑いので」

 住まいは夏を旨とすべしと兼好法師も言っている。猛暑日が続く事が予想されるこの地域では、省エネには欠かせない条件だ。

「なるほどね」

 店員もそれはありますねと頷いている。

「じゃあ、ここは条件に一致してるわけだ? 都市ガス、南向きで五階建ての三階。角部屋だし」

「――ええと、一番の希望は家賃が安いところなんですけど」

 さくらの言葉に島田は笑う。

「家賃は気にしなくていいよ」

「いえ、気にしますって」

 SHIMADAでは住宅手当が一応出るが、家賃に対して補助は二割と決められている。家賃が上がれば確かに補助も上がるが、払う金額は相対して上がるし、補助には上限があるのだ。

(ここ絶対上限越えるって)

 何度目かのやり取りなのだが、肝心のその部分について未だ情報が提示されない。

 いつになく横暴な島田にさくらは困り果てるが、

(まぁ、いいか。最悪契約印を押さなければいい話なんだし)

 と肩の力を抜いたとき、プワンと表でクラクションが鳴り、店員が慌てた。

「あ、ちょっとすみません」

 どうやら違法駐車を咎められたらしい。車を移動させるために飛び出して行った。その様子をベランダで窺っていた島田はふっと笑みを浮かべた。

「ここ、いいな」

 島田はベランダからさくらを誘う。並んでベランダから下を見下ろすと、細い路地で店員が車を動かしている。どうやら一本先の少しだけ広い道路に停め直すようだ。

「いいって、何がです?」

「前の道が狭いし、周りにスーパーとかコンビニとかがない。駅からもほどほど離れている」

 確かにそうだけど、それは普通デメリットではないかと首を傾げていると、島田は室内に戻り、ぐるりと部屋を見回した。

「キッチンも広いし、綺麗だし」

 そして窓を閉めて耳を澄ませる。

防音・・も、賃貸にしてはしっかりしてそう。……どう? 気に入らない?」

 眼鏡の奥の笑みと含みを持つ言葉に、さくらは一瞬息が止まる。

「で、ですから、家賃さえ安ければ」

 動揺しつつさくらが再度訴えると、島田は「安いよ」と驚くようなことを言った。

「安くないでしょう、ここ。相場より高いです。きっと」

「会社で寮として借り上げるから。だから個人負担は固定なの」

「借り上げ? え、でもそんなに良くしてもらったら悪いです」

 きっと上原が贔屓だと騒ぎそうだ。そう言うと、島田は「社内規定を変えるから、もちろん上原にも適用される」と苦笑いする。

「社員になったんだから、残業免除とかは難しくなるし、帰りが遅くなるからって今のところまで送るのはちょっと大変だからね。あと交通費も会社の近くなら出さなくていい。経費は少し増えるけど、その分しっかり働いてもらえばいいんだから」

 そこで島田は眼鏡を外した。

「とにかく。これなら――引っ越す理由・・になるだろう?」

 断らせない。島田の素の目はそう言っていた。彼が本気であのアパートから出そうとしていると感じ取り、さくらは素直に喜べず不安を感じている自分にひどく動揺した。

「前に言っただろう? 君はあのアパートから出ないと駄目だ」

 俯いてしまったさくらの顎を持ち上げると、驚く事に島田は唇を重ねて来た。

「え、あの、不動産屋さんが――」

 顔を背けるが、強引に奪われる。島田らしくない不用意な行動だった。

「まだ大丈夫。玄関の戸は開いてるから人が来たら足音で分かる」

「でも」

 じゃあ余計にまずいんじゃないかとさくらは焦るが、近づいた顔に反射的に目を閉じた。

「さくらちゃん、決めて。――俺を、選んで」

 切実に聞こえて思わず目を開けると、至近距離で目が合って心臓が凄まじい音を立てた。

 直視出来ずにすぐに目を伏せると抱きしめられる。触れたとたんにキスが深まり、息が上がった。

(俺を選んでって――どういう意味? って――うわあああ、ちょっと、こんなとこで)

 さくらが働かなくなりつつある頭を叱咤したそのとき、足音が廊下から響き、島田が素早く離れた。

 玄関から店員が現れた頃には、島田は再び眼鏡を掛け直し、仕事モード。涼しい表情には直前の熱は欠片も見えなかった。

(ちょ、ちょっとそれずるくないですか!?)

 赤くなった頬を隠したくて俯くが、なんだか店員にはばれているような気がして居たたまれなかった。


 結局のところ、さくらには転居を断る理由がなかった。住宅手当を貰うよりもお得に今よりも良いところに住めるのだ。会社に近く、築年数も浅くて、オートロック。防音――はとりあえず置いておいて、鉄筋で丈夫。しかも広い。

 島田に促されるまま手続きを終えると、翌月のゴールデンウィーク中には引越しする事が決定してしまっていた。

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